「処女信仰の男はクズ」社会学者・宮台真司が語る”アカデミック童貞論”が快刀乱麻の切れ味

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 少子化が深刻化する昨今、日本では生涯未婚率が上昇しています。国立社会保障・人口問題研究所の第15回出生動向基本調査では独身男性の約半数が、「性経験がない」と回答しています。

 「ニコニコドキュメンタリー」では童貞について特集した番組が放送され、番組内では首都大学東京教授の宮台真司氏が、社会学的観点から時代の流れとともに生じた童貞の変化や、どのような原因で、現代の童貞は揶揄や嘲笑の対象になったのか、その本質に鋭く迫りました。

宮台真司氏。

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童貞とは?――女には女のコスモロジーがあり、男には男のコスモロジーがあった。

宮台:
 単に性的未経験者ということじゃなく、セクシズム【※1】を前提にした性的未経験者の男性が、童貞ということになります。セクシズムというのは、イヴァン・イリイチ【※2】の概念です。昔はバナキュラー(民族風土)がジェンダーを支配していて、女と男は比較不可能な存在だったのが、近代ではフラットな人間概念のもとで、女と男が比較可能になった、それがセクシズムです。

イヴァン・イリイチ
(画像はAmazonより)

※1セクシズム
一般的に、性差別主義、女性蔑視という意味のほか日本では「セックス本位主義」の意味でも用いられるが、イヴァン・イリイチの『ジェンダー』以来、性差別を含む多様な産業的男女関係の様相を包括する用語としても用いられる。

※2イヴァン・イリイチ
オーストリア、ウィーン生まれの哲学者、社会評論家。

 女と男の比較不能性を、平たく言うと、女には女のコスモロジー(宇宙論)が、男には男のコスモロジーがあること。人間概念がなかったとは、「女も男も同じ人間だ」という考え方がなかったということ。だから、人間一般にあてがわれる抽象的な権利概念もなかった。そうした時代には、女と男だけじゃなく、鍛治屋も神父も貴族も同じ人間だと考えることもなかった。役割ごとに期待もコスモロジーも違ったということです。

 熊がいて、狼がいて、女がいて、男がいる。お互いがちがった時空間を生きるているけれど、祝祭のような条件があれば、女は男になれるし、男も女になれる。犬は僕にもなれるし、僕は犬にもなれる。そういう感じ方が当たり前でした。ところが、「セクシズムが支配する」イコール「人格として横並びで、等しく権利をあてがわれる、抽象的人間」が出てきた。それでバナキュラーな差異が全て差別だとされるようになりました。

 かくて「女も男も同じ人間なのに」「アイツもオレも同じ男なのに」といった差別・被差別の意識が生じる。イリイチの議論は面白い。差別・被差別の関係があれば解消しろというのが倫理的主張だと考えられてきた。フェミニストもそう考えてきた。イリイチはそれを承知で「差別とは意識されなかったことが差別だと意識されるようになるのは、コスモロジーの貧困化せいだ、コミューナルなものの空洞化せいだ」と提起したわけ。

 彼は1962年の第二バチカン公会議で、典礼や教義の刷新に向けて活躍したカトリック神父だったけど、近代社会だけでなく、大規模定住社会にありがちな「言葉の自動機械」になることを拒絶しようとした人なんだね。僕はクリスチャンなのでその話を詳しくするとキリがないけど、それまで鬱屈しないで良かったものに鬱屈するようになった背景に、「フラットな社会における感情の劣化」を見出したんだね。

 「差別反対」「人権」の言葉を前にすると「尤もらしさ」に思考停止しがちだけど、思考停止の「言葉の奴隷」を憂いたんだね。最近似た役割を演じるのが人類学者ヴィヴェーロス・デ・カストロ。フェミニストを含めた社会学者定番の非本質主義や構築主義やマイノリティーズ・アイデンティティ論を否定する。彼によれば「男がいて、女がいる」んじゃなく「私は男でも女でもある」。同じく「私はLでもGでもBでもTでもある」わけです。

性に開放的であったという誤解「それなりの人はそれなりの人に」

宮台:
 その話を前提にして次の話に行くと、民俗学者の赤松啓介氏が記述してきたように、僕の祖父母の世代までは、田舎にいけば「夜這い」もあったし、「若衆宿」もあったし、お祭り時の「無礼講」--乱交です--もありました。というと、日本は性的に開けていたように感じられます。実際、人類学者マルセル・モースや小説家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、日本は性の楽園だみたいな記述を残しているのは有名な話です。

 民俗学者の赤松啓介氏によると、それは誤解。僕も夜這いの経験者たちを取材した。1990年代前半です。各地で当時60代以上の人--戦前生まれの世代--を取材すると、夜這いや無礼講を記憶する方が多数いた。自分が実践していた人も、子供たちで徒党を組んで覗きにいった人もいた。多摩地区で今も「くらやみ祭」があるけれど、戦後もまだ無礼講が残っていたのです。むろん今は人畜無害な普通のお祭りです。

 そういう事例をあれこれ掘り出してきた赤松氏は、これらは野放図に見えるけれど、よくできた秩序なのだ、というわけです。かつて富士フイルムの、樹木希林と岸本加世子が出ていた有名なコマーシャルに、「それなりの人はそれなりに」っていうセリフがあったでしょ(笑)。そんな感じですね。それなりの人をそれなりにマッチングさせるアロケーション(配分)の秩序だったのだ、と赤松氏は言うんです。

 それを支えたの村落の同性集団。若衆宿とも呼ばれます。今でもトルコの田舎などに残っています。夜這いをかける時も、僕が「あの後家さんに夜這いしたい」と言うと、若衆宿の兄貴分が「10年早いわ」みたいに一蹴して「お前はアソコ」と指定する。昔だってモテる・モテないがあったに決まってるけど、モテないなりに相手を見繕ってもらえて、あぶれにくくなっていたわけ。戦後のお見合いもそんな感じでしたよね。

 ところが赤松氏の記述を踏まえて言えば、恋愛が市場化すれば「ウィナー・テイクス・オール(勝者総取り方式)状態」になる。僕がよく引用するデータだけど、昨今の「恋愛稼働率」つまり恋愛パートナーがいる割合は、どの世代でも女は男の2倍、男は女の2分の1。本人たちがどう意識するかに関係なく、統計的には複数の女が一人の男をシェアしている。つまり多くの男があぶれているわけです。

