80年ぶりの新製品はプラス300万円で自動演奏のオプションを付けられる(写真:スタインウェイ・ジャパン)

ピアノの名門スタインウェイから80年ぶりの新型ピアノ「SPIRIO/スピリオ」が発表された。1853年の設立以来今に至るスタインウェイ165年の歴史の中での久々の新型ピアノとはいったいどんな製品なのだろうか。 


この連載の一覧はこちら

新製品への興味と同時に、80年間も新製品を出さずに成り立つスタインウェイ社のゆったりとした時の流れと、すでに完成の極みにあるピアノという楽器のすごさをあらためて感じずにはいられない。

その注目の新型ピアノ「SPIRIO」の最大の特徴は“自動演奏”だ。クルマ業界における近年の大きな話題が“自動運転”であるように、音楽業界にも自動演奏ブームがやってくるのだろうか。今回は「SPIRIO」を中心とした自動演奏ピアノの魅力に迫ってみたい。

100年前にはピアノロールが大活躍

自動演奏ピアノの歴史は意外に古く、まず頭に思い浮かぶのが19世紀末に開発された「ピアノロール」だ。記録紙であるロールペーパーに、演奏に基づいた穴を開け、空気圧によってピアノのハンマーを作動させるピアノロールは、黎明期のレコード録音技術よりもずっとリアルに演奏を再現できたことから、多くのピアニストたちがこぞって録音を残している。

中でも名高い『コンドン・コレクション』には、20世紀初頭の名だたる作曲家やピアニストの演奏が記録されている。作曲家では、サン=サーンス、ドビュッシー、ガーシュウィン、ストラヴィンスキー、ラヴェル、ファリャ、グラナドス、プロコフィエフにスクリャービンなど。ピアニストでは、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、コルトー、ホフマン、パデレフスキーなどなど、まさに当時のクラシック界を代表する夢のようなラインナップだ。

このピアノロールで再生されたピアノの音をCD化したアルバムが『コンドン・コレクション』として発売されているのだが、聴いてみてもどうもピンとこない。正直な話、生きた人間が弾いた演奏に聴こえないのだ。

資料としての価値はそれなりに高いのだろうけれど、ワクワクしながら鑑賞する素材としては物足りない。それが演奏の信憑性を含めた「ピアノロール」の限界であり、現在までの評価なのだろう。

現在望みうる最高の自動演奏がここに

では、スタインウェイが80年ぶりに世に送り出す新製品「SPIRIO」の機能はどうだろう。まず根本的にこの自動演奏ピアノがスタインウェイであることに意味がある。これはクルマの世界に置き換えて、メルセデス・ベンツやポルシェの自動運転を思い描けばわかりやすい。

自動運転機能が付いていてもメルセデス・ベンツやポルシェの高性能はそのままであるように、自動演奏機能を使わない場合にはあくまでも世界最高峰の楽器スタインウェイであり、自動演奏の場合もスタインウェイの素敵な響きを体験できるということだ。

ここで気になるのが、自動演奏を奏でる音源だろう。これについては2つのパターンが想定されている。1つは、ピアノロールがその時代のピアニストの演奏を収録したのと同様、現代のピアニストの演奏を順次収録している。しかし収録においても技術の進歩はすさまじく、「ハイレゾリューション・プレイバックシステム」と呼ばれる独自のソフトウエアが機能する。

その性能たるや、ハンマー速度は1秒につき最大800回、1020段階のダイナミックスレベルに対応し、ダンパーペダルとソフトペダル両方のペダリングは、1秒につき最大100回、256パターンものペダルポジションを認識するという。つまりピアニストが奏でる柔らかなトリルや繊細なペダリング、そして響き渡るフォルティシモなどをこれまでにない正確さで忠実に再現するということだ。

しかもその収録ピアニストの顔ぶれは、ラン・ランやユジャ・ワンなどを筆頭に、1800人にも及ぶスタインウェイ・アーティストのリストから選ばれているのだから申し分ない。

