まるで90年代トレンディドラマの、主人公のような男がいる。

彼の名は、一ノ瀬瑛太。ニックネームは“イチエイ”。

華やかなイメージの広告代理店の中でも、「エリート」とされる、大手自動車メーカーの担当営業だ。

慶應義塾大学卒業。港区の大手広告代理店勤務。“花の第1営業部”所属、35歳、独身。

エリート街道をひた走ってきた瑛太は、このまま順調に出世できるのか…?

これは、東京でしのぎを削る30代サラリーマンの、リアルな心の叫びである。

初めてチームリーダーを任されて臨んだ競合プレゼンは、まさかの結果となった。その後屈辱的に、後輩の部下になりながらも、なんとか再プレゼンが終わった。そんな瑛太に、また新たな試練が…。




「一ノ瀬、ちょっとこっち来れるか?」

航が仕切る、プレゼン結果報告の打ち合わせを終えて会議室から出ると、突然、本部長から声をかけられた。

-こんなタイミングで本部長から?…一体何の用事だ?

不審に思いながらも、もちろん断る訳にはいかない。

「はい、すぐ伺います!」

慌ててデスクに戻ってジャケットを掴み取り、本部長室に向かった。

「一ノ瀬、入ります」

意を決してドアを開けると、またしても思いがけない人物がそこには座っていた。

「あ、遠藤部長。ご無沙汰しています」

「アホか、お前。俺は今“本部長”や。けど、久しぶりやな」

瑛太が、新入社員当時に配属されたテレビ部時代に、隣の部署の部長だった遠藤本部長が部屋にはいたのだ。

-彼は、数年前に異動しているはずだが。

「大変失礼しました!」

慌てる瑛太に、“イチエイ”の本部長が話を切り出した。

「遠藤本部長は、君も良く知ってると思ったんだけどな。今は、関西の第三営業部を担当している。実は彼と私は同期入社でね」

本部長になっても“同期”というのは、やはり特別な存在のようだ。

-でも、そんな遠藤本部長が、なんでこんなところに。

自分が呼ばれた意味がわかっていない瑛太に、本部長は話を続けた。

「一ノ瀬くん。この前の再プレゼン、君も大いに活躍したそうだね」

不敵な笑みを浮かべながら珍しく褒め言葉を口にする本部長に、瑛太は嫌な予感を感じ取っていた。


本部長のたくらみとは……?


「実は遠藤本部長が、優秀な営業部長候補を探していてね。僕が、君を推薦しておいたんだよ」

-さっき、柄にもなく俺のことを褒めていたのはそういうことか!

人事はトレードのようなものだ。自分の本当に必要な人材は手元に残しておきながら、“カード”として使える人材も、本部長からすると貴重だ。

「本社の“イチエイ”から、エース営業が来るなんて言うたら、ウチの営業部の奴ら、気合い入ると思うわ」

恐らく本部長は、遠藤本部長から相談された時に、“ちょうど良い”人材として、瑛太を選んだのだろう。

それなりの年次。独身。遠藤本部長とも面識有り。“一応”チームリーダーも経験した。

-送り込んだら、あとは知らない。

そんな本部長の心の声が、聞こえてきそうな気がした。

「もちろん、部長昇格が確約されている訳じゃないが、一ノ瀬くん。君にとっても良いチャンスじゃないか?」

瑛太は、東京生まれの東京育ち。

関西には、全く縁がない。

確かに、“同期初の部長昇格”を考えると、全く悪い話ではない。

ただし、もちろん部長になれる保証はないし、それがいつの話かもわからない。

確かにちょっと前の瑛太なら、それでも喜んで飛びついていたかもしれない。ただ、この前の浩司の決断を聞いて、瑛太自身考えることが増えた。

-本当に自分は“同期初の部長昇格”なんてことが目標なのか。こんなに会社に振り回される人生で良いのか。

「大変ありがたいお話ですが、少し考えさせて頂けないでしょうか?」

瑛太の反応は、本部長には意外だったようだ。

-また、俺に逆らうのか。

そんな思いからか。本部長の眼差しが急に険しくなった。

「お前もまだまだやなー。出来る男は、チャンスに躊躇なんてせぇへんで」

せっかくの“良い話”だ。遠藤本部長も明らかに面白くない、と言う顔をしている。

「一週間や。それまでに、どうしたいか返事してくれ」

遠藤本部長は、そう言って立ち上がり、次の予定があると足早に部屋から出ていった。

「一ノ瀬くん、良い返事を期待しているよ」




瑛太が部屋から出ようとすると、本部長が声をかけてきた。

-所詮、俺はこの人たちの駒なのか。

そう思うと改めて、浩司の言葉が思い出された。

ー瑛太、本当に今の仕事好きなのか?ー


決断まであと1週間…。


「じゃあ今日は、久しぶりに楽しく飲みましょう!いらっしゃいませー!」

プレゼンが続き、大好きな“会合”もご無沙汰だった瑛太は、相談に乗ってくれたお礼も兼ねて、浩司と博史を誘って久しぶりの会合を表参道の『シカダ』で開いていた。




「瑛太。お前まだそんな飲み方してるのか?」

そう言ってニヤリとする浩司や博史も、楽しそうに飲んでいる。

今日の対戦相手の幹事はゆるふわOLの真希だ。

さすが飲み慣れているだけあって、30代男子の対応も手馴れており、気を使いすぎなくて良いのが今の瑛太には助かる。

今の瑛太は“あわよくば”なんて思いは無い。ただ、気晴らしに楽しく飲みたいだけなのだ。

「でも、浩司が辞めて農家になるのはちょっとビックリしたなー」

その場で初めて聞いた博史は、当然ビックリしていた。

「実は、俺もちょっと二人に話があって」

瑛太は、切り出した。

「本部長に呼ばれてさ、部長昇格含みの話があるんだ」

瑛太がチームリーダーを任された競合プレゼンが敗退していたことを知っている二人は、意外そうな顔をしつつも、

「すごいじゃん瑛太。さすが我ら同期の“イチエイ”くんだな」

そう言って、自分のことのように喜んでくれた。

「ただし、関西支社に転勤するのが条件なんだ。それに、昇格も確約されてる訳じゃない」

二人のトーンが、さっきまでとはぐっと変わったのは、瑛太もすぐに感じ取った。

もちろん関西支社への異動は“左遷”なんかじゃない。

ただ、ずっと東京本社に勤務しているメンバー、なおかつ関西に縁がない人間からすると手放しに“栄転”と呼べる打診でもないことは確かだ。

「でも、まぁ“同期初の役員就任”をずっと目標としてた瑛太にはチャンスじゃないの?まずは、同期初の部長昇格」

博史は瑛太を応援しようと、前向きな言葉を並べる。

「けど瑛太って生まれも育ちも、それに入社してからもずっと東京だろ?確かに悪い話じゃないけど、会社にそこまで人生左右されて、本当に良いの?」

会社を辞め、新しい生活を始める決意をしている浩司は、そう問いかけてくる。

どちらの言うことも、もっともだ。

あとは自分がどう決断するか。

「やっぱり、大企業のサラリーマンって大変だねー。私、転勤とかありえないし!東京離れるなんて考えられないよ。東京で役員目指しますって言ってみたら良いじゃん!」

会話を聞いていた真希が、横から口を挟む。

-そんなこと、そんな簡単に本部長に言えたら、苦労しないよ。ゆるふわOLは気楽で良いよなー。

瑛太も思わず苦笑いをしてしまった。

決断まで、あと1週間。

瑛太の心は、これまでの人生で一番と言っていいほどに揺れ動いていた。

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瑛太が出した結論とは。