PL学園に素晴らしいキャッチャーがいますよ──。

 そんな情報を耳にしたのは、昨年の秋頃だった。

 すでに広く知られているように、PL学園の硬式野球部は2016年夏を最後に休部している。部内暴力などの不祥事が相次いだとはいえ、春夏合わせて甲子園優勝7回、甲子園通算96勝という名門の休部という事態に、球界には激震が走った。

 そんな埋めがたい喪失感が残るなか、もたらされた「PL学園のすごいキャッチャー」情報。提供してくれた方には失礼ながら、亡霊でも見たのではないかと思ってしまった。

 しかし、よくよく聞いてみると、意外なことがわかった。そのPL学園の捕手とは、軟式野球部の選手なのだ。

 選手の名前は相曽轄也(あいそ・かつや)という。


実質、プレーイングマネージャーとしてチームを牽引する相曽轄也

 3月下旬、少し気の早い桜が咲き誇り、甲子園球場では春のセンバツ大会が華々しく開催されていた。そんな時期に、大阪・富田林のPL学園軟式野球部グラウンドを訪ねてみた。

 グラウンドが近づくにつれ、15人ほどの選手たちがティーバッティングをしている姿が見えてきた。驚いたのは「コーン!」という乾いた打球音が聞こえてきたことだ。明らかに硬式球をバットで叩いている。

「遠征で出た課題を克服するために、硬球を打って練習しているんです」

 軟式野球部の斉藤大仁監督が言う。自身もPL学園軟式野球部出身で、30年以上も監督を務めるベテランである。

「相曽は硬式野球部が休部にならなければ、硬式でやりたかった子ですからね。私は相曽が高校に入学してから見ましたが、パワーは最初からありましたよ」

 硬式球に比べて飛びにくいとされる軟式球で、相曽は高校3年生になる直前までに5本のサク越えホームランを放っている。そして、何よりの武器は強肩だ。遠投の距離は100メートルを超え、その二塁送球を見て相手チームが盗塁を尻込みするほどだという。

 硬式野球には硬式野球の面白さ、軟式野球には軟式野球の面白さがある。別の競技であり、優劣をつけるのはナンセンスである。

 とはいえ、高校硬式野球は「甲子園」に象徴されるように、全国大会はテレビで全試合生中継され、日本の風物詩として浸透している。かたや、高校軟式野球の夏の全国大会が毎年明石(兵庫)で開催されていることを知っているのは、ごく一部の人だろう。

 並外れた実力を持ちながら、あえて軟式野球を選択したのはなぜなのか。どうしても本人に聞いてみたかった。

 斉藤監督に相曽を呼んでもらう。細い目元をまっすぐにこちらに向けて、決して口数は多くはないが一言一言に自分の意志をにじませる語り口が印象的だった。

「甲子園(春のセンバツ)を見ていますか?」と聞くと、相曽は「いえ」と首を横に振った。春休みとはいえ毎日練習があり、遠征にも出ていたため忙しくて見る時間がなかったという。

 甲子園に出ている選手で知っている選手を聞くと、相曽は「あぁ」とうなずいて、意外な選手名を挙げた。

「大阪桐蔭の青地(斗舞/とうま)は一緒のチームでプレーしていたことがあります」

 PL学園中時代も軟式野球部に所属していた相曽だが、実は中学1年の夏に退部し、硬式野球チームに入り直している。その河南リトルシニアでチームメイトだったのが青地だった。

「大阪桐蔭のキャプテンの中川(卓也)や藤原(恭大/きょうた)とは試合で対戦したことがあります」

 そう語りつつも、春のセンバツに特別な興味があるわけではなさそうだった。相曽は「自分の練習をすべきなので」と言葉少なに語った。

 相曽はPL教団に勤める両親のもとに生まれ、幼少期からPL学園の硬式野球部に憧れを抱いていた。小学生時には、キャプテン・緒方凌介(現・阪神)が率いる代に魅了された。秋の大阪大会では、浅村栄斗(現・西武)を擁して翌夏に全国制覇を成し遂げる大阪桐蔭をコールドで破るほどの実力があるチームだった。相曽は「全員の打順を覚えていました」と笑う。

