誰もがインターネットやSNSで監視され、さらされてしまうこの時代。

特に有名人たちは、憧れの眼差しで注目される代わりに、些細な失敗でバッシングされ、その立場をほんの一瞬で失うこともある。

世間から「パーフェクトカップル」と呼ばれ、幸せに暮らしていた隼人と怜子の夫婦。しかし結婚6年目、人気アナウンサーの夫・隼人が女の子と週刊誌に撮られてしまう

夫のピンチが続く中、妻は番組での夫婦共演で夫を救うことに成功する。夫は以前の名声を取り戻した。が、今度は妻に過去のトラウマが迫ったとき、夫は意外な行動に出るが…。

「世間の目」に囚われ、「理想の夫婦」を演じ続ける「偽りのパーフェクトカップル」の行く末とは?




「…私ってあなたに愛されてる?」

抱きしめていた怜子が、下を向いたままそう呟いたように聞こえた。けれど、それはあまりにも予想外の言葉で、僕は思わず聞き返してしまった。

「…怜子、今、愛…って言った?」

僕の言葉に、腕の中の怜子が顔を上げ、僕を見上げる。何か言いたそうに彼女の口元が動いたけれど、言葉は出ずに、彼女の表情が歪んだ。

―あ、泣いてしまう。

思わず、もう一度抱きしめようとした僕の腕からすり抜けた怜子は、2〜3歩後ずさって言った。

「…ごめん、変なこと言っちゃった。ごめん、気にしないで。」

笑っているつもりなのだろうが、うまく笑えていない。そして笑顔を作りきれぬまま、怜子は僕の視線から逃げるように、後ろを向いてしまった。

「…怜子。」

僕が呼びかけると、怜子の背中が、ビクッと震えた。

ちゃんと話そう。僕がそう言おうとした瞬間。

「パパー。持ってきたよ。」

無邪気な声と足音で、部屋の空気が弾けたように変わってしまう。

翔太を待たせておこうとした僕の先手を打つように、怜子が言った。

「私は大丈夫だから、翔太に読んであげて。」

「母の顔」に戻った怜子は、だけど、と言う僕の背中を強引に翔太の方に押し出して、自分はさっき洗ったばかりのグラスを拭きはじめる。

早く、早く、と服の端を翔太に引っ張られながら、怜子の後ろ姿に声をかける。

「怜子、あとでちゃんと話そう。」

怜子は振り向くと、かすかに笑い頷いた。その力のない笑顔に胸が詰まり、嫌な過去がよみがえる。

―怜子のこんな顔は「あの時」以来だ。

それは、僕が未だ怜子に話せていない…「秘密」を持った時でもあった。


過去の男の予想外の登場に、妻への容赦がなくなる夫。その本意とは!?


怜子:「あなたに、愛されてる?」なんて、どうして言ってしまったんだろう。


ーこんなに緊張したのは、いつぶりだろう。

今日は俺が翔太を寝かしつけるからリビングで待ってて、と言った隼人を待ちながら、落ち着かず、さっきはルームフレグランスの瓶を倒してしまった。

こぼれ落ちた液体から立ち上る、濃すぎるベルガモットの香り。拭き取りながら胸焼けしそうになる。大切な我が家のリビングのはずなのに、まるで今は他人の家のように居心地が悪い。

「あなたに、愛されてる?」なんて、どうして言ってしまったんだろう。自分の言葉が恥ずかしくなり、後悔しはじめていた。

―ちゃんと、話すなんて…。何を説明すればいいのかも分からないのに…。

弱みをさらけ出すことが何より苦手な自分が、ちゃんと話ができるのか不安になる。

時計の針は21時を回っている。明日も朝の生放送に出演する隼人の出発は、午前3時のはずだ。彼の睡眠時間が削られていくことを心配していると、静かにドアが閉まる音がして、足音がこちらに近づいてくる。

