残業時間は減らしたいが、収入が減るのもつらい(写真:taka4332/iStock)

森友・加計問題や自衛隊日報問題など、スキャンダルの陰に隠れ大きく報じられていないが、4月6日に政府は閣議において働き方改革関連法案を決定している。具体的に同法案は残業時間に対する罰則付き上限規制(以下残業規制)導入や、高収入の一部専門職を労働時間規制からはずす「高度プロフェッショナル制度」の創設、非正規労働者の待遇を改善する「同一労働同一賃金」などを柱とし労働基準法や労働契約法など複数の改正案で構成されている。

スキャンダルをめぐって野党攻勢が続く中、同法案が十分に審議され、かつ、成立に至るのかどうかは雲行きが怪しい。だが、経済分析の立場からは、やはり、成立した場合の残業規制による所得減やそれが景気に及ぼすインパクトが注目される。2018年度春闘を前に安倍晋三首相が「社会的要請」という踏み込んだ表現で「3%」の賃上げを求めたのも残業代減少という副作用を念頭に置いたものと見られる。本欄では最新の数字を踏まえ、その影響を簡単に整理しておきたい。

2014年度増税に匹敵という試算も

今回の残業規制にかかわる法案どおりに法律が成立すれば、残業時間は年720時間、月間では休日出勤も含め100時間の上限が設定され、月45時間を超える月は年6カ月、平均して80時間が上限となる。この点、長時間労働が慢性化している日本では残業代を生活費の前提とする層が少なくないことも指摘されており、規制により「今まで払われていたが、今後払われなくなる賃金」が景気に対して、どの程度「負のインパクト」を持つのかが注目されている。

もちろん、「残業規制により1人では終わらなくなった仕事」があれば(それがなかったらこれまでの残業は本当にムダだったということになる)、それは「残業時間が少ない(残業枠に余裕がある)労働者」に分配されるはずなので、マクロで見た残業代の増減はそれらをネットアウトして考える必要がある。

残業規制のインパクトについては諸々の試算が錯綜しているが、政府の想定として4兆〜5兆円という規模感が報じられている 。過去に一部民間シンクタンクの推計として8.5兆円という数字が報じられたこともあったが、後述するようにこれは過大である可能性が高い。

では、「4兆〜5兆円」とはどのような規模感なのか。これを『毎月勤労統計調査』からイメージしてみたい。1人当たり現金給与総額(月間)に関し2017年を例に取れば、残業代に相当する所定外給与は全体の6.2%であった。


2017年の雇用者報酬が274兆円であるため、この6.2%に相当する16.9兆円が「年間の残業代」というイメージになる。政府の想定する4兆〜5兆円はこの30%弱、雇用者報酬全体にとっては2%弱に相当する。言い換えると、残業規制の影響はラフに「残業代の30%カット」もしくは「雇用者報酬の約2%カット」と言い換えられる。もちろん、ほかにも計算方法はあろうが、今回はこの数字を前提としてみたい。

この額は決して小さなものではない。内閣府試算によれば、2014年度の消費増税(プラス3%ポイント)は実質雇用者報酬を約3.5兆円押し下げ、この結果、実質個人消費は2.7兆円減少したという。政府想定の「4兆〜5兆円」は金額だけを見れば、2014年度の増税以上の影響ということになる。

仮に実質雇用者報酬が残業代規制により5兆円減少した場合、平均消費性向(所得のうち消費に回す割合)を0.77(内閣府の推計式から引用)とすれば 、実質個人消費は3.9兆円程度(≒5兆円×0.77)減少することになる。2016年度の実質GDP(国内総生産)は前年比プラス1.2%成長であったが、この減少を加味した場合、成長率は0.7%ポイント程度も押し下げられる(ここでは諸々の波及効果は無視する)。やはり小さい話とは言えない。

なお、こうして考えると、やはり一時期出回った8.5兆円という試算は過大だろう。その場合、実質個人消費は6.5兆円程度(≒8.5兆円×0.77)の減少とラフに2014年度増税の倍以上の影響になり、2016年度の実質GDPをマイナス成長に転落させかねない。それは考えにくい。