 あぶれたって江戸時代を思えばどうってことない。家督が継げない次男三男なんてそんなもの。でも近代は違う。イリイチの言うセクシズムが支配する。だから「なんで俺だけあぶれるの!」「他の奴らばかり良い思いをして!」と噴き上がる。それが「今日の童貞とは、セクシズムを前提にした性的未経験者の男」と言った意味です。昔はバナキュラージェンダーが支配していた分、童貞は存在しなかったと「も」言えます。

 身近な日本を例にしたけど、ヨーロッパ、アメリカ、中国、どこでも基本線は同じです。かつてであれば恋愛市場化されていない分、アロケーション・システムがあり、アロケーション・システムからも見放されてる奴は、「諦めていた」。「そもそも可能性のないステイタスに生まれたのだ」とね。日本だけでなく、どんな共同体でもそうだった、ということです。そこから見れば、童貞問題とは近代特有の「噴き上がり問題」なんです。

女にはわかる――損得にしかこだわれない、仲間がいない、孤独な男。

宮台:
 なぜ一極集中が起こるのか。なぜ、モテる男が複数の女を相手にできるのか。データからわかります。昨年ある女子高で百五十人以上の高校三年生全員に、正しさに敏感な男と、損得に敏感な男と、どっちを彼氏にしたいかを尋ねたら、全員が正しさに敏感な男だと答えた。理由を尋ねたら「損得に敏感な男は、いざというとき逃げるから」と返ってきた。女子高生たちのこうした評価は科学的にみて然るべき理由がある。

 進化生物学には、正しさという感覚のルーツは「仲間のための自己犠牲を肯んじる構え」。「小さな仲間集団を犠牲にして大きな仲間集団に貢献する構え」も含まれる。だから、正しさの観念は、犠牲を払っても守るべき仲間が存在する時にだけリアルになる。正しさとは「仲間への愛のために法を破る=正しさのために法を破る」ことです。ところが、こうした正しさの観念を生きられない孤独な若い人が増えてきたんですね。

 正しさのために法を破るには仲間の存在が必要だけど、仲間を想像できない。僕は「正しさよりも損得」が専らな人間を「クズ」と呼び、クズに傾くことを「感情の劣化」と呼び、クズだらけの社会を「クソ社会」と呼ぶけど、なぜクズだらけなのか。必ずしも本人が悪いわけじゃない。クズな人間はクズな損得親に抱え込まれて育った可能性が高い。専ら損得で結びついた関係の中で育った可能性も高い。クズがクズを呼ぶわけ。

 排外主義的で腐った安倍政権を擁護するウヨ豚がいるよね。ウヨ豚には様々な国籍の仲間がいるかな。いたら「中国人がぁ」「在日がぁ」という物言いはあり得ない。実際「中国人や在日の知り合いがいるの?」と尋ねると、いないと答える。「ならば、なぜ中国人や在日はクズだと思う?」と尋ねると、ネットにあったと答える。「なぜ信じるの? 書いた人のことを知ってる?」と尋ねると、知らないと答える。一事が万事この調子。

 自分が犠牲になってもいいと思う仲間がいて、その仲間にリスペクトされていれば、その時点で「損得を超える力があり、それゆえに絆に満ちていること」の証明になる。逆に言えば、知りもしない人間の書き込みを信じて排外主義的になる時点で、「仲間がいない孤独ゆえに妄想的に損得にこだわる」というヘタレぶりがバレてる。実際、そういう人間に会ってみると、さもしく浅ましい顔をしている。実際、全くモテないのね。

 多くの女には「それ」が分かる。損得野郎が感情的に劣化していて、なぜ感情的に劣化しているかといえば、仲間がいないからだと分かる。「仲間のために法を破る」態勢がないクズに過ぎないと分かるわけ。クズが何をするかと言うと、フランクフルト学派【※1】の言う「不安の埋め合わせ」をする。神経症の定義ですよね。仲間がいないがゆえの不安や寂しさや嫉妬を、意味不明な反復強迫で埋め合わせるんですね。

※1フランクフルト学派
全体主義の由来を研究した社会理論家のグループの他称。ファシズムや国粋主義を「不安の埋め合わせ」だと批判したので、「フロイト左派」「批判理論家」とも呼ばれる。

 仲間がいない不安に苛まれたヘタレは、不安を埋め合わせたくて、少しでも法を逸脱していた人を指差しては炎上し、炎上に勤しむ連中を「インチキ仲間」として粉飾する。「インチキ仲間」に過ぎない事実は、不安を埋め合わせて自分を楽にしたい損得野郎のクズ連中だというところから直ちに明らか。こうしたクズを右翼や保守に数えるには当たらない。 「右か左か」「保守かリベラルか」じゃなく、「マトモかクズか」です。

はあちゅう氏。
(画像は本人公式ブログより)

 はあちゅうさん騒動【※】やベッキー不倫騒動に対する、集団炎上の背後にある営みも、全く同じですね。公平を期して言えば、僕が「クソフェミ」と呼んでいる連中も、マトモじゃなくクズだという意味で、「ウヨ豚」とまったく同じです。僕は全部クズと呼ぶことにして、「ウヨ豚」も「クソフェミ」も区別しませんが、要は「不安の埋め合わせ」のための「言葉の自動機械」に過ぎないので、ハナからマトモに取り合う必要がないのです。

※2はあちゅうさん騒動
ブロガーのはあちゅう氏が、会社員時代に上司から受けたパワハラ・セクハラを告発するも、はあちゅう氏自身が、過去に自身のツイッターで童貞の男性をからかうような投稿を繰り返していたことに関して、「これもハラスメントでは?」と批判的な声が殺到した。

 取り合うもなにも、「言葉の自動機械」だから、言葉の中身にそもそも意味がないんです。1970年代末から僕が「鍋パーティ問題」と呼んできたものと同じです。上京したばかりで不安な大学新入生が「鍋パーティ」に誘われる。仲間ができたと思ったら「研修旅行」に誘われる。それがカルトだったりセクトだったり。最初に誘われたので「不安の埋め合わせ」からメンバーになるだけ。イデオロギーの中身は関係ないんです。

