―私、もしかして...?ー

結婚相談所に助けられながら、気が遠くなるほど壮絶な婚活を経て、晴れて結婚ゴールインを果たした女・杏子。

一風変わったファットで温和な夫・松本タケシ(マツタケ)と平和な結婚生活を送り、はや2年。

34歳になった彼女は、キャリアも美貌もさらに磨きがかかり、順風満帆な人生を歩む一方、心の隅に不妊の不安を抱えていた。

藤木というスパルタ婦人科医の診察に憤慨し、患者をVIP待遇する病院に転院した杏子。

女子会マウンティングにもめげずに治療に励むが成果は出ず、とうとう藤木の元で体外受精に踏み切り、“陽性”の結果を知らされた。




何だか、足元がおぼつかない。

フワフワと雲の上を歩いているようだし、まるでクラゲにでもなったように全身がユラユラとしている。

極度の緊張から解き放たれた後、あまりにも大きな喜びを感じたせいか、頭も身体も麻痺したのだろう。

杏子は思い切って、自分の頰をぐぃっとつねってみる。

「イタッ」

加減が分からず思わず力を込めすぎて、予想以上の痛みが走った。だが同時に、またしても沸々と嬉しさが心の底から込み上げてくる。

-夢じゃないんだわ...。

すると、先ほど妊娠報告をしたマツタケからLINEの返信が届いた。

「まじか、まじか!!Congrats!!今日は肉?!お祝いに肉食べにいくしか!ステーキ?焼肉?すき焼き?やっぱり肉しか!」

スケボーで華麗なジャンプを決めているマツタケのプロフィールアイコンが、「肉、肉」と連呼している。

-お祝いじゃなくたって、いつも基本的に肉じゃない...。

杏子は自然と笑みをこぼしながら、心の中で夫にツッコミを入れた。

お腹の赤ちゃんも、父親のマツタケのように、やたらと運動神経の良い明るい子に育つだろうか。気が早いのは分かっているが、まだ見ぬ我が子の妄想が次々と頭を巡る。

“妊娠する”というのは、夫婦だけでは描けない、新しい未来を手に入れることなのかもしれない。

杏子はすでに、“マタニティライフ”の幸せに完全に浸かりきっていた。


涙ポロリ。杏子の妊娠に誰より歓喜した意外な人物とは...?!


「おばあちゃん」の意外な反応


「え、え、え......?妊娠......?杏子が、妊娠......?」

数ヶ月ぶりに電話をかけた母親は、予想通りの反応を示した。

電話越しに、呆然と立ち尽くす姿が目に浮かぶ。慶應義塾大学に受かったときも、今の会社に内定をもらったときも、同じような反応だったからだ。

彼女は、ごく平凡な一般家庭の母親だった。

昔から、とにかく勉強や仕事で親の期待を遥かに上回る結果を出し続ける自分の娘をイマイチ理解できずにポカンと眺めているような節はあったが、結婚や妊娠など、恐らく彼女のスタンダードから何年も遅れている杏子にプレッシャーをかけたりしたことは一度もない。

杏子のような“バリキャリ女”という存在をどこか絵空事のように認識しているには違いないが、それでも、遠くからそっと見守るように適度に放置してくれた母親には感謝していた。

「そうなの。私妊娠したのよ。まだ全然初期なんだけど、お母さんには一応報告しようと...」

だが、これまでの報告と違ったのは、母親が感極まったように言葉を詰まらせ、涙声になったことだった。

「...お母さん、おばあちゃんになるの...?」

「ちょ、ちょっと、お母さん...」

予想外の展開に戸惑いながらも、母の涙は瞬く間に杏子に伝染した。




これまでも、それなりの親孝行はしてきたつもりだった。

両親を贅沢な食事に招待したり、ふるさと納税の半分ほどを使って米や肉、家電を実家に送っていたし、温泉旅行をプレゼントしたことだって何度もある。

だが、泣くほど感激されたのは、生まれて初めてと言っても過言ではないかもしれない。

まさか母がこれほど喜ぶなんて思っていなかったが、よくよく考えれば、杏子は一人娘だ。ひょっとすると、母は心の中で何年も孫を期待していたのではと思うと、さらに涙が溢れた。

