“私の兄は、障害者”。見て見ぬ振りして、直視できない現実を避けるように生きてきた、妹目線の連載です。精神障害者保健福祉手帳の2級を発行された、兄。両親でさえ、この状況を受け入れることに時間がかかりました。

文・心音(ここね)

【兄は障害者】vol. 12

直視できないのは、私だけではなかった

この連載を読んで、兄の凄まじい変化に胸が痛んでいる方もいらっしゃると思います。その胸の痛みは、当時の私たち家族が感じていた紛れもない事実。妹である私ですら、この現実を直視することができずに心をかたく閉ざしていったことを今でも覚えています。

そして、両親はさらに苦しい気持ちだったと私は想像しています。なぜなら、障害者手帳が発行された後も両親は、兄のことを周囲に言わなかったからです。この事実を隠していました。

冷たく鋭い世間の目

唯一両親がこの事実を話していたのは、祖父母と両親の兄弟のみ。本当に近い身内だけが知っていました。両親が仲良くしている古くからの友だちや知り合い、近所の人などは兄がこのような経緯を辿ったことは知りません。

「世間体なんて気にしなくても良いじゃん」という意見もあると思いますが、この話をしたことで私たちが得るのは、多くの人からの「かわいそうだね」「大変だったね」と哀れみや同情の言葉だけ。兄が良くなるわけではありません。たとえ遠い身内だったとしても必要以上に兄の話をするのは、余計に私たちがストレスを抱える原因にもなったので、両親もなるべく内密にするようになったのだと察しています。

また、よくある “親戚の集まり” のようなものも、兄が迷惑をかける可能性があるため、ほとんどうちにはありません。物心ついた時から結婚式やお葬式、法事などは両親のみが参加。兄は参加しないのが家族のなかでの暗黙の了解でした。

“諦めと守り” の意味を理解する

兄の回復を切に願っていた両親ですが、明るい兆しは一向に訪れる気配がなく、苦渋の決断をして、障害者保健福祉手帳を申請しました。これは、仕方のない選択でした。しかし、この決断は、デメリットだけではありませんでした。

精神障害者保健福祉手帳の2級を発行された兄は、障害者年金として2か月に1回、国から13万円の援助金をもらえることになり、病院の診断や薬代の負担が軽くなったのです。また、交通機関が無料になるなど、地域によって異なるものの、待遇を受けられることに。こうして時間はかかったものの、「障害者」になることを選んだことで、兄を守ることができた。そう考えると、非常に前向きな選択だったと言えることでしょう。

今となっては “生活の一部” となっているこの状況も、当時の両親からすると “ギリギリまで諦めたくなかった” というのが本心だと思います。なぜなら、もっと早い段階で障害者手帳を手にすることができたから。8年粘り続けてやっとの思いで申請した。これが、両親の決断だったと思うと、私は深い拍手を送りたいと心から感じています。

その頃、私は初めて彼氏ができた

この頃、私は高校生。地元の飲食店でアルバイトを始めた私は、同じバイト先の年上男性と距離が近くなっていました。高校2年生から付き合い始めて、1年半か2年近く一緒にいました。第一希望の高校を落ちた私は、特に楽しみを見いだすことができずにただ通っていた高校生活と、冴えない家庭の間に挟まれて、バイトで元気に働くことが唯一楽しい時間でもありました。

家も自転車ですぐ近くの彼。一緒にいる時間が長くなるにつれて、言葉が詰まる質問。それは、「心音の家族って、どんな感じなの?」という話題でした。好きな人に一番聞かれたくないことだったのです……。

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