vol.30 名古屋

 8371番目の夜だった。

 閑静な住宅街の中で灯りを落とし、ひっそりと営む店は、35年目を越え、毎日手書きされる品書きは、8371回目を迎えていた。

「いらっしゃいませ」

 いつものように上品な奥さんと優しい目をしたご主人が挨拶する。

 流麗な字で書かれた品書きに目を走らせる。

「どれも頼みたい」

 この店に来るたびにそう思う。

 ヒラメは細く薄切りにされ、くるくると巻いて品のある甘みを噛みしめる。

 縦長でやや太く作られたタチウオは、歯が包まれながら、じれったいような甘みがにじみ出る。スミイカは、厚く四角く、歯に吸いつくような甘みを楽しめる。

 数の子松前漬けは、煎ったばかりのゴマと、細く細く同寸に切られた昆布と人参が、味を生かしている。

 サザエとゲソ、ウド、菜の花の酢みそは、あたりがピタリと決まって、酒を呼ぶ。

 その料理も注文してから作られる。下ごしらえはしていない。だからすべての料理から、食材の香りが生き生きと放たれる。

 煎ったばかりの浸し豆は、香ばしい干し虎豆で、クリッと噛めば、歯が喜ぶ。

スルメと白菜の静かなうま味が体を温める

 スルメと白菜の静かなうま味は、ひたひたと寄せては返して体を温め、大徳寺納豆を混ぜた塩で食べるアオリイカとほし芋の天ぷらは、素朴な芋の甘みに目が細くなる。

 揚げたてはんぺんは、丸いうま味と油のコクが心を沸かし、甘みの抑揚の効いたメバルの煮付けは、心をふわりと包み込む。

 だし巻きは、卵の甘みを邪魔しないだしの味わいに、思いやりが滲む。

 そして締めもどれを頼もうかとさんざん悩みながら、そばと同じ寸に切った大根に夜大根そばや、揚げたての巻エビを使った天むすに、お揚げに上品な甘みがそっと染み込んだいなり寿司。

 すべての料理に、理りを図った仕事があり、すべての料理にてらいがない。

 ああ、なぜこんな店が東京にないのだろうと、来るたびに思う名古屋の「花いち」の夜。

花いち
所在地 愛知県名古屋市西区児玉2-4-13
電話番号 052-524-2876
※要予約

文・撮影=マッキー牧元