 こうした「不安の埋め合わせ」に由来する「言葉の自動機械」を観察すると、あぁ鬱屈してるな、社会を生きづらいんだな、幸せになれないんだな。もっと言えば、幸せになるために必要な絆づくりの能力がないんだな。そういうことが、あからさまに見えちゃう。それが今日的な「ぎゃあぎゃあ騒ぐ童貞」のイメージの、デッサンだと考えていただくといい。そのぐらいだから、ウヨ豚と同じで、経験的には「治療」も簡単です。

理想の彼氏は“星野源”――脱コントロール、脱支配、脱劣等感、だから寡黙でもいい

宮台:
 星野源とか高橋一生が、女の子が今一番彼氏にしたい、あるいは旦那にしたい男たちなんだけど、これは面白いよね。先ほど申し上げたような「男日照り」の状態なので、女から見て、さもしい損得野郎じゃなく、不安なマザコンでもなく、それゆえに女をコントロールしたり支配することに動機づけられておらず、逆に、女を理解したり女とフュージョンしたりすることに動機づけられている存在。それを望んでいるわけですね。

星野源さん。
(画像は公式Twitterより)

 彼氏にしたい男と、旦那にしたい男が、今は重なっていて、なおかつイケメンじゃない。と言うと「イケメンだ」っていう反論してくる女も多いけど(笑)、30年以上も大学で定点観測してきた者からすると、あのくらいの顔は「作り」として言えばどこにでもいる。むしろ、女から見て、脱コントロール感、脱支配感、脱コンプレックス感、脱自動機械感が、漂っているように感じられるから「イケメン」に見えるわけだ。それが大切ね。

 寡黙な人、喋りが苦手な人でも、アイコンタクトやオーラの交換で「なんかいい感じだな」「いい感じになれそう」って思える男は、とてもモテます。現実に僕の周囲にいる学生たちを見ると、みんなそうなんだよね。今でも、昔みたいなアイドル顔かどうかみたいな意味でイケメンかどうかにこだわる女がいるのは僕も知っているよ。でも、そういうのは便所女なので、男の側からすると恋人やカノジョの候補にならないんだよね。

 僕に言わせると、イケメン厨の女はたいてい「便所女」だよね。自己評価の低い女が「ここが便所」とタテカンを立てる。これ幸いと男が立ち寄って用を済ます。女は選んでくれたとゴキゲン。でも男にとっては用を足せるならどこでもよく、用を足せば文字通り用済み。だから男は立ち去る。立ち去られた女は自己評価がさらに下がって、またタテカン。自分の醜悪さを「見たくない」から、イケメンだからと「見たいもの」だけ見る。

 要は、抑鬱的感覚を埋めたくて、タテカンを立て、便所に立ち寄るイケメン男を探すわけ。すると、自分はイケメンだから女はイチコロ、みたいなコントロール系の糞ナンパクラスタ男だけが寄ってくる。だからクズみたいな体験を繰り返し、自己評価が下がりっぱなし。僕は「クズがクズを呼ぶ連鎖」と呼ぶ。コントロール系の糞ナンパクラスタ男と、イケメン好きの便所女は、いつも対(つい)。みなさん、周りを思い出してほしい。

「精神的童貞」――女の喜びを自分の喜びとして映し出すような営みがない

宮台:
 そういうこともあるので、「精神的童貞」というのがあり得る。コントロール系の男=糞ナンパクラスタ系は、セックスしても、ダイブ(没頭)もフュージョン(融解)もない。あるのは、ダイブならぬフェチへの固執と、フュージョンならぬコントロールだけ。別の言葉で言えば、女の心や体に生じていることを、自分の心や体に生じさせられない。それを生じさせられれば、女の快楽は男の快楽になり、男の快楽は女の快楽になります。

 それがないと、女が、セックスにおいても恋愛においても不全感を抱いてしまいます。それだけじゃなく、この男はクズだなって思うわけだ。だから僕の言う「4回ルール」をクリアできない。幻滅するので「4回以上はセックスできない」ってことになる。ところが昨今は、セックスはできてもセックスを通じて絆を結べない「精神的童貞」が蔓延している。彼らは女を「所有」したがるけど、彼らから女を「寝取る」のは実に簡単です。

 頓馬なクズ男だからね。女を物格化(物扱い)して所有したがるから、逆に簡単に持ち去られちゃうわけ。ざまぁ見ろ(笑)。まぁクズだから、どうしてそうなっちゃうのか分からないというふうにもなりがちですね。そうしたクズを指して「精神的童貞」と呼ぶことができると思う。女を金で買えるけど、素人をその気にさせるのは無理っていう「素人童貞」にも、ある程度は共通して言えることだね。女にも似たようなのがいます。

“絆の関係”はスクールカーストのポジション争いの先にはない

宮台:
 こうしたクズの存在は、それが蔓延しているのを見れば「社会の問題」だけど、相手を幸せにすることで自分も幸せになりたいと思うなら「当人の問題」だという他ない。自分で何とかするしかないよ。どうすりゃいいか。社会も人間関係も「いいとこどり」は無理。損得を越えて絆を結ぶ仲間を作れない男が、性愛でだけ絆を作れるなんてあるわけない。ってことは、損得を越えた人間関係を経験することが全ての処方箋です。

 でも、こうしたクズ男が損得を越える仲間を作れなかったのはどうしてかと言えば、やっぱり「社会の問題」が背景にあると言わざるを得ない。だからそこを何とかしたくて親業講座をやってきたわけです。『ウンコのおじさん』という本もそのために書きました。ちなみに、僕が2000年にやった統計調査によれば、両親が愛し合っていると思う大学生は、そう思わない大学生より、恋人がいる率が高く、性愛経験人数が少ない。

 つまり、現にある絆と愛に満ちた関係をロールモデルにして、羨ましがるだけじゃなく、現実にあると信じて摸倣することで、前に進むしかない。ところが、親族関係や近隣関係や教室関係でも、そうしたロールモデルがなかなか見つからなくてね。若い人からは、スクールカーストのようなポジションゲット競争か、LINEの既読プレッシャーみたくキャラを保ってポジションを維持するゲームしか、ないというふうに見えちゃうんだね。

