使い捨てT字カミソリは貝印の代名詞。現在でも国内でトップシェアを占める(写真:貝印)

温泉浴場や、ホテルのアメニティでよく見掛ける「T字カミソリ」。「KAI」のマークで知られ、国内の使い捨てカミソリの分野で4割近いシェアを握る「貝印」は、2018年の今年、創業110年を迎えた。2017年3月期の売上高はグループ連結で465億円、うち半分を海外が占める。なぜ同社は海外でも通用する刃物メーカーに成長できたのか。その足跡を追った。

刃物の町から世界へ

古くから鍛冶屋が集まり、刃物の町として知られている岐阜県関市。明治41年(1908年)、自身も刀鍛冶であった創業者・遠藤斉治朗(さいじろう)氏が、この地でポケットナイフ(折り畳みナイフ)の生産を開始したことからその歴史は始まる。


この連載の一覧はこちら

事業拡大を目指す斉治朗氏の目に留まったのが、まだ珍しかった安全カミソリ。

当時、主流であった直刀タイプのカミソリと比較すると、個人が「安全」にひげそりできる道具だったが、高価な輸入品のみで手の届きにくい時代であった。そこで斉治朗氏は、1932年に関安全剃刃製造合資会社(現フェザー安全剃刀)を設立し、初の国産カミソリ替刃の生産に携わることになる。


初代社長の生家で1908年の創業時には工場となったKAIグループ発祥の地(写真:貝印)

職人肌で厳格な性格、関市の有力経営者として複数の企業の設立にも関与し、カミソリ生産をはじめとした地元財界の発展に寄与した初代斉治朗氏。

対して、2代目遠藤斉治朗氏は、商人の町、大阪で早くから丁稚奉公して働き、柔軟な発想で商売に長けた人物であったようだ。

当時、貝印グループにはメーカー機能を担う子会社が多かった中で、終戦後の1947年、名古屋にカミソリや刃物類の卸を手掛け、現在の貝印の前身となるフェザー商会を設立。貝印は生産・販売両機能を備えた刃物の総合企業として地盤を固めることになる。

1951年、銭湯などに置かれていた「軽便カミソリ」(使い捨てカミソリ)に着目した2代目斉治朗氏は、この製品に初めて「貝印」の名前を付けて販売を開始した。海外進出もこの時期から本格化する。当時、日本の刃物産業は海外企業からのOEM生産も多く、もとより輸出は行っていたのだが、2代目はそれだけでなく、社内に貿易部を設け、自社ブランド「貝印」の売り込みに先鞭をつけていた。

1956年、初めて海を渡った貝印製品はラシャ切鋏(裁ちばさみ)で香港向けだった。ちなみに同時期には、2代目が開発した「ナイフ付き爪切り」を南米ベネズエラに輸出、現地で好評を博したというから、グローバルな視点での経営は当時から始まっていたことがわかる。

時代も貝印を後押しした。高度経済成長期の日本において、ダイエーなどの大型量販店、GMSの発展は目覚ましかった。刃物を中心に生産、販売していた貝印だが、広い店内で幅広い品ぞろえが必要な量販店の求めに応じる形で、刃物からその先の台所用品など周辺商品の提案も増えていき、品ぞろえを急速に増やしていくことになった。

外資メーカーの進出が逆風に

日本の経済発展とともに大きくなり、身近な刃物のメーカーとしての地位を固めていた貝印。現代表の遠藤宏治氏は現在の「KAI」マーク導入などの社内の下積みを経て、1989年から3代目として新生KAIグループを率いるのだが、その前途は順風満帆というわけではなかった。


3代目となる、遠藤宏治現社長(写真:貝印)

これまで二人三脚で、歩みを進めてきた大型量販店などの小売業が、バブル崩壊により失速。貝印にとっては価格破壊の弊害が目立つ形になった。単価・売り上げ共に上がらず、宏治氏が社長就任当初は売り上げ横ばいの状態が続き、収益性も厳しい状態に陥っていた。

また、看板であるカミソリ事業の未来も明るいとは言えなかった。日本国内ではジレット、シックなどの外資製品がシェアを拡大。貝印は使い捨てカミソリを主に手がけており、他の国内替刃メーカーと比較すれば、影響は小さかったが、外資の脅威を否が応でも意識せざるをえない状況であることには変わりはなかった。

そこで宏治社長は、現状打破に向け2つの方針を打ち出した。1つが海外進出の強化だ。先代が始めた海外販売をさらに押し進め、1990年代には海外生産へ舵を切り、中国やアメリカでの工場稼働に結び付けた。そしてもう1つがメーカーとして技術力強化への回帰だ。宏治氏はあえて競争が激しい替刃分野に注力し、当時はメジャーでなかった3枚刃の開発が進められた。


世界初の三枚刃替刃式カミソリ「K-3」(写真:貝印)

今では、4枚刃、5枚刃が当たり前のように店頭に並ぶ時代だが、1枚刃が開発されたのが1901年。2枚刃が販売されるのが1970年ごろであり、その後は大きなイノベーションは起きていなかった。この分野で後発の企業として「アピールするためにも世界初が欲しかった」と宏治氏は振り返る。

2枚から3枚にするまでに、構造上の問題もさることながら、貝印がこだわったのは価格であった。枚数が増える分だけコストも増すのだが、そこをいかに消費者にとって値打ちある価格で提供できるか。期待に応えるため、2年の開発期間を経て、1998年世界初の三枚刃替刃式カミソリ「K-3」(税抜き1000円、替刃5個付)を発売、リリースからわずか1カ月で生産が追い付かなくなる人気商品となった。

また、宏治氏の読みどおり、3枚刃を開発したメーカーとして海外でも広く「貝印」が知られ、海外での仕事も増加していったという。こうした挑戦が、現在の海外売上高比率の高さにつながっているのだ。

お風呂場からキッチン、病院、ペット用美容院まで

ただ3枚刃の開発から20年が経ち、替刃市場では外資に水をあけられている。ドラッグストアや小売店の売り場をのぞけば一目瞭然であるが、国内の替刃カミソリ業界を見るとシック、ジレットの2強が実に9割近くを占めている。替刃は一度本体を買うと安定して採算の良い替刃の交換需要が見込めるため、使い捨てより利益率が高い。市場として魅力的であるため、競争も激しいのだ。

そのため現在はもともと強みとしていた「使い捨てカミソリ」に回帰し、外資系メーカーにはできないこまやかな顧客対応を強みにホテルのアメニティをいっそう強化。また爪切りや缶切りといった刃物製品のラインナップの広さを生かし、合わせ技でコンビニPBなどへの採用が広がっている。

実際、貝印におけるカミソリ事業は売上高の22%で、あとは調理器具が35%、爪切りなど美粧用品が21%、メスなどの医療用品7%と、幅広い事業がグループを支えている。

取り扱いアイテムは1万アイテムを超え、なかでも海外で圧倒的に評価されているのが包丁だ。主力アイテムである「旬」は、日本食ブームも追い風となり、欧米を中心に人気を獲得。確かな切れ味が評価されている。


欧米を中心に人気の包丁「旬」。デザイン性への評価も高い(写真:貝印)

2007年からは、従業員が普段の生活で気づいたことを集める制度を設け、商品開発にも生かしながら毎年200点以上の新製品を生み出し続けている。

創業者が関の刀鍛冶として作り出した製品を、2代目が世界に売り込み、2人が見た道の先を、今3代目は歩んでいる。「老舗企業」貝印は、時代の変化に柔軟な発想の古くて新しい企業であった。