駐妻【ちゅうづま】―海外駐在員の妻。

数多の平凡な妻の中で、一際輝くステータス。

それはちょっとした幸運で手に入れた期間限定のシンデレラタイム。

彼女たちがこれまでの人生で何を夢見て、何に泣き、何を喜び、何を成し遂げたのか、ここでは誰も知らない。

共通点はただ一つ、夫について、海外で暮らしていること。

駐妻ワールド。

そこは華麗なる世界か、堅牢なる牢獄か。




ピンポーン。

里香子がその音がインターホンだと気づくまでに、目を開けてからたっぷり3秒ほどかかった。

白亜の天井で、ファンがゆっくりと回っている。

東京からここバンコク、トンローの高級アパートメントに引っ越してきて、今日で2日目。

早朝、夫である彬の出勤を見送ってから、うたた寝をしてしまったようだ。モニターを覗くと、通いのタイ人メイドの姿が見える。

里香子は驚いた。モニター越しの彼女は、たいそう大袈裟な花束を抱えて立っているのだ。

先輩からの紹介で、日本語が達者なメイドと運よく契約することができたと彬が言っていた。

20年以上さまざまな日本人駐在員の家で働いていると言っていたが…もしやあの花は、日本式にならって初対面の里香子に手土産なのだろうか?

「奥様、おはようございます。今日からよろしくお願いいたします」

「おはようございます。…あの、このすごい花束は?」

里香子は母親にどことなく似ているメイドに親近感を覚えながらも、挨拶もそこそこに、彼女が手にしている巨大な花束に視線を移す。

「奥様の運転手が受け取ったようですが、彼はタイ語しかできないので、私が来るのを待っていました。素敵なカードも一緒です。こんな立派な花束をくださるなんてねえ」

バンコクに花を贈ってくれるような知り合いはいない。なにせ引っ越し2日目だ。

夫の彬を除けば、ここでの知人は2人だけ。

里香子がロンドンに留学していた頃の友人で、奇跡的に同時期にバンコクに駐在している雪乃と、数年前からバンコク情報誌のライターをしているケイだ。

今回里香子がバンコクについてくる決心を後押しした存在でもあった。

ずっしりと重い、麗しい花束。むせ返るような甘い香りにつつまれる。

添えられたカードを見て、里香子は目を見開いた。


それは未知の世界からの、インビテーションだった!?


バンコク駐妻界への招待状が呼び覚ます、8年前の記憶


“ようこそバンコクへ。里香子さんの素晴らしい日々が始まりますように。一同、貴女を歓迎いたします”

署名には、夫の会社のバンコク婦人会、とある。

―どうして昨日越してきたこと知ってるの…?

里香子は一瞬怪訝に思ったが、すぐに我に返った。当然会社は家族の渡航日を知っているし、調べることは簡単なはずだ、と気がついたのだ。

でも里香子がとっさに感じたのは、どこからか見られているような、ひやりとした居心地の悪さだった。

―駐妻。

そのキーワードに、8年前、ロンドン留学中の棘のような記憶がよみがえってきた。あれは、20歳の頃のことだ。




「里香子、私、決めたわ!絶対駐在員の奥さんになる!」

大学寮のラウンジに戻るやいなや、今や親友といっても差し支えない雪乃が大袈裟に宣言する。ワンピースの裾と栗色のロングヘアをひるがえしながら振り返った顔が紅潮していた。

「え!?昨日のパーティーのどこを見てそう思ったの?あの奥様たち、いくらクリスマス会だからって、あり得ないくらい着飾って、愛想よくして。すごく大変そうだったよ」

里香子は、ワイルドストロベリーのティーカップを温めながらお茶をいれつつ、目を丸くする。ラウンジに入ってきたケイも、同意とばかりに頷いてソファに座った。

ロンドン大学に1年間の交換留学で来ている日本人は大勢いるが、3人はそれぞれ東京の大学から来ていて共通の話題も多く、すぐに意気投合した。

ロンドンに来て9か月、昨夜も一緒にパーティーに出かけたばかりだ。

「そうよ、しかもみんな夫と子供の話ばっかり。珍しく自分の話をすると思えばつまらない持ちよりティーパーティがどうだとかさ」

ショートパンツからのぞく長い生足を組み、うんざりした顔で、ケイは続ける。

「私の右にいた奥さん、左にいた奥さんに先週のお茶会テーブルコーデのダメ出ししてたよ。『○○商社の妻としてふさわしい品格を』とかって。同じ会社の上司と部下の妻、もはやパワハラよ」

白い肌に黒髪のショートボブ。普段は化粧気のないケイは、3人の中で一番シニカルな性格である。もっとも、一番律儀に奥様方の話につきあっていたのは彼女だったが。

「まあ雪乃、見た目は清楚で可愛いから、本気で駐妻を目指すなら楽勝じゃない?なんなら昨日名刺交換した人に頼んで、独身後輩の方とお食事会頼んだら?ロンドン出張、きっと単身者も来るよね」