絆のない人たちは損得で生きるしかないから、一人寂しく死ね

宮台:
 仲間の空洞化を背景にしたクズ化=損得化の動きは日本だけじゃない。それに抗って、2010年から先進国でSNS離れが始まりました。ベルギーからフランスやアメリカを経て最近は日本に及んできた。SNS離れをした人々は「見えないコミュニティ」を作っています。シェアハウスにせよ、私塾にせよ、スワッピングサークルにせよ、クズが入ってこないようにネットから見えないようにした「絆の集団」が各所にあるわけです。

 こうした展開は「社会の問題」ですが、「個人の問題」として見れば、感情的劣化=損得化=クズ化の拡がりを前に「何か間違ってる」と気づく人たちが、減ってはいるものの今でもそれなりにいるということ。個人から見ればそれが手掛りです。仲間作りにおいても恋愛においても、ネットから見えない「絆の集団」を探す試行錯誤をすべきです。それをせずにネット炎上して溜飲を下げていれば、クズは永久にクズで終わります。

 リアルなコミュニティ=仲間集団を既に設けた人はSNSを必要としない。使うにしても完全にクローズドな利用法しかしません。だからネットに棲息する劣化した人たちからは「絆の集団」が見えないんです。すると、劣化した人たちは、「絆の集団」を生きる人たちに比べて、社会がより劣化=損得化したものに見えて、それに適応してますます劣化します。そうした「クズ化の自己増殖」が進みつつあるのが現状です。

「ちょっとこじれてるけど、お前は良い奴だ。だから心配するな」

宮台:
 繰り返すと、本人たちが原因でクズになったわけじゃなくても、その状態に甘んじるかどうかは本人の問題だと言うしかありません。それ以外の言い方をしたところで彼らは別の状態にシフトできないんです。何とかしてくれる政府や、何とかしてくれる中間層のソーシャルキャピタル(人間関係資本)はもうありません。だから「本人が原因じゃないけど、本人が何とかするしかないこと」が、今はあふれているんです。

 マクロにはそんな状況だけど、ミクロなやり方は単純です。僕のゼミにウヨ豚が来ても半年で脱ウヨ豚化できるし、クソフェミも半年で脱クソフェミ化できる。両方とも同じで「言葉の自動機械」を離脱させる。何かガミガミ言っていても「わかるよ」と。何を言ってるんだか分かんなくても「気持ちはわかる、お前はいい奴」と言い続け、そこから「今はこじれてるけど、根はいい奴」を経て、「いい奴だから、こじれは直せる」に進むの。

 「そんなに必死に喋らなくても、みんな気持ちは分かってるよ」とやっていくと、凄い勢いで棘がとれる。何度も目撃しています。感情的に劣化した連中も、何かのラッキーでそうした包摂的な仲間集団に加えてもらえば、気持ちに余裕ができて、ポジション取りや承認ゲットに右往左往する「損得厨」から逃れられる。包摂的な仲間集団を生きる側からすれば、先ほど紹介したノウハウを使って一本釣りしていくしかないです。

 そうした集団に出会えるかどうかは運もあるけど、「出会えないのは俺が悪いんじゃない!」って言っていると、偶然にでさえ出会えるチャンスが消えます。もがいて探してほしいです。僕のゼミに来るウヨ豚やクソフェミは、意識の表層では反発を抱いて宮台をやり込めようとして来るけど、後々聞くと、自分はどこか変だなと思って、もがいていたと思うって言うんです。僕らもウヨ豚やクソフェミを「根はいい奴」と思っています。

損得を越えた“仲間”がいない男に、女は絆を結んでくれない

──“仲間”の不在が根源的な理由ですか。
 
宮台:
 それがとても大きいですね。恋愛ワークショップを、東日本大震災の直後の「絆ブーム」を機に2年余りやりました。やめた理由は、特に男が「自分のどこが悪いのか分かったけど、自分はもう変われない」となってしまうからです。「損得で生きてきたので、損得を越えるっていう意味が分からない」とか。そういうのを前にすると、身体的・精神的童貞の、性愛関係だけを取り出して改善するのは、到底無理だと分かります。

 つまり、問題は性愛ワークショップ以前にあるということです。だから、僕がどこでも必ず言うのは、「損得を越えて君を助けてくれる仲間がいるかい?」「君は損得を越えて助けたい仲間はいるかい?」ということ。「いないのならそれを作ることから始めないと、女はセックスしてくれても絆は結んでくれないよ」とね。それはそうだよね(笑)。当たり前すぎるけど、その当たり前ができない若い連中が増殖しているわけです。

 もう一度、仲間--昔は共同体とか共同性と言ったけど--の定義を確認しますね。損得を越えて犠牲になったり貢献したりできる人間関係の範囲を、仲間と言うんですよ。仲間を作ることができない人間は、損得を越えられないので、性愛においても、セックスはできたとしても、絆を作れません。僕も長く生きてきましたが、一つの例外も見たことがないんですよ。ってことは、そこに処方箋の鍵があるということです。

──ネットにネガティブな情報が溢れすぎている?

宮台:
 20世紀半ばのマスコミ研究で分かったのは、テレビを見る場合、親しい人と一緒に視るか、視た後に親しい人と話し合うかすると、番組の暴力表現や性表現の影響が小さくなること。一人で視るとロクなことがないんです。ところがネットは一人で接する。だから、感情が劣化した人が、鬱憤を晴らしたり不安を鎮めてくれる情報ばかり選んで「いいね!」しまくる。かくて「類は友を呼ぶ」「クズがクズを呼ぶ」状態になります。

 そうなると、社会ネタであれ政治ネタであれ、真実や正義よりも、鬱憤晴らしに役立つものに、「言葉の自動機械」として反応しがちになります。SNS離れの話をしたけど、SNS離れした人たちは、気持ちに効くクスリとしてネットを使ったりしません。結局、「右か左かじゃなく、マトモかクズか」なんですよ。「ポスト真実」もそこから生まれます。デマに騙されるんじゃなく、デマと分かっても「だからどうした」という構えになります。