 中学の途中で硬式野球を始めたのも、高校でPL学園の硬式野球部に入部するつもりだったからだ。

 しかし、中学3年の春、両親が転勤になったため、相曽はPL学園の寮に入ることになった。それまで車で送迎してくれた家族がいなくなるということは、河南シニアに通えなくなることを意味した。そのため、PL学園中の軟式野球部に戻ることにする。

 そして、衝撃のニュースが相曽を襲った。PL学園硬式野球部の募集停止──。いくらPL学園で甲子園を目指したくても、入学前から叶わぬ夢となってしまったのだ。

 相曽は「他の学校で硬式をやることも考えました」と当時を振り返る。だが、結果的にそのままPL学園の高校へと上がる決断をする。

「ここまでPLに育ててもらったので、このまま上でやらせてもらいたいと思いました」

 相曽は敬虔(けいけん)なPL教徒でもある。「徳を積む」というPL教の教えに共鳴し、信仰を「他校にはない魅力」ととらえている。それが決断を後押しした。

 入学してすぐに捕手のレギュラーポジションを得た相曽は、斉藤監督をうならせるような働きを見せる。斉藤監督が何よりも驚いたのは、相曽の技術以上に頭脳だった。

「野球をよく知っています。そのことにかけては図抜けていましたね。1年から大会に出て、根拠のあるサインを出す。上級生からも一目置かれていました」

 相曽の存在は、斉藤監督が自らの指導方針を見つめ直すきっかけになったという。斉藤監督は少しずつ試合中の采配権限を相曽に与えるようになり、1年の秋頃までには守備・攻撃のサインをすべて相曽に出させるようにしたという。

「サインを出すことに悩んでいる相曽を見て『難しいか?』と聞いたら、『今までそこまで考えていなかったのですが、面白いです』と答えたんです。『面白い』という言葉を聞いて、これはもう生徒に任せようと腹をくくりました」

 実は、この思い切った采配移譲の背景には、PL学園硬式野球部の影響があった。

「ウチの硬式野球部が、生徒同士でサインを出しているのを見て『野球は本来こうあるべきでは?』と思ったんです。サッカーやラグビーでは、試合中に監督の存在はある程度消えるじゃないですか。野球は1球1球、監督がサインを出しますが、そのことに前から違和感があったんです」

 2013年2月に硬式野球部の2年生が1年生に部内暴力を働く不祥事があり、当時の監督が辞任。後任は野球経験のない校長が就任した。出場停止処分が明けた後、チームは選手同士でサインを出し、継投のタイミングは綿密な打ち合わせをした上で主将の中川圭太(現・東洋大)が決めていた。

 選手自らが考え、戦略を立てるチーム運営は大きなハンデに思えたが、それでもチームは秋、夏ともに激戦の大阪で準優勝と大健闘を見せた。斉藤監督は「これだ!」と思ったのだという。

「グラウンドに立つのは生徒。野球をするのも生徒ですから。選手にはグラウンドで迷わずにプレーしてほしいんです。私は気持ちの持ち方を伝えてあげたい。最初は不安もありましたが、今は『自分は第一マネージャーなんだ』と割り切っています。選手たちも『監督は相曽、心の監督は斉藤先生』と思っているはずです」

 事実上の「相曽プレーイングマネージャー」体制で戦った昨夏は、大阪を制して4年ぶりに全国大会へと出場した。相曽は「個人としてのこだわりはありません」と語り、ベクトルは常にチームに向いている。

「夏は明石で全国制覇したい」

 その思いが相曽の頭を支配している。

 それでも、聞かずにはいられなかった。高校を卒業したらどうするのか、と。硬式野球をする予定はないのかと。

「今のところ、勉強して大学に行こうと考えています。野球は続けたいですけど硬式は……(笑)。大学のレベルによりますかね。バリバリやっているところは厳しいと思いますし、ナアナアでやっているところもどうかなぁと思うので……(笑)」

 幼少期は「夢はプロ野球選手」と語ることもあったが、今は「現実的ではないので」と笑う。一方で斉藤監督は、「いずれはPLに教員として戻ってきて、監督をやってもらいたい」と希望を口にする。

 PL学園最後の逸材――。相曽のことを安直にそう呼ぶことはやめておこう。PL学園の軟式野球部が存在する限り、情熱を持って教え、伝えていく者がいる限り、その灯が途絶えることはないはずだ。

 夏の明石で、PL学園のユニフォームを身にまとった選手たちが躍動する姿を楽しみにしたい。

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