里香子は、湯気の立ちのぼるアールグレイが注がれたカップを二人に渡しながらソファに座る。

すると雪乃が、少々不貞腐れた様子で里香子を見た。

「見た目は、って何よ。それに、見てたわよ、里香子。結局一番名刺いただいてたのは里香子だったもん」

「里香子は見た目はクールビューティでとっつきにくいけど、頭良くて気取ってないから、話すとすごく面白いのよ。結局頭の良い男は頭の良い女が好きだからね」

ケイがこともなげに言うのを、里香子は澄まし顔でうなずき、雪乃も笑う。

昨夜は、里香子が早稲田から交換留学に来ている縁で呼ばれた、「英国稲門会」なる早稲田大学同窓会のクリスマスパーティに出かけたのだ。

それがトラブルを招くとは思わずに。とても無防備に。


華麗なる駐妻ワールド。その光と影とは?


ロンドン留学中に見た、駐在員の生態と駐妻の狂気


英国稲門会は駐在員たちの社交の場にもなっているらしい。大学は違えども留学生大歓迎とのことで、里香子は2人を連れパーティーに参加した。

就職に有利な人脈ができるかもしれないと期待していたが、ほとんどが家族連れの忘年会ムード。

今年の早慶戦がどうだこうだと言いながら都の西北を熱唱していて、特に早稲田と関係ない雪乃とケイは呆然としていたのだった。

ーでもあの人はちょっと素敵だったかな…。




里香子は、パーティーの後半に話した商社マンの坂東という男を思い出していた。

彼も、学生時代は同じくロンドン大学に留学していたという。気が付いたら30分ほども2人で話し込んでいただろうか。最後は電話番号も交換した。

「でも、里香子が最後に話しこんでた人が一番素敵だったなあ。結婚指輪してなかったけど、独身?」

さすが目ざとい雪乃が、可憐な見かけに反してやけに前のめりに尋ねる。

「クリスマスだし、家族を帯同してるならパーティーに連れてくるんじゃないかなあ。坂東さんだったかな、商社マンで、学生時代ロンドン大にいたらしいよ」

その時、里香子の携帯が鳴った。

携帯が置かれたテーブルの上に、全員の目が注がれる。画面には、坂東の名前が表示されていた。

キャーと色めきたつ2人を追いはらう仕草をしながら、里香子は通話ボタンを急いで押す。

ちょっとだけ余所行きの声で答えようと息を吸ったとき、それよりも刹那早く、女の鋭く低い声が耳に流れ込んできた。

「貴女、誰なの?主人にどんな御用でしょうか?」

不意に聞こえた女性の声、しかもただならぬ様子の声音に、里香子の頭はフリーズする。

「あ、あの、ええと、私…」

「昨夜23時頃、坂東に電話いただいていますでしょう?休日の夜に、人の夫にどんな用事があったのかしら?」

詰問口調に混乱して、うまく会話をつなぐことができない。

23時といえばパーティーが終わる頃で、坂東と電話番号を交換した。

里香子の携帯に、坂東が素早く自分の名前と番号を登録してくれ、そのあと発信ボタンを押して自分の携帯を鳴らしていた。これで交換完了、と言ったので、その履歴が坂東の携帯に残ったのだろう。

その経緯を話そうとしたが、それは坂東の妻の静かな凄みある声に遮られた。

「金輪際、坂東の携帯への電話はご遠慮くださいませ。あなた、随分お若いようだけど、人の主人に粉をかけるようなみっともない真似してないで、さっさと日本にお帰りになっては?」

それだけ言うと、電話は切れた。耳を澄ませていた雪乃とケイも、あっけにとられている。

「…これはあれね、女好きの駐在夫の携帯を毎晩狂ったようにチェックしている駐妻からの、新規登録女への牽制ね。ほら、駐在員てすごくモテるらしいから、奥さんは大変なんじゃない?」

ケイが、呆然としている里香子に同情して、訳知り顔で肩をたたく。里香子は妙にしょんぼりした気持ちで、2人の顔を見た。

疑心暗鬼になっている時期だったとしても、誰かわからない相手に喧嘩腰で電話をかけてくるとは、なんて怖いもの知らずなんだろう。見知らぬ番号の着信の中には、仕事関係者だっているかもしれないのに。

…それだけ追い詰められていたということだろうか。

―駐妻って大変なんだな…。

里香子は空恐ろしい気持ちでいつまでも携帯を見つめていた。



あれから8年。

花束を胸に、里香子は今、バンコクで駐妻として未知なる世界の入り口に立っている。どうしてだろう、この絢爛な花束を見て、あの時の記憶が不意に蘇ったのは。

「奥様、お時間です」

メイドが恭しくドアを開ける。

運転手に促され、車に乗り込めば、外の喧噪や熱気の一切が遮断された。後部座席に身を沈めると、車は灼熱のバンコクを走りだした。

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華麗なるバンコク駐妻の世界。初日の洗礼はいかに?