―私、もしかして...?ー

結婚相談所に助けられながら、気が遠くなるほど壮絶な婚活を経て、晴れて結婚ゴールインを果たした女・杏子。

一風変わったファットで温和な夫・松本タケシ(マツタケ)と平和な結婚生活を送り、はや2年。

34歳になった彼女は、キャリアも美貌もさらに磨きがかかり、順風満帆な人生を歩む一方、心の隅に不妊の不安を抱えていた。

藤木というスパルタ婦人科医の診察に憤慨し、患者をVIP待遇する病院に転院した杏子。

女子会マウンティングにもめげずに治療に励むが成果は出ず、藤木の元に舞い戻り、とうとう体外受精に踏み切った。




これまで杏子は、“フライング検査”というものの常習犯であった。

それは生理予定日より前に妊娠検査薬を試すことであるが、海外から、早期の妊娠ホルモンにも反応するキットを大量に取り寄せたりもしていた。

だが、それを一つ一つ消費していくたび、杏子が心をすり減らしていたのは言うまでもない。

一向に妊娠反応の出ない検査薬を蛍光灯や太陽の光にあらゆる角度から照らしてみたり、ネットで“しばらく時間が経ってから反応が出た”という情報を得て、ゴミ箱に捨てた検査薬を漁ったこともある。

それでも、“陽性”という一本の線は、待てど暮らせど現れてはくれなかった。

―今月もダメだった...。また1ヶ月ムダになったわ...。

そして生理がくるたび、妊娠もしないのに、一体何のために長年痛みを耐えながら血を流し続けるのだろうと思った。

病院に通い、食生活やあらゆる生活習慣に気をつけているにも関わらず、毎月見事に“陰性”という結果を受け入れなければならない虚しさは、きっと経験者にしか分からないだろう。

期待しない癖はついていたが、杏子はその度に女としての機能に自信喪失し、落胆を繰り返してきたのだ。

だが、体外受精に踏み切った杏子は、今回だけは決してフライング検査はすまいと自分に誓っていた。

もしもダメだったとしても、最後の1日...いや1分1秒の瞬間まで、自分の子宮に戻した受精卵の可能性を信じたかったのだ。


過度な期待は禁物、と分かっていても...!盛り上がるマツタケと杏子。


「ハァイ、ベイビー」 早くも芽生えた親心


「ワーオ...。タマゴがここにいるのか...」

受精卵を無事子宮に移植したあと、マツタケはもはや妊婦のように杏子を扱った。

事あるごとにそっと下腹部に手を当て「ハァイ、ベイビ〜❤️」と猫なで声を出したり、真剣な顔で耳を押し付けてきたりする。

「ちょっと、タマゴが育ってくれるかどうか、まだ全然分からないんだから...」

そんなマツタケを制し、過度な期待は禁物だとは分かっていても、杏子はほんのりとした幸せな気分を実感せずにはいられなかった。

そして、妊娠判定までは通常の日常生活を送って構わないと藤木には言われていたが、日々できるだけ安静に過ごした。

大好きなピンヒールは封印し、なるべくフラットシューズを履くようになったし、くしゃみや咳が出そうになれば、近くにあるモノをギュッと掴んでお腹に力が入らないように気をつける。

とにかく“冷え”が大敵なのは通常の妊活と同じだそうで、少し汗ばむ気候にも関わらず、日中はホッカイロをお腹や背中に貼り、寝る前はお灸で身体を温めたりした。




食事には元々気をつけていたが、今自分の口に入るものが実際に赤ちゃんの血肉になるかもしれないと思うと、これまでの“神経質さ”とは異なる、愛情を伴った健康志向が芽生えたような気がする。

