まるで90年代トレンディドラマの、主人公のような男がいる。

彼の名は、一ノ瀬瑛太。ニックネームは“イチエイ”。

華やかなイメージの広告代理店の中でも「エリート」とされる、大手自動車メーカーの担当営業だ。

慶應義塾大学卒業。港区の大手広告代理店勤務。“花の第1営業部”所属、35歳、独身。

エリート街道をひた走ってきた瑛太は、このまま順調に出世できるのか…?

これは、東京でしのぎを削る30代サラリーマンの、リアルな心の叫びである。

後輩の航が競合プレゼンの主導権を握り、チームメンバーの信頼を奪われそうだったものの、企画のキーとなるテレビ局との調整、クライアントキーマンとの会合を乗り切り徐々に信頼を取り戻して臨んだ競合プレゼンは、まさかの結果となった。

ショックを受ける瑛太にはさらに追い討ちをかける出来事が。そんな時に、戦友の浩司から連絡があった。




「突然どうしたの?まぁ俺もこの前突然だったけど」

瑛太の同期で、今やデジタルイノベーション部のエースと言われている浩司から、急に時間が欲しいと言われたのが、つい数日前。

瑛太と浩司は銀座の『とりや 幸』に来ていた。

今日のように「急に時間が欲しい」という時は、何かの相談や報告であることがほとんどだ。

昔は、結婚の報告というのがほとんどだったが最近は、

「俺、実は会社を辞めようと思って」

-やっぱりこれか。

浩司の突然の告白に驚きつつも、ある意味予想していたことでもあった。

-デジタルに強い浩司のことだから、どこかのITベンチャーに役員などで引き抜かれるのか、それともエンジェル投資家にでも出会って、何か自分で会社を立ち上げるのか。

これまで、瑛太の会社は比較的転職・退職が少なかった。だが昨今、特にデジタル分野の若手が会社を辞めて、独立することが増えてきたのだ。

「そっか、なんか突然の連絡だったから、そんなことかなーとは思ったけど。で、何するの?」

「もうちょっと驚いてくれよ!俺も結構考えた末の決断だったんだからさ」

そうして聞き出した浩司の決断の理由は、瑛太の想像を超えるものだった。


男が会社を辞める時の、意外な理由とは?


「俺、長野県に行って、農家になるわ」




「え!?一体、どうしたの?」

浩司の決断は、瑛太が想像したどれとも違った。そして、そんな転職理由は、これまで一度も聞いたことがなかった。

「浩司って、そんなに農業とかに興味あったっけ?それともあれか?デジタル×ITで儲かるビジネスモデルを思いついたとか!」

瑛太たちが勤めているのは、有名な大手企業。特に男性社員が辞めてまで転職や独立をすると聞くと、どうしても「給料が上がる」、「ビジネスが上手くいき、上場でもすれば巨額の資産が手に入る」というように、待遇が大幅に改善されるから、それを選ぶ場合がほとんどである。

だから浩司の退職理由も、そんなことばかりをイメージしていた。だが…。

「いや、全然そんなの関係ないよ」

浩司が口にした理由は、瑛太には考えもつかなかった。

「実は俺の嫁さんの実家が、長野で農家やっててさ。でも実は義理のお父さんが、体調崩しちゃって」

浩司は、瑛太と違い28歳で結婚し、今は2人の子供もいる。

「でもさ、そんなの別に浩司が会社辞めてまでやることなの?農家ってそんなに儲かるのか?」

浩司の決断を応援したい一方、正直全く理解が出来ない瑛太は、思わずそんな聞き方をしてしまった。

「瑛太、確かに給料が良いって、悪いことではないと思うよ。でも俺はそれ以上に、家族を大事にしたいと思ったんだよ」

話を聞くと浩司の奥さんの実家は、長野で代々続く農家。そして奥さんはそこの長女らしい。昔ながらの大家族だが、たまたま子供は全員女性で、皆嫁いでしまって跡取りがいない。

義理のお父さんが辞めると、その農家としての流れも途絶えてしまうというのだ。

「俺はね、もちろん相手のことが好きで結婚したんだけど、もっと言うとその家族の一員になりたい、って思って結婚したんだよね」

男は常にどこかで“稼ぎたい”と思っている。それが“かっこいい”と瑛太は思って来た。そう信じて来た。

世の中、独立、起業が「ブーム」と言っても過言ではない。その多くがやはりつまるところ“稼ぎたい”のだ。

ただ、一方で「働き方改革」が社会全体で掲げられ、多様な生き方の選択肢が出て来ている。ただ、それはニュースの向こう側の別世界だと思っていた。

こんな身近に、そういった選択をする仲間が出てくるとは。

「瑛太って、本当に今の仕事好きなのか?」

突然の問いかけに、瑛太は思わず答えに窮してしまった。


瑛太の返答は・・・?


「もちろん!憧れの広告会社に入って、自分で言うのもなんだけど、“イチエイ”にいて、日本中のみんなが知ってるキャンペーンとかやってるんだぜ」

必死にこう答えたものの、言っている自分が、なんだか悲しくなった。

「瑛太さ、それって本当に瑛太じゃないとダメな仕事なの?」

浩司の言葉が、ぐさりと胸に刺さる。

心のどこかで気づいていた。

-これは、俺じゃなくても出来る仕事じゃないか。

でもそれが組織に順応している“良い”証拠だと自分に言い聞かせて来た。

『自分にしか出来ない仕事の仕方は、サラリーマン失格』

ビジネス雑誌にもそんなことが書いてあった。確かに業務の抱え込みは、非効率だ。

-ただ、本質的にはそんなことをやっていて、幸せなのか?

浩司の年収は、激減するかもしれない。

だがそんなことは一切気にせず、家族や奥さんの実家のためにも“自分が必要とされる仕事”を選んで、堂々としている浩司は、なんだかとてもカッコよく見えた。

「同期最初の部長になるんだろ、瑛太。期待してるぞ!」

別れ際、浩司が言った言葉にうまく返事が出来ないまま、その日は解散となった。



「えー、皆さんのおかげで、再プレゼンでなんとかキャンペーンの一部を取り返すことが出来ました!」




会議室では、誇らしげな“リーダー”の航が結果を報告していた。

瑛太の代わりに、後輩の航がリーダーとなった再プレゼンで、キャンペーンの一部の領域を取り返すことができたのだ。

「競合敗退からここまで巻き返すなんて、航さん、さすがです!」

部の後輩たちは、瑛太には遠慮もせず、航を褒めたたえている。

「瑛太さん、本当に助かりました。ありがとうございます!」

瑛太の様子に気づいた航が、すかさず声をかけてきた。

競合敗退、リーダー交代、様々なことがありながら、瑛太はなんとか仕事を取り返そうと、めげずに必死に働いた。

それがたとえ、後輩である航の手柄になろうとも。

「まぁ、元々は俺が競合負けちゃったからだからな。少しでも取り返してくれて、ありがとう」

出世を諦めた訳ではないが、謙虚になった瑛太がそこにはいた。

そして、そんな瑛太を遠くからジッと見ている人物がいたのだった。

▶Next:5月11日金曜更新予定
思いがけない打診。