鹿児島県指宿にある天璋院篤姫像。キリリとした表情に、幕府が求めた“薩摩の強い姫君”という理想の奥さん像を見てとれる。

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■ 江戸無血開城の陰に強くて切ない2人の姫あり!

大奥跡の広場にある木柱。オフィシャル携帯アプリを使うと、ここで音声ガイドを聴くことができる! 一緒に訪れる家族や友達に披露するとポイントが高い。

残りあと数日のゴールデンウィークで東京観光に来る人や、都内近郊で楽しみたい! という人のために、今回は幕末維新の女性たちにスポットを当てた史跡をご紹介! 女性の史跡には、男たちのそれとはちょっと違った魅力があるのです。

NHK大河ドラマ『西郷どん』で北川景子が好演し、俄然注目が高まっている天璋院篤姫。薩摩島津家の分家の出身で、本家から公家の近衛家を経て徳川幕府の13代将軍・家定の正室に入った人だ。その後、明治維新直前の江戸総攻撃の際、旧幕府を倒そうとする実家の島津家と嫁ぎ先の徳川家との間に挟まれるが、“強い姫さま”の評判通りに両者の衝突を避けようと奮闘する。

篤姫の活躍の舞台は、江戸城大奥だ。東京メトロ大手町駅から皇居東御苑の中へと進んでいくと、草花が咲き乱れる庭園に出る。今ここに広がる原っぱが、かつて大奥のあった場所だ。夫で将軍の徳川家定が生きている頃から、篤姫はこの大奥で戦ってきた。最初の戦いは、家定の後継者をめぐる将軍継嗣問題だ。

この時、篤姫は名目上の養父である島津斉彬の意向を受けて、一橋慶喜を推すため奮闘したことは、大河ドラマでも描かれた通り。しかし問題は慶喜、ではなくその父親の水戸徳川家の斉昭。この人がまあ、大奥の女性たちから毛虫のように嫌われていて、そのとばっちりで慶喜は不人気だった。斉昭が嫌われた理由は、ずばりセクハラ。日常的に大奥の女たちの体を触ったり卑猥なことを言ったり。ともあれ、この時は奮闘空しく篤姫は敗れ、14代将軍は紀州徳川家の慶福(家茂)に決まった。

次に篤姫が表舞台に登場するのは、慶応4年(1868)春の江戸無血開城の時。ちょうど150年前の今頃の時期だ。江戸を総攻撃するため、東海道・中山道から驀進してくる討幕勢力の中心は、実家の薩摩藩であり、そのまた中心人物はかつての家来・西郷隆盛だった。

その西郷に、篤姫は侍女の幾島を通じて嘆願書を送る。

「徳川は大切な家柄であり、徳川家の安堵を朝廷に願う。嫁いだ以上、私の生きているうちに徳川にもしものことがあれば、あの世で面目が立たない」

亡き夫・家定への誠を貫こうと寛大な処置を願う想いに、西郷どんも涙したという。その後、勝海舟と西郷の会談が無血開城でまとまり、江戸が戦火から救われた陰には、篤姫のこうした活躍があったのだ。

もう一人、江戸無血開城に携わったお姫さまがいる。孝明天皇の妹の和宮だ。相次ぐ天災と飢饉、さらに諸外国からの軍事的脅威で荒れたこの時期、幕府と朝廷が一体となって危機を乗り越えるべきだという「公武一和(公武合体とも)」の考え方が主流になった。公は朝廷、武は幕府のことだ。その両者が一体となる象徴として、天皇の妹である和宮が、幕府の将軍に嫁ぐことになった。その将軍とは、かつて篤姫が推した一橋慶喜のライバル、14代・徳川家茂である。

実は家茂に嫁ぐ前、和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約していたが、それを断ち切って京から遠い江戸に輿入れすることになった。その時、江戸に入る手前の板橋宿の史跡とエピソードをご紹介しよう。

都営地下鉄板橋本町駅から徒歩5分ほどの所に、“縁切榎”がある。古来、悪縁を断ち切るご利益があるといわれ、今も参詣者が絶えない史跡だが、望まない結婚も短く断ってくれるという言い伝えがあった。板橋宿から江戸に入るルート上にこの榎があり、皇女・和宮の輿入れも当初はここを通るはずだったのだが、あまりに縁起が悪いとコースを変更したという。あるいは榎全体を大きなカバーで覆って隠したともいわれる。

しかし榎を迂回したり隠さなくても、和宮と家茂の結婚生活に心配はなかった。京の都の御所暮らしから、慣れない武家の、しかも遠い江戸での生活を案じた家茂は、和宮を気遣い、時間をかけて愛を育んでいった。次第に和宮も打ち解けて、はた目にまぶしいほど仲睦まじく過ごすようになった。