そして2つ目は、過去の名演奏の再現だ。こちらはCD等の記録メディアに残された名演奏家の録音を、上記「ハイレゾリューション・プレイバックシステム」によって解析したデータがスタインウェイ・ピアノを媒介して奏でられる。

言い方を変えれば、スタインウェイという最高級オーディオを通して過去の名演奏を楽しめるということなのだが、その音は本物のピアノ、しかもスタインウェイ・ピアノから発せられるだけに、理論的には限りなく本物の演奏に近いということだ。その意味では元音源もスタインウェイを使用した録音にこだわる点にも納得できる。

さらには、音源だけではなく同期する映像に一部対応しているのも画期的だ。「SPIRIO」を大型モニターに接続すれば、名ピアニストがその場で弾いているかのような臨場感も味わえる。

すべての操作はiPadで

「SPIRIO」には録音機能が付いていないため、自動演奏機能を楽しむための演奏音源配信方法や操作方法にも工夫が凝らされている。購入者にはiPadが提供され、その中に仕込まれたアプリによって「SPIRIO」を操作するのだ。演奏音源は定期的にアップデートされ、ユーザーはその音源をアプリに無料でダウンロードできる。

しかもそのサービスは永久に無料だという。ちなみに現在すでに2800の楽曲や映像が用意され、毎月増え続けるというのだから楽しみだ。これまでCDで親しんできたホロヴィッツ、グールド、ミケランジェリ、ガーシュウィンなどの名演奏がどのように再現されるのか、これはピアノ・ファンならずとも気になるところだろう。

この話題満載の「SPIRIO」を天王洲の「スタインウェイ&サンズ東京」で体験する機会に恵まれた。ラン・ランの演奏するショパンの「子犬のワルツ」を手始めに、グールドの1955年盤バッハの「ゴールドベルク変奏曲」や、ミケランジェリのショパンなど、ファン垂涎の名演が次々に奏でられる。

無人状態で鍵盤が動くさまは過去の自動演奏ピアノでも体験済みだが、ピアニストによって鍵盤の浮き沈みが微妙に違うそのニュアンスまでが反映されるとなると、これは一気にマニアックな世界へと突入しそうだ。

とりわけ興味深いのがiPadでの操作。楽曲リストからの選択はもちろん、音の強弱までもが変えられる様子はまさにピアノの形をしたオーディオ操作そのものだ。


ターゲットは「弾く人」ではなく「聴く人」(写真:スタインウェイ・ジャパン)

では、実際の演奏における正確な音量は?といった疑問が湧かないでもないが、そんなやぼな質問も吹き飛ぶほどの面白さに時間の経過も忘れてしまいそうだ。この「SPIRIO」を体験したピアニストたちの声も興味深い。

ラン・ランは「ピアノを購入して、ピアニストが家に来てくれるのを待つ必要はなくなります」と語り、「もうピアニストは必要ないね」と冗談交じりにつぶやくピアニストもいたという。

確かにこの自動演奏機能付きピアノ「SPIRIO」の購入ターゲットは、これまでの「弾く人」ではなく「聴く人」であるところがとても画期的だ。世の中を見渡してみても、ピアノを演奏する人よりも聴いて楽しむ人のほうがはるかに多いことは間違いない。そのあたりに、80年の沈黙を破り、満を持して「SPIRIO」を発表したスタインウェイの戦略が見え隠れする。

300万円の魅力的なオプションをどうとらえるか

さて、この「SPIRIO」の気になるお値段は、170センチの奥行きを持つ「モデルM」が1320万円。そして211センチの奥行きを持つ「モデルB」が1690万円。自動演奏機能の付いていない素のままの同じモデルに比べてそれぞれ300万円程高い価格設定となっている。

購入にあたっては、この300万円の素敵なオプションをどうとらえるかが問題だろうが、個人的には久々に物欲がうずく対象だ。そう簡単ではない購入資金の算段はさておき、5月に予定される発売が待ち遠しい。