 1990年代半ばのネット勃興期、僕は、餌を撒いてクズが食いついたらコテンパンに叩きのめす遊びをしてたけど(笑)、当時からネットは「悪貨が良貨を駆逐する」状態。「見たいものだけ見て、見たくないものを見ない」クズや「実存(気分スッキリ)の観点から社会(正義や妥当性)を語る」クズが溢れていた。だから僕は「ネットで参加民主主義が強化されるどころか、クズの参加で民主主義が壊れると言っていたわけです。

 説明すると、表現と表出は違います。表現は相手に伝える営み。表出は自分がスッキリする営み。表現はexpression。表出はexplosion。右か左かは「表現の問題」だが、マトモかクズかは「表現と表出を峻別できるか否か」の問題です。僕はネットが表現と表出を区別できないクズを蔓延させるだろうと予想した。菅官房長官の物言いを真似れば、安倍政権は「右傾化」と言うには当たらない(笑)、単なる「クズ化」です、とね。

処女信仰の男は、その時点でクズの証明。女をモノ扱いしている

宮台:
 「悪貨が良貨を駆逐する」とは「表出 explosion が表現 expression を駆逐する」こと。表現したい人は「政治的な語りに見えて単なる表出に過ぎない物言い」が溢れる場には、実りを感じないので退却します。だから「悪貨が良貨を駆逐する」結果になるんです。政治だけでなく、性愛も同じです。例えば処女信仰は、価値の表現というより、浅ましさに由来する表出です。その浅ましさは「コントロール感」への固執に由来します。

 日本の「ロリコン」は大半が、ペド(小児性愛者)というより、「相手が何も知らないから自分がコンドロールできるだろう」と思うクズです。だから「処女厨」は全員「コントロール厨」です。「非処女は他の男の手垢がついたセコハン(中古品)」というのも、まっさらなものなら全面的に所有できるだろうという「コントロール厨」の発想です。これは女を物格化(物扱い)している。そうしたクズにはなぜかAKB48のファンが多いんです。

 処女厨は、コントロール志向=所有欲が満載なので、女を物格化します。物格化の志向を捨てない限り、損得を越えた内発性から見放されます。それゆえ、交換を越えた贈与に向かえず、フェチを越えたダイブができず、シラフを越えた眩暈を経験できず、フュージョンセックスもできません。そんな輩は、女に実りある体験を与えられないから、女をトリコにできません。永久に「2人オナニー」に興じていればいいんです(笑)。

 互いに相手の心の中にダイブし合った状態を僕は「相互浸透」と呼びます。相互浸透的なセックスを経験できるダイブ系は、ダイブを通じて「人が見かけによらないこと」を経験で知っているから、人を見かけで判断しない。見かけで判断する人は、女は便所女系で、男は糞ナンパクラスタ系。「相手を幸せにすることで自分も幸せになるタイプ」がおらず、自分の劣等感や不安の穴埋めに性愛を利用する輩ばかりなんです。

──大成するためには禁欲的であれという言説について
 
宮台:
 僕は高校で出張講義をするけど、「受験が近いから恋愛はいったん保留」みたいな発想を否定します。今の僕は受験時代よりも忙しいけど必死で家族生活を営んでいる。送り迎えをし、料理を作り、日曜日に一緒に出かけます。恋愛しながら受験できない頓馬は、将来仕事が忙しくなったら恋愛生活や家族生活を棚上げにするのか。「恋愛は受験の妨げ」「恋愛で将来を棒に振る」みたいな発想が損得野郎を量産します。

 逆です。恋愛を犠牲にしない範囲で勉強して入れる大学に入る。それが分相応な人生のバランスです。過去二十年で大学生の性的退却がすごく進んだけど、大学生たちに尋ねると、日本会議的な「不安を植え付ける性教育」が背景にあると分かります。妊娠の不安、性感染症の不安、将来を棒に振る不安を植え付ける。結果、高校で恋愛しているのがバレると「バカな奴」とスクールカーストを三段落ちするようになった。

 とはいえ、実は昔も、妊娠の不安、性感染症の不安、将来を棒に振る不安を、煽ろうとする、頓馬な親や教員がいました。けれど、僕らは親にも教員にも教室にも抱え込まれていなかった。そこが違う。一番大切なのが隣近所と親戚の人間関係でした。だから頓馬な親や教員がいても「しんちゃん、そんな話を真に受けてるのか? 実はな…」ってな具合で中和されたわけです。

 そういう機会がなくなって、恋愛にうつつを抜かすと受験に失敗して将来選択を誤るというストーリーを本気にする頓馬が増えた。百歩譲って、恋愛で合格ランクが下がる話が本当だったとしても、恋愛を禁欲して合格ランクを上げたところでパッとした未来は開けない。勉強や仕事が忙しいから恋愛や家族を犠牲にするというメンタリティはあってはならないからです。恋愛しながら受験するのは「いい人生」の最初の訓練だ。

 なぜあってはならないか。恋愛や家族を平気で犠牲にする人は、100%1人で寂しく死ぬからです。元実業家や元ナンパ師が身体を壊して1人寂しく死んでいく姿を何人も見て来ました。その人たちには共通性がある。恋愛と仕事が全く別のことだと考えていたこと。そうじゃない。恋愛のために仕事をし、仕事のために恋愛をする。さもないと動機付けが続かないよ。人間の動機付けっていうのは、そういうものなんだね。

 勉強したいとか成功したいという動機づけは、多くの場合セルフィッシュでエゴイスティックだけど、そうした利己的な損得動機は、病気や事故で気が弱くなると、すくに続かなくなっちゃうんですね。そうじゃないんだよ。誰かを幸せにするために--自分の大切な人を幸せにするために--勉強するんだよ。仕事をするんだよ。これから仕事をしなきゃいけないという時、愛があるからこそ、限界状況で仕事できるんじゃないか。

 仲間の存在を前提として「正しさ=仲間に貢献すること」へのコミットが生まれると言いました。その意味で「正しさ」は、交換ならぬ贈与、バランスならぬ過剰を含みます。だから「正しさのために法を破れ」という言明があり得ます。実験心理学によれば利己的動機よりも利他的動機の方が強い。利己的動機は自分が諦めれば済みますが、利他的動機はそうはいかないからです。利他的動機はそもそも過剰への志向です。