慶応2年(1866)7月、家茂は長州征伐のために大坂に行ったまま病没するが、生前、妻への土産に西陣織を買い求めていた。出発前に和宮から望まれていたのだ。和宮は夫の形見になってしまった西陣織を袈裟に仕立てて喪に服し、この衣の美しさも君(家茂さま)あってのことなのに、という意味の歌を詠んで偲んだ。

その後慶応4年、薩長土肥を主軸とする討伐軍が江戸に迫ると、徳川慶喜の助命嘆願書を討伐軍に出し、その甲斐もあって江戸城は無血開城、戦火を避けられたのだ。なお嘆願書を宛てた東征大総督、すなわち討伐軍の総大将は、かつての婚約者・熾仁親王だった。

■ 姫だけじゃない! 幕末の男を支えた“男前”の女たち

切なくも芯の通ったお姫さまたちの史跡を見たら、今度はその対極、草莽(大衆)から出た男を支えた女性たちの史跡に行こう。まずは長州ファイブの一人で、大日本帝国憲法の起草に携わり、初代内閣総理大臣になった伊藤博文の妻、小梅さんの史跡だ。

博文はとにかく女にだらしがない人で、下関の芸妓だった小梅にひと目惚れした時にもすでに奥さんがいた。その後、先妻と離婚して小梅と再婚してからも、女グセの悪さは直らなかったが、小梅は夫が愛人たちを家に呼んだり、風邪の看病をさせることを許し、その帰りに土産を持たせて玄関まで見送るなど“男前”な対応をした。現代感覚では、夫婦仲はさぞ冷めていたと想像しがちだが、この二人はそうじゃなかった。微笑ましい関係を感じられる、この史跡を見てほしい。

横浜シーサイドラインの野島公園駅から徒歩5分。駅名にもなっている公園の中に、旧伊藤博文金沢別邸がある。博文は現在でいう湘南エリアが大好きで、ことに金沢八景や大磯を愛し、憲法を起草する前にもこの別邸にやって来た。ここから小梅に、なんとも無邪気な手紙を送っている。

このあたりはたくさん魚が獲れるし貝拾いも楽しい! と子供のようにはしゃぎ、「余程おもしろく候」と書いて小梅を誘っているのだ。実際のところは愛人問題を悲しみもしたはずの小梅が、最後まで博文を支え続けた理由は、稚気に溢れた夫のこんな部分をあきれながらも好んでいたからだろう。

当時の面影を残すこの別邸で、伊藤博文の資料や調度品を見つつ、縁側から広がるオーシャンビューを眺める贅沢! 連休後半に、初代総理大臣もオススメの潮干狩りや、近くの八景島シーパラダイスと合わせて訪れてみてはいかがだろう。

“男前”の幕末女性といえば、坂本龍馬の妻・おりょうの名を挙げないワケにはいかない。おりょうさんもまた、小梅さんに負けず劣らずカッチョよかった。有名なのは、龍馬が殺されかかった寺田屋事件でのあの活躍。京伏見の船宿・寺田屋に滞在していた龍馬を、幕府の捕吏が襲撃した時、おりょうさんは入浴中だった。しかし異変を察知するや風呂から飛び出し、龍馬のいる二階にダッシュ! この時、全裸だったとも上半身裸だったとも。ともかく危機を急報し、龍馬を救った。

おりょうさんは龍馬の暗殺後、その故郷の土佐や京、東京、神奈川を転々とし、最後は横須賀に暮らした。墓も同地の信楽寺に建てられたが、墓石には「龍馬之妻龍子」と彫られている。当たり前じゃん? と思われるかもしれないが、実はおりょうさんは西村松兵衛と再婚して、名前も西村ツルと変えていたのだ。

しかしこの松兵衛との生活で、酒を飲んでは「私は龍馬の妻だ!」と絡むことしばしば。それもあってか松兵衛ともやがて別居。心の中にはずっと風雲児・龍馬がいたのだろう。松兵衛も別居はしたものの、その悲しみを理解し、また愛も残していた。おりょうの死後に墓を建てる際、賛助人となり、前記の文字を墓石に彫ることを承知している。松兵衛のそんな優しさを知っていたからこそ、龍馬の型破りな妻は第二の人生をこの人と添おうとしたのだろう。

いかがだったでしょう? 胸キュンありセンチメンタルあり男前ありの、幕末の女性史跡! GWの後半に、男たちの史跡とは違った味わいを楽しんでください。

■ 今週の『西郷どんナナメ斬りッ!』

幕末維新が大好きな俳優・声優・歴ドルたちが、NHK大河ドラマ『西郷どん』をより楽しむために、多彩なアングルで語りまくるトーク動画。今回はドラマの第16回をベースに、マペヲ隊員が博多まで行って、西郷隆盛と僧・月照が入水自殺する直前のレア史跡を撮ってきました。また、原作小説にはあってドラマになかったエグめの一幕を、同じくマペヲが好演! 絶妙な合いの手ともどもお楽しみください♪(東京ウォーカー・ボクらの維新通信社2018/ロバート・ウォーターマン(KUROFUNE-United))