気が早すぎるのは分かっていても、そんな“母性”のような感覚が自分に生まれたことに、何だかくすぐったい嬉しさがあった。

だが、それでも妊娠にまで至る確率は良くて30%強。

いくら腕が良いとされる藤木でも、35歳という杏子の年齢を考慮した体外受精の成功率は、現代の医療ではそれが限界だそうだ。

ここからは、もう運試しに近いかもしれない。

―とにかく今は、なるべくリラックスして、笑顔で過ごそう...。

実は、恐怖の採卵時に手を握ってくれていた恰幅のいい看護師が、“笑顔でいることで妊娠率が上がると言われている”とコッソリと耳打ちしてくれた。

藤木はそういった非科学的で根拠のない法則は嫌っているそうだし、杏子自身も、元々占いやおまじないのようなものに頼るタイプの女ではない。

しかしこの時ばかりは、こういったジンクスは心の支えになったし、柄にもなく近所の神社に神頼みに足を運んでしまった。

そして、そんな期待と不安の混じったフワフワとした日々を過ごすうちに、とうとう妊娠判定の日がやってきたのだった。


待ちに待った妊娠判定。その結果は...?!


「生きた心地がしない...」


「今日は妊娠判定ですね。それではまず血液検査です」

「はいィ...」

看護師に返事をすると、声がつい裏返ってしまった。

昨晩から緊張でほとんど眠れず、マツタケに何度も「カムダウン」と宥められたり、ハチミツ入りのやや甘すぎるホットミルクを差し出されたりした。

だが、病院に一歩足を踏み入れてからは、もはや緊張どころではなく、心臓が別の生き物のようにバクバクと大きな音を立てて暴れている。

血液検査の結果が出るまでの約1時間が、途方もなく長く感じた。その間はスマホやパソコンをいじっても、本を読んでみても気持ちは1秒たりとも落ち着くことはなかった。

やたらと喉が渇き、持参したペットボトルは早くも殻になってしまっている。

―もう、生きた心地がしない...。

「松本さーん、診察室へどうぞ」

そんな極限状態に疲れ果てたとき、とうとう杏子の名前が呼ばれた。




藤木はいつものように、これまでと一切変わらぬ無表情で席についていた。

皺一つない白衣に、彫刻のように美しい顔。彼の発する独特の威圧感を前にすると、悪い結果を想像せずにはいられない。

「結果は“陽性”でした。松本さんは、現在妊娠3週4日目です」

だが、妊娠の結果は、あまりにも呆気なく知らされた。

「......え?」

“陽性”という藤木の言葉はハッキリと耳に入ったが、彼の顔つきも声のトーンもいつも通り事務的で、良いニュースを知らされたとは思えない。

だが、そこで隣にいた看護師が少しだけ口角を上げ、一枚の小さな紙切れを差し出した。

―本日の結果は“陽性”です―

そこにはなんと、出産予定日まで記載されている。

「う、うそ......。本当ですか......」

杏子は思わず下腹部に両手を添えた。そこには確かに、新しい命が誕生してくれたのだ。

「嘘ではありません。本当です。ただ、今は妊娠超初期という大事な時期です。しばらくは定期的に通院して頂きます。また、ハッキリ申し上げますが、心拍が確認できるまでは妊娠確定とは言え...」

―赤ちゃんができた...!松本家に家族が増える...!!

冷静になろうとしても、身体の内側からジワジワと力強く湧いてくる喜びにはどうしても抗えない。必死に堪えるも、杏子の口元は緩み、目頭もジンワリと熱くなっていた。

すでに結婚4年目、不妊治療を始めて約1年。だが、たった1回の体外受精で授かった自分は、どちらかと言えば幸運だろう。

マツタケ、藤木、看護師、話を聞いてくれた由香、そして会社のチームのメンバーに神頼みした神社など、自分を取り巻くすべてに感謝を捧げたい気分だ。

藤木は相変わらず厳しい口調のまま喋り続けていたが、それ以降の言葉は、もうほとんど杏子の耳に入らなかった。

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すっかり幸せモードに包まれる杏子。しかし、そう簡単に平穏は訪れない...?