恋愛関係に“コスパ”を持ち込む人はクズ中のクズ。相手にするな

宮台:
 過去20年の性教育の中で、結局「性」が不安と結びつけられてきているわけです。それは性感染症の不安であり、妊娠の不安であり、将来選択を誤る不安です。そうした不安煽りが背景にあって、恋愛にハマるとスクールカースト急降下する状況が、この10余年、当たり前に続いてきています。他方で、うかうかしていると負け組になるぞと煽る「損得親」や「損得教員」が溢れるようになりました。

 そうした体制の中で、「恋愛はコストパフォーマンスが悪い」「恋愛はリスクマネジメントしづらい」とか、性愛を損得勘定で否定的に評価するようになってきました。でも恋愛は、損得勘定を越えた内発性の営みです。コントロールを越えた欲動の営みです。交換を越えた贈与の営みです。秩序を越えた渾沌の営みです。シラフを越えたトランスの営みです。だから性愛で定住社会の軛から解放されて、人は幸せになれます。

 性愛の領域では、ビジネスマインド的な損得勘定を手放せない人は永久に幸せになれないと決まっています。リスクマネジメントが効かず、コストパフォーマンスが悪いからこそ、性愛はコミットすることに価値があるんです。もっと言えば、言葉の奴隷や法の奴隷であることよりも、言葉の外や法の外でシンクロする=幸せになる能力が、試される領域です。その能力がなさそうな相手なら、最初から見限らなくちゃいけません。

──恋愛や性愛に興味のない人の増加について

宮台:
 増えていますね。増えているものの、「本音は違う」というところがポイントです。ユヴァル・ノア・ハラリ【※】の『サピエンス全史』を含めたビッグヒストリー系の書物の中でも繰り返し指摘されてきたことだけれど、ヒトは、感情の働きを使って絆を作ることで集団的生存確率を上げ、そのことで個体的生存確率を上げてきた動物です。仲間のために命を張るぞという感覚です。それが性愛や家族の営みを可能にしてきました。

『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』
(画像はAmazonより)

※ユヴァル・ノア・ハラリ
イスラエル人の歴史学者。

宮台:
 それを可能にしたのが遺伝的基盤です。潜在的には損得を越えた絆を結ぶ力が誰にもあります。力が顕在化しないのは適切な時期に適切な刺激が与えられないから。具体的には本人が愛される経験や愛し合う夫婦や恋人同士を目撃して羨ましいと思う経験です。僕らの日常は言葉と法の内側で損得交換のバランスで回っている。だから適切な経験がないと、贈与の過剰に満ちた愛の営みなど絵空事だと諦めてしまう。

 大規模定住社会は損得の計算可能性をベースに回る。だから「法の奴隷」と「言葉の奴隷」が推奨され、贈与ならぬ交換が推奨され、過剰ならぬバランスが推奨され、渾沌ならぬ秩序が推奨された。でも、大規模定住社会化は、3千年前の文字の誕生以降。小規模な定住社会化でさえ1万年前以降。ホモ属サピエンス種の遺伝的基板は「ウタから言葉への進化」を促した変異を除き、過去20万年変わっていません。

人類史をさかのぼると、“性愛をどう生きるべきか”が明確に見えてくる

宮台:
 4万年前。遺伝子の変異で「ウタから言語へ」とシフトした(認知革命)。悲しいウタを聞くと悲しくなるが(ミメーシス)、悲しいという言葉を聴いても悲しくなりません(脱ミメーシス)。だから自由に組み立てられるけど、この自由を制約すべく、ロゴスを用いる散文的思考ならぬ、隠喩と換喩を用いる神話的思考を主軸にしました。当時は150人以下の規模で移動する遊動民。法はなく、仲間意識と生存戦略だけで前に進みました。

 1万年前。既存の農耕技術を用いて定住が決断された(定住革命)。収穫物ストックを保全・継承すべく法が生まれます。法は所有を守る手段です。所有とは「使っていなくても俺のもの」という観念。物だけでなく人に対しても適用されました。それが婚姻の法です。かつてない生活形式です。だから定住を決意しない遊動民もいた。彼らは「使っていなくても俺のもの」という観念に適応しないので、定住民から差別されます。

 3千年前。宗教儀式から離れた文字使用が始まる(文明革命)。音声言語は距離の近さが前提だから文脈拘束的。ウタほどじゃないけど声や韻律や舞踊によるミメーシス(感染的摸倣)を保持します。でも文字言語は距離の遠さが前提だから文脈自由。声や韻律や動作や舞踊から無関係に「内容で」勝負します。かくして神話的思考から散文的思考に移行した。文脈自由なロゴス化が大規模定住化=文明化をもたらした。

 1万年前の定住化=「法の誕生」。3千年前の大規模定住化=「文字の誕生」。以降「法の奴隷」「言葉の奴隷」が専らになる。元々は定住化に伴って仲間を守るための法。大規模定住化に伴って管理をするための文字。仲間が目的で法や文字が手段。でも法や言語が自己目的化する。この頽落を退けるべく祝祭がなされた。祝祭で元の在り方=「法外・言語外のシンクロ」を取り戻す。遊動民が聖なる存在として呼ばれます。

 4百年前から近代化が始まる(近代革命)。近代化とは計算可能化をもたらす手続化・技術化のこと。技術とは負担免除のための自動機械化。科学技術に限りません。典型が近代官僚制。合法枠内で予算と人事の最適化を目指して役人が動く。全て手順化されているから人は入替可能な没人格です。それが可能にする計算可能性が大規模定住社会を複雑化させる。社会学者ウェーバーによればそれが近代社会です。

 でも近代には弱点があります。法内・言語内だけでは「秩序維持でさえ」できません。役人を含めた市民倫理は「法を守ること」。でも政治倫理は「法を守る営みに意味を与えるような社会を守るべく血祭り覚悟で法を踏み越えること」。「正しさのために法を破る営み」を厭わぬ者が「政治」を与える。同じく「愛のために法を破る営み」を厭わぬ者が「家族」を与える。それ抜きには、計算可能性な近代社会「でさえ」回らないのです。