「翔太、やっと寝てくれたよ。何か飲みながら話す?」

隼人が立ったままそう言ったけれど、私は首を横に振った。

そっか、と言いながら、隼人が私の斜め前に座る。L字型のソファーで向き合う形になった。




「…明日も早いのに、なんか、ごめんね。」

「俺の明日の時間なんて、今はどうでもいいよ。」

茶化す様子の一切ない真剣な顔でそう言うと、隼人はすぐに続けた。

「さっき怜子が言ったことと…この頃、ずっと元気がなかったのって、原因は同じ?」

直球の質問に、私は怯んでしまう。隼人から目をそらし、抱きかかえていたクッションに視線を落とす。

「黙り込んでもいいけど…。怜子がちゃんと話してくれるまで、今日は終わらせないよ。俺も…言わなきゃいけないことがあるし。」

いつもなら、私が「話したくなさそう」であれば、聞かずに放っておいてくれる隼人が、今日は容赦がなかった。こうなれば、隼人が引かないことはよく知っている。

私は覚悟を決めて、彼にとっても嫌な記憶を呼び起こしてしまうであろうことを、口にする。

「…彼から、連絡が来たの」

「彼って?誰のこと?」

名前すら言いたくない男のことを説明するのは、苦痛でしかない。尋ねられているのはわかっているけれど、その名前を口にしてしまえば、ずっと蓋をしてきた全ての記憶が蘇りそうで、私は、また沈黙してしまう。

「…まさか、智(とも)さんから?」

私の沈黙から察知したのか、隼人がその名前を口にした。私が頷くと、小さくウソだろ、と呟き、脱力しソファーの背もたれに寄りかかった。隼人にとっても予想外の登場人物だったのだろう。

「…どんな内容?」

しばらくして、そう言った隼人の声に怒りを感じ、私は少し怖くなる。

それでも…隼人の強い視線に促され、言葉を続けなければならなかった。


過去にならない男。その存在にショックを受けた夫の、意外な行動とは!?


「短いメールがきただけ。大丈夫か?って。番組で顔を見て心配してる、って。多分隼人の…スキャンダルとか、そんなニュースも見たんだと思う。」

あの人らしいな、と言った隼人の顔が忌々しそうに歪んだ。

隼人には、私があの人と付き合っていた頃に、何度か会わせたことがある。おそらくその時の彼の仕草や口調を、思い出しているのだろう。

「彼と別れたあと電話番号は変えたんだけど、メールアドレスはそのままだったから…。」

話してしまえば、たったこれだけの出来事だ。これ以上何も伝えることがなくなって黙った私に、隼人が小さくため息をついたあと言った。

「つまり、このところ怜子の様子がおかしかったのは、あの人からのメールのせい、ってこと?たった1行のあの人の文章が怜子をあんなに動揺させたの?」

そう聞かれると、何と答えればいいのか分からなくなった。メールだけのせいではない気もするし、結局はメールのせいなのかもしれない、とも思える。

さやかちゃんが現れ、友香ちゃんに仕事を奪われた時に、彼が登場してしまった。忘れ去ったはずの、消し去ったはずの男。

「…怜子にとって、彼とのことは、まだ過去になっていないんだね。俺と翔太との6年間は、彼とのことを消せなかった。」

そう言って隼人は、悲しそうに笑った。




「…隼人、私は…。」

そうじゃない、そんなことない、と言いたいのに。なぜか、言葉が喉に張り付いてしまったように吐き出せない。

彼は遠い過去のこと、と言い切れない自分が、情けない。

「…ちょっと俺の話、していいかな。」

黙ったままの私に、隼人が言った。優しい口調に救われた私が頷くと、隼人が照れくさそうに喋りだす。

「俺の秘密をバラすよ。俺が、怜子と結婚を決めた理由。世間体が悪いからとか、打算的なことじゃなかったんだよ。本当はさやかのことなんてとっくに吹っ切ってた。」

「……どういうこと?」

隼人が何の話をしているのか、うまく理解できない。

私たちは、同じ時期に婚約破棄されたから、傷ついた親友同士で「打算的に、愛のない」結婚を決めたはずだったから。

私が、よほど混乱した顔をしていたのだろう。隼人はそんなにびっくりするなよ、と言ってから、照れくさそうな笑顔のまま続けた。

「つまり、さ。何というかその…。結婚を決めた時、愛があったんだよ。少なくとも俺には、ね。」


夫の妻への本当の気持ちと…夫の秘密が、初めて明かされる!