「量」を規制する本末転倒

残業規制が労働者の財布に痛いというのはわかりやすいが、企業の負担するコストについてはどう考えるべきか。直感的には、企業にとっての単位労働コスト(ULC)は減少するように思われるが、これは結局のところ、規制導入によって生産性がどう変わるかに依存してくる。

ULCは「名目雇用者報酬÷実質GDP=1人当たり名目雇用者報酬÷1人当たり労働生産性」で計算される。規制導入で名目雇用者報酬が下がり、生産性が上昇するならばULCは下がるだろう。だが、規制導入で名目雇用者報酬は抑制されても、生産性が悪化すればULCは上がるかもしれない。

たとえば、残業規制を受けた会社からの早帰り推奨を受けて急かされるように持ち場を後にする例があると耳にする。こうした挙動が個々人の生産性によい影響を与えるのか、議論の余地はあるだろう。また、ある業務の熟練労働者が強制的に労働時間をカットされ、非熟練労働者に仕事を配分することになり、むしろ生産性が下がる可能性もある(当然、「慣れている人」がやったほうが短時間で多くのアウトプットが可能になるのだから)。

残業規制の結果、企業が社員に支払う賃金が総額で減少しても、生産性が逆に大きく下がるとすれば、上述した定義式に従えばULCが上振れることもありえる。残業規制は労働者の財布にも痛いが、企業の財布にとっても痛い結果となる可能性を秘めている。ちなみにULCに関し近年の傾向を見ると、過去1年は生産性の改善が相応に押し下げに効いているものの、基本的には名目雇用者報酬による押し上げ効果が生産性上昇による押し下げ効果を上回る状況が続いている。


見通せる将来において人手不足が解消するメドが立っていないことを思えば、名目雇用者報酬の上昇圧力は構造的かつ持続的なものだろう。本来、残業規制を含む「働き方改革」にはこうした名目雇用者報酬の上昇を乗り越える生産性上昇効果を期待したいところだが、上で見たように、現段階では結果がどちらに転ぶのか確信が持てない。

そもそも残業時間という「量」の規制を目的化することは本末転倒でもある。因果関係で言えば、生産性上昇という「原因」があり、その必然的な「結果」として残業時間の短縮が期待できる。そこで初めて実質賃金という「質」の上昇と残業時間という「量」の減少が併存しうるのである。もちろん、同調圧力が非常に強い日本の職場環境を踏まえれば、たとえ本末転倒であっても「量」の削減に精神的な意味はあると思う。しかし、働く時間を強制的に削れば、自動的に生産性が上昇するという想定には無理があるだろう。

2016年以降、むしろ残業は増加中

近年、プレミアムフライデー(2017年2月開始)に象徴される政府の旗振りによる長時間労働の抑制は相応の耳目を集めているため、正式な規制導入を待たずに動き始めている企業(特に大企業)は多いと見受けられる。だが、少なくとも残業時間という尺度で測った場合、今のところ、その効果は顕著には表れていない。むしろ2016年半ば以降、所定外労働時間は増勢に転じており、これが規制導入でどう変わってくるかが注目される。


現状は(一応)歴史的な景気拡大局面に属するため、単に良好な経済環境の下で労働時間が伸びているだけという見方もできるだろう。もしくは残業代未払い(いわゆるサービス残業)が問題となる風潮を受けて、これまでノーカウントだった残業が算入されている可能性もある。「働き方改革」はまだ緒についたばかりであるため、所定外労働時間の増減だけを見て何かを断じるのは尚早である。

いずれにせよ、法律が今国会で成立すれば、残業規制は大企業で2019年4月から、中小企業ではその1年遅れで適用が始まる予定である。おそらくは政府も気にかけるように「働き方改革」で逆に賃金が減って景気が停滞するという皮肉な事態が発生しないのかどうか。引き続き改革の成果を計数面から丁寧にチェックしていきたい。

※本記事は個人的見解であり、所属組織とは無関係です