 近代のこの隠れた両義性が「ギリシャ的かセム族的か」という3千年前からの対立を近代でも再燃させます。大規模定住が始まって間もない2400年前。アリストテレスが両義性を指摘します。当時のアテネは24万人で仲間を越える規模。だから戦争が起これば親しい仲間と逃げるのが倫理的に善い。でもそれを放置すれば誰もが「都合がいい時にだけポリスを利用する」タダノリ野郎になり、倫理的に悪い。二律背反です。

 だから最高善はポリスのために死ねること=損得を越えること。ポリス没落期のアリストテレスは「大規模定住(文明)の不可能性」に気づいていました。問題の二律背反はソクラテスによる一神教批判に最初に出現します。3千年前の文明革命(文字化)を一方で駆動したのが「セム族的なもの=一神教」。理不尽や不条理は神の怒りから生じる。怒りは神の言葉への裏切で生じる。神の言葉を文字に書き留め這いつくばれ。

 大規模定住化に向けた知恵です。一神教が大規模定住=文明を可能にした理由が分かります。これにソクラテスが敵対します。這いつくばっても理不尽や不条理は消えない。世界はそもそもデタラメである--僕の書名でもあります。理不尽や不条理をものともせず前に進むのが英雄だ。この構えは、紀元前12世紀からの「暗黒の四百年」と呼ばれるアカイヤ人とドーリア人の殺戮闘争を記録したギリシャ神話に遡ります。

 災厄を避けるべく神の言葉に這いつくばる営みには実存的にも二律背反がある。それを記録したのが福音書=イエス言行録。ギリシャ標準語で書かれ(イエスの母語はヘブライ方言アラム語)ギリシャ影響下にある。典型は善きサマリヤ人の喩え。強盗に襲われ路傍に倒れた男。ラビ(聖職者)もレビ人(祭祀族)も通り過ぎる。戒律に書かれていないから。被差別民のサマリヤ人が駆け寄り、宿まで擔ぎ、所持金をはたく。

 イエスが問う、あなたが隣人にしたいのは誰だと。これはミメーシス(感染的摸倣)の可能性を尋ねています。教義学的(教理的)には「利己のための利他/端的な利他」の対比です。救われたいから戒律に従う。だから戒律にあれば行き倒れを助ける。でもこれは利他か。戒律になければ放置するのに! 自分たちが救われるかどうかに関係なく思わず手を差し伸べる人こそ立派だ。損得よりも内発性が推奨されています。

 損得越えの内発性は仲間を前提とする。大規模定住が仲間を超えるから神の言葉(の文字)が持ち出される。その前提は神による救済を期待する損得勘定。それは美しくないから感染しない。だから神の言葉に這いつくばるのはヤメだ--。ならば大規模定住を放棄するのか。お前も大規模定住を既に前提にしているのに(アリストテレスの二律背反)。答えは「石つぶてを投げる者をこそ愛せ」という隣人愛です。

 信者でない方々を前に言えば、そこでは不可能性が確認されています。少なくとも「ミクロには可能でもマクロには不可能」。こうしたミクロ即ち「不可能性への投企の推奨」をロマン主義と呼びます。近代の「政治」と「家族」のボトルネックに対応して、見ず知らずを「崇高な仲間」と思い做すドイツ的民族ロマン主義と、平凡な男女を「あなたこそ世界の全て」と思い做すフランス的恋愛ロマン主義が19世紀に立ち上がります。

 哲学者プレスナーが戦間期に述べた通り、不可能性の意識がポイントです。不可能性を忘却する者(後期ロマン派)は、民族ロマン主義からナチス翼賛へと頽落し、恋愛ロマン主義からストーカーへと頽落します。頽落を回避しようとするロマン主義(初期ロマン派)だけが「政治」と「家族」をミクロに可能にします。僕は「社会という荒野を仲間と生きる」と表現します。僕らにそれ以上の営みができるか。だから性愛なんです。

 意味はもう分かるでしょう。僕らは近代文明という大規模定住を生きています。それは「法の奴隷」「言葉の奴隷」抜きには持続しない。でも「政治と家族(性愛)」を見れば分かるように「法の奴隷」「言葉の奴隷」だけでも持続しない。とはいえ、全域が計算可能化=ビジネスマインド化=損得化する流れに抗って、「政治」と「家族(性愛)」でだけ「交換ならぬ贈与」「バランスならぬ過剰」「秩序ならぬ渾沌」を保つのは不可能です。

 でもマクロな不可能性です。思い出してほしい。定住が祝祭を不可欠とする理由を。僕らが元々ミクロには「交換ならぬ贈与」「バランスならぬ過剰」「秩序ならぬ渾沌」を生きるからです。「交換&バランス&秩序&シラフ」を旨とする定住は実存的(ミクロ)には普遍的にクソ。だから「クソ社会」と呼ぶ。定住はクソ社会だから祝祭する。そして僕らの社会から祝祭が消え、性愛だけ「贈与&過剰&渾沌&トランス」の時空が残った。

「なんかわかんないけど楽しい」の“なんかわかんないけど”を大切にしてきた

宮台:
 概略の話しかできなかったけど、分かってほしいのは、人はホモ属サピエンス種が分化した50万年の歴史から見てもごく最近まで、文字言語の散文を真に受ける「言葉の奴隷」でも、法の内側を損得で生きる「法の奴隷」でもなかったこと。そして、ハレとケ【※】の交代も1万年前からで、定住革命による「法の奴隷」になりがちな状態を、刷新するために、「トランス状態で法外のシンクロ」を体験するものだったということです。

※ハレとケ 
ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表している。

 そんな状態に入れば、平時に文字言語や法の営みをしていても、祝祭時に韻律や舞踊を伴う言葉を用いてタブーの時空でフュージョンすることで、ロゴスや法に縛られた在り方が「仮の姿」であると再確認できます。それを通じて、平時であっても「訳が分からないけど凄い」「何だか分かんないけど気に入った」といった名状しがたいものをずっと大切にしてきた。それが平時においても様々な動機づけを支えてきたんです。

 それを欠いた輩を「言葉の自動機械=クズ」と呼んできた。例えば言葉では日本人と中国人が区別されていても、そんな区別がどうでもよくなる時空がある。それが法内の損得ならぬ法外のシンクロだ。でもそこには既に2500年に及ぶ論争がある。法外のシンクロ=脱・這いつくばりを専ら擁護しても仲間を超えた大規模定住は無理。法内の損得を専ら擁護しても全体への貢献動機が存在しない大規模定住は無理。