こんなことしたなんて、なんかカッコ悪くて怜子には言いたくなかったんだけど、と前置きしてから、隼人はあの時のことを語り始めた。

「さやかに婚約破棄されたとき、情けなくて、このままじゃ終われないと思った。プライドもあったし、彼女がなんで俺を捨てたのか確かめたかった。それが痛みでも、納得できないと過去にできないし、次に進めないと思ったから。」

―納得できないと過去にできないし、次に進めない。

その言葉が、ズシンと私の胸に響く。

「で、これが怜子に言えなかった理由でもあるんだけど。俺は過去と決別するために、恥ずかしながら探偵を雇った。さやかのことを徹底的に調べ上げてくれって頼んだんだ。ちょっと怖いだろ?」

「…知らなかった…。」

そりゃそうだよ、俺が怜子には隠したかったんだから、と笑った。

「その調査でわかったことは、彼女は俺より何倍も稼ぎの良い男を選んだってこと。都内の一等地にものすごい土地を持ってるおぼっちゃま。今の旦那だけどね。しかも、俺がプロポーズした後に出会った男だった。」

ひどすぎる話に呆然とするけれど、隼人は楽しそうに話し続けている。

「最初はマジでムカついてさ。さやかを問い詰めたんだ。そしたら、私は寂しかっただけ、彼は隼人くんと違って、私が呼んだらすぐ来てくれる優しい人なの、って。私を1人にした隼人くんのせいだよ、って。すごいだろ。」

さやかちゃんのあの甘い声で脳内再生され、私までムカついてきてしまった。

「俺が働いてる姿が好き、って言ってたその口で、悪びれずにそう言った彼女が恐ろしかった。本性を見抜けなくて、プロポーズまでした自分が情けなくなったけど、結局は、結婚前にわかってよかったと思えるようになった。」

「…再会した時、どうだった?」

私は自分に置き換えて質問する。さやかちゃんが彼に残した傷は、会って蘇ったりしなかったのだろうか?

「会いたくはなかったけど、会ってみたら、あーあ、全然変わらないんだなこの子は、って思って呆れたよ。今は旦那さんに心の底から同情してる。」

笑い話にできていることが、隼人がさやかちゃんと…「過去の痛み」と決別できていることを証明している気がした。

「それで…。話を怜子からプロポーズされた時のことに戻すよ。怜子からプロポーズされたとき俺…。」

そこで一度言葉を切ると、隼人は私を見つめ直し、少し恥ずかしそうに、今まで何か照れくさくて言えなかったけど、と言ってから続けた。

「その時俺、怜子のことがめちゃくちゃ愛おしくなった。傷だらけのくせに、平気なふりして悪ぶって、キスできたら結婚しない?なんて言ってる強がりな親友が愛おしくて。結婚して俺が守れるなら、守ってやりたいと思った。」

―私が愛おしかった?…隼人が?

「怜子が言った、愛されてるか、っていう質問への答えとは違うかもしれないけど、俺は打算だけで結婚を決めたわけじゃない。怜子が信じられなくてもね。」

そして…呆然としたままの私に、

隼人は信じられない提案をした。




隼人と話した3日後。あの人にメールを返信した。

「会えますか?」

なんと打てば良いのかわからないまま、さんざん悩んで送信したのはたった1行だけ。

そして今、私は事務所の会議室ではあの男を待っている。

社長の趣味で、現代アーティストがデザインしたポップなビタミンカラーに彩られた会議室。

気の重い再会にはふさわしくない部屋だな、とかどうでもいいことを考えて気を紛らわせてみる。

その時、ノックの音がして、打ち合わせの方がいらっしゃいました、とスタッフの声がした。

私は、シャツの襟と髪型を整え、深呼吸をする。

―大丈夫、私はきっと。

自分に言い聞かせてから、私がどうぞ、と言うと、スタッフに促され、あの人が入ってきた。

少し老けてはいたものの、あの頃と同じ人の良さそうな笑顔で。

「どうぞ、座ってください。」

私が、机を挟んだ椅子を指差すと、彼は素直に従ったあと、悪びれる様子もなく、あ、そうだ今の仕事の名刺渡すよ、と胸ポケットから名刺入れを取り出した。

見覚えのある、ハイブランドの名刺入れ。私がそれを見つめてしまったことに気がついた彼が笑った。

「怜子がくれたやつ、まだ使ってるよ。気に入ってて…。」

嬉しそうに差し出された名刺。

―アートディレクター 桜井智。

自分がなるはずだった苗字が目に入って、逃げ出したくなった。けれど。

ーそれが痛みだろうと、納得できないと過去にできないし、次に進めない。ー

そう言った隼人の顔を思い出す。

―乗り越えられたら、隼人に伝えたいことがある。

膝の上で震える手を、ぎゅっと握りしめる。私は、過去の亡霊と決別するために、ここにきたのだから。

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怜子に深い傷を残した男の全貌が明らかに。怜子はトラウマを乗り越えられるのか?