めずらしく長電話になり、母は急に杏子を子どものように扱い、先輩風を吹かせて妊娠中の注意事項や悪阻の対策やらをしつこく娘に言い聞かせた。

「仕事でも何でも、今は絶対に無理しちゃダメ。体調を最優先にしなさいね。何かあれば、すぐに手伝いに行くから」

成人してから“親に頼る”なんて選択肢は杏子にはなかったが、思い返せば妊活...いや、婚活を始めてから、人を頼ってばかりだ。

自分には人並み以上の頭脳と能力があり、しかも美貌にも恵まれている。

だから、昔から大抵のことは一人で何でも達成することができたし、わざわざ他人の力を借りて何かを成し遂げるなんて、二流の人間のする恥ずかしい行為だと思っていた。

だが、こうして母に子ども扱いされたり、マツタケに大袈裟なほど体調を心配されたりすると、そんな高飛車なプライドがどんどん緩んでいく。

しかし、この心の“緩み”こそが、本当の意味での人としての成長なのかもしれない。

ギスギスと頑固に一人で生きていた頃より、杏子は今の自分の方がずっと“大人”だと思える。

そして今後“母”となるには、この人間関係の温かさや有り難みというものを、もっともっと学ばなくてはならない。


“マタニティハイ”に突入し、幸せ絶頂の杏子。しかし、嫌な予感が忍び寄る...?


幸せすぎる「マタニティハイ」の背後に忍び寄る、嫌な予感


マツタケの両親も、やはり大袈裟なくらいに喜んでくれた。

「まぁまぁまぁ!!なんておめでたいことなの!!お名前はどうするの?私ね、実は字画とか詳しいのよ。相談に乗るから何でも言ってちょうだいね。

タァくん、いつもみたいにヘラヘラしてないで、杏子さんをきちんとサポートするのよ。いいわね。それにしても、何て幸せなニュースなんでしょう!!」

ハンズフリーにしたiPhoneから、マツタケ母の上品な歓喜の声が響き渡る。

マツタケは少し照れたように「イェス」とか「オフコース」とか答え、杏子はiPhoneに向かってペコペコ頭を下げた。

無条件に“孫”という存在を喜んでもらえるのは、やはり嬉しい。

温かい両家の祝福によって、杏子はより妊娠を実感し始めたし、喜びが無限に膨れ上がって行くようだった。




気が早いとは思ったが、杏子はさっそく雑誌「初めてのたまごクラブ」を購入したり、「トツキトオカ」という妊娠記録のアプリをダウンロードした。

流石にまだマタニティマークを付けて出歩くことはしなかったが、「おなかに赤ちゃんがいます」というイラストを見ているだけで、穏やかで幸せな気分になる。

まさに自分が“マタニティハイ”という少々イタめな状態に突入している自覚はありつつも、身体の内側から湧き出る幸せにはどうしても抗えなかった。

道端に咲いているたった一輪の花を見るだけでも、この上ない幸福感に包まれたりするのだ。きっと、妊娠ホルモンか何かの影響だろう。

だが、これまで散々苦労をしてきた。身内だけでこの幸せにどっぷり浸かる分には、誰にも迷惑はかけないし、バチも当たらないだろう。

そんな風にして、杏子は四六時中コソコソと幸せを噛み締めていた。



「...胎嚢は確認できました。来週の診察で、胎芽が確認できるといいですが」

数日後、妊娠4週目後半の診察で、藤木はいつものようにクールに言い放った。

“タイノウ”だの“タイガ”だの、藤木はまたしても当然のように専門用語を並べたが、渡されたエコー写真には、小さな小さな点が写っている。

看護師曰く、それは“胎嚢(タイノウ)”という赤ちゃんを包む袋だと言う。このまま妊娠が順調に進めば、その中に“胎芽(タイガ)”という小さな赤ちゃんが見え、心臓の動きも確認できるそうだ。

病院から出た杏子は、さっそく初めてのエコー写真をiPhoneで撮影し、マツタケや母親に送り付けた。すぐに二人から過剰なほどの反応があり、杏子はまたしてもニヤニヤと顔が緩んでしまう。

十月十日の妊娠期間、こんな喜びを何度味わうことができるのだろうか。未来を想像すればするほど、そこにはやはり幸せしかなかった。

...だが、しかし。

翌週も、その数日後の診察でも、“胎芽”はなかなかエコーに写らなかった。

「...また4日後に診察に来てください。今は様子を見ましょう」

普段から冷たい藤木の声のトーンが、さらに下がったように聞こえるのは気のせいだろうか。

まさに幸せの絶頂で有頂天になっていた杏子の心に、徐々に嫌な予感が広がり始めていた。

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まさかの“嫌な予感”が、的中してしまう...?