 前者が「セム族的」=「一神教的」=「近代哲学(形而上学)的」=「カント的」=ツリー(樹)。後者が「初期ギリシャ的」=「パンテオン的」=「現代哲学(形而上学批判)的」=「ニーチェ的」=リゾーム(根茎)。思えば初期ギリシャのプラトン自身、ポリスの崩壊過程で「初期ギリシャ=ニーチェ的なもの」から「セム族的=カント的なもの」へのシフトを見せた。「詩人(ミメーシス)の擁護」から「哲人君主(イデア)の擁護」への変化です。

 確認したいのは、冷戦が終わってグローバル化に飲み込まれた後、一方で、政治における「民主政の危機」--トランプ現象や安倍晋三現象--という形で、他方で、家族形成における「性愛からの退却」という形で、僕らが直面するのは、カント的ツリーの限界=「言葉の自動機械=クズ」の問題です。クズが、政治も家族も不可能にしているという問題です。一部ではあれニーチェ的リゾームを取り戻さなければいけません。

 「カントからニーチェへ」「ツリーからリゾームへ」。この言葉は1980年代からの「現代哲学≒ポストモダニズム」ブームの中で語られ、当初は一部のインテリにしか分からなかったけど、今は多くの人が、ウヨ豚や糞フェミみたいな「言葉の自動機械=言葉の奴隷=クズ」が社会をダメにするのを弁えるようになって、事実上この言葉を理解するようになった。「クズとは仲間になれない、右か左じゃなくマトモかクズかだ」と。

 その意味で、僕の話は、2500年間全く変わらない基本原則の確認に過ぎない。「何か分かんないけど、在日なのにいい奴」「訳が分かんないけど、低学歴なのにスゲェ」といった感覚を開くこと。性愛は、「今まで想像しなかったけど、俺よりずっと年上なのにイイ女だ」みたいになれるという意味で、この基本原則への最短の扉だ。ただしロリ厨の糞ナンパクラスタ男や、イケメン厨の便所女には、決して開かれない扉だよね。

「損得のセックス」と「贈与のセックス」

宮台:
 「何か分からないけど凄い」から見放された「法の奴隷」「言葉の奴隷」増え、「損得を越えた内発性」を動機付けにできないクズが増えたのは、明らかに「社会の問題だ。でも、言ったように、「法の奴隷」や「言葉の奴隷」であるがゆえに「損得を越えた内発性」に駆動されず、「何か分からないけど凄い」から見放されれば、快楽の相対性を越えた享楽の絶対性に届かず、幸せになれない。ならば個人で生き方を変える他ない。

 という僕の言葉を聞いた以上、コストをかけてでも生き方を変えた方がいい。そう、間違いなくコストがかかる。試行錯誤しなきゃいけないからね。でもコストを厭わず試行錯誤すれば、さっき話した「見えないコミュニティ」がいつか必ず見つかる。「お前は何か分からないけど良い奴だから、仲間に入れてやる」と言われて、そこで初めて仲間と法外でシンクロする享楽を体験できる。それを知らずに死ぬのは哀れすぎるよ。

 セックスをしてもさして解決にならない。そのことは「素人童貞」や「精神的童貞」というクズが蔓延している話として説明した。とはいえ、セックスができないがゆえに劣等感や妬み嫉みで鬱屈したクズの、鬱屈度が下がることも事実だ。僕も幾度か実証した。童貞ゆえに鬱屈した男をAVに紹介すると、憑き物が落ちたようになる。良い事だけど、「どうにもならないクズ」が「どうにかなるかもしれないクズ」に変わっただけの話だ。

 「祭りのセックス」「愛のセックス」「ただのセックス」がある。「ただのセックス」は損得勘定の二人オナニーだ。要は快楽の相対性に留まる。「祭りのセックス」と「愛のセックス」は損得勘定を越え、交換ならぬ贈与、バランスならぬ過剰に、近づける。或いは、繰り返しを通じて、近づきつつあるのを実感できる。「愛のセックス」と「祭りのセックス」が重なれば、フェチ系ならぬフュージョン系セックスが開かれる。享楽の絶対性だよ。

童貞で悩んでいる人へ「過去自分が1番幸せだった時間を思い出せ」

宮台:
 僕の話が真実だと実感させる方法がある。アンビエントの音響を流す。遠くに聞こえる子供の歓声を流す。公園の日向に寝転んだ自分を想像する。過去を振り返って一番幸せだった自分を思い出させる。必ず人間関係の中にいる自分が思い浮かぶ。家族や仲間と一緒に過ごしている。そこには損得を越えた贈与の時空がある--アウェアネストレーニングの方法だけど、セッションが終わると誰もが涙が止まらなくなる。

 これをすると感情が劣化した自分を実感できる。実感できたら一番幸せだった自分を「回復」することを人生の最終目標にする。「回復」と言っても昔と同じリソースはない。だから試行錯誤しなきゃいけない。とはいえ闇雲に足掻くのとは既に違っている。考えてほしい。母親があなたを育てた時、交換を越えた贈与の時空、バランスを越えた過剰の時空、損得を越えた内発性の時空を生きていた。あなたは既に知っている。

 関係するけれど、性愛ワークショップをしてきた経験から言うと、交換を越えた贈与の時空、バランスを越えた過剰の時空、損得を越えた内発性の時空に、入りやすいのは圧倒的に女だ。だから恋愛稼働率も女は男の2倍だ。なぜだろう。たぶん進化生物学的な理由だ。女は子供を産み育てる潜在性を持つ。子供の産み育ては、交換を越えた贈与の時空、バランスを越えた過剰の時空、損得を越えた内発性の時空だ。 

 一番幸せだった自分の「回復」を最終目標にするのは、なぜか。今までの生き方を変えようという動機付けが生まれるからだ。それが生まれないと、感情の劣化は克服できない。できなければ一人寂しく死ぬしかない。実際それ以外の可能性はない。長生きすることよりも人々に悼まれながら死ぬ方がずっと大切だよ。そう思うのなら、一番幸せだった自分の「回復」を最終目標にすること。そうすれば「童貞」を卒業できる。

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