ペレをはじめ、各クラブの背番号10が集って魅惑のサッカーを披露した70年のセレソン。6試合全勝で19得点7失点という圧倒的な成績を残した。人材が揃い、下地が出来上がっていたチームは、直前の監督交代から何ら悪影響を受けることはなかった。 (C) Getty Images

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 日本代表のヴァイッド・ハリルホジッチ監督が、ロシア・ワールドカップ開幕の約2か月前という段階になって解任されたことは、日本のみならず、世界に驚きを与えた。
 
 この人事については、当然と言うべきか国内外から批判的な意見が多く寄せられ、本大会での日本代表に対しては悲観的な見方が多くを占めている。
 
 また、過去の大会直前における監督交代例が取り上げられ、ほとんどは成功に結び付かなかったという結果も方々で紹介されている。その多くは、アジア、アフリカ諸国が多く、監督交代の理由も、成績不振、金銭面、選手との対立など様々だ。
 
 しかし、数は多くないものの、欧州、南米の強豪国にも、同様の事例は存在する。そして、なかにはそのような状況でも歴史に残る偉業を成し遂げたチームがある。
 
 W杯の歴史において、最も優れた集団として挙げられるチームの筆頭は、1970年メキシコ・ワールドカップの優勝国ブラジルだといわれている。“王様”ペレを中心に名手が揃ったセレソンは全試合で勝利を飾り、決勝ですらイタリアを4-1の大差で下して3度目の世界制覇を果たし、ジュール・リメ杯を永久保持する権利を与えられた。
 
 そんな歴史に残る偉大なるチームを率いたのが、自身も選手として58年スウェーデン大会、62年チリ大会で優勝を飾ったマリオ・ザガロである。これで名将として歴史に名を残すことになったザガロだが、実は彼がこのチームの指揮権を手にしたのは、大会開幕の3か月前だった。
 
 それまでの監督はジョアン・サルダーニャ。彼の下でブラジルは南米予選を突破し、チーム強化を進めてきたが、突如、解任となった。原因としては、テストマッチでの成績不振、ペレら主力選手との対立、起用の問題、さらには当時の軍事政権を批判したから等々、様々な説が挙げられた。
 
 39歳のザガロの下でブラジルは伝説を創ったわけだが、著名なジャーナリストでもあったサルダーニャは後に、本来なら自分が歴史的チームの優勝監督だったのに……と悔しがったという。
 
 このメキシコW杯から4年後、西ドイツ(当時)で主役となったのが、ヨハン・クライフ擁するオランダである。サッカーの歴史を変える「トータルフットボール」で決勝進出を果たし、西ドイツに敗れて戴冠は成らなかったものの、今なお伝説のチームとして語り継がれている。
 
 この偉大なチームを率いた名将リヌス・ミケルス、オランダ代表監督として初めて迎えた試合は、大会開催年の3月27日に行なわれたオーストリア戦だった。彼は当時、バルセロナの指揮官でもあり、兼任としてフランティシェク・ファドロンク前監督から代表チームを引き継いだ。
 時間がないなか、ミケルス監督は1971年まで率いたアヤックスをチームの骨子とし、ここにバルセロナでプレーするクライフやフェイエノールトの中心選手加えてチームを急造。クライフもアヤックスが71〜73年でチャンピオンズ・カップ(現リーグ)を3連覇した際の中心選手であり、すぐにチームは機能した。
 
 アヤックス時代に戦術の基礎は出来上がっていたことで、ミケルス監督は徹底したフィジカルトレーニングを敢行。それは大会に入っても続き、ゆえに運動量が要求されるトータルフットボールは最後まで破綻することなく、対戦相手を凌駕していった。
 
 それでもタイトルを手にできなかったオランダが、初めて栄冠を掴んだのが1988年の欧州選手権(EURO)。ルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールトのトリオに加え、ロナルド・クーマンらを擁する欧州王者は、当然、2年後のイタリアW杯で優勝候補に挙げられていた。