従来は測りきれなかった学力以外の生徒たちの能力が可視化される(写真:ferrantraite / iStock)

「ポートフォリオ」という言葉からみなさんは何を連想するだろうか。元々は「書類入れ」を意味する言葉だが、転じて「アーティストが自己紹介用にまとめた作品集」や「投資家の資産構成」といった意味で用いられている。さらに最近では、学校現場や教育分野でも「ポートフォリオ」という言葉が頻繁に使われるようになった。

「JAPAN e-Portfolio」というwebサイトが2017年10月にオープンしたことがきっかけだ。文部科学省の委託事業として始まったこのサイトでは、高校生が学校内外の活動を記録し、それらを高校の先生が確認することができる。

学力以外の能力をデータ化

生徒の記録は、「探究活動」「生徒会・委員会」「学校行事」「部活動」「学校以外の活動」「留学・海外経験」「表彰・顕彰」「資格・検定」という項目に分けられる。各項目には「振り返り」を記入するスペースが設けられ、それらの活動から何を学んだのか、そして今後どんな展望を描いているのか、言語化するよう設計されている。

このe-Portfolioを、2018年2月1日現在で約1200の高校が利用。全国の高校の数は5000校なので、約4分の1が利用している計算になる。また、2018年8月から記録が大学に提供され、出願基準到達者の抽出や主体性の評価などに用いられる見通しだ。現状、導入を決めているのは78の大学(短大含む)で、早稲田や法政、明治、立教といった私立上位校、あるいは大阪大や東京医科歯科、東京外語大など国立大学が名を連ねる。

大学受験で無視できない存在になった「ポートフォリオ」が、高校の教員や高校教育の関係者の間でホットワードとなり、さまざまな研究会やメディアでこの言葉が使われているのだ。

また就職活動においても、昨今ポートフォリオに似た取り組みが広がっている。2017年度に厚生労働省と文科省が協同で開始した「キャリア・パスポート(仮称)」という事業で、「児童生徒が自らの学習活動等の学びのプロセスを記述し振り返ることができるポートフォリオ的な教材」のことだ。2018年度の文科省予算でも、このキャリア・パスポートの普及定着に予算が確保されている。

「JAPAN e-Portfolio」と「キャリア・パスポート」に共通する思想は、これまで十分に記述、記録してこなかったような学びや成長の記録を一貫して記録、蓄積し、それを大学入試や就職活動といった、次のステップへ踏み出すタイミングで生かそうということである。なぜ今、こうした取り組みが教育現場で積極的に始まっているのだろうか。

「JAPAN e-Portfolio」や「キャリア・パスポート」を導入する最大の意義は、これからの時代を生き抜く若者にとって重要とされながらも、これまでの学校教育現場ではなかなか可視化されず評価されづらかった取り組みや能力が、自らの振り返りによって記述され、長い期間にわたって成長の記録としてデジタルデータとして蓄積され、それが大学入試や就職活動においても生かすことができるようになることだ。

2015年に教育経済学者の中室牧子氏が上梓した『学力の経済学』(ディスカヴァー21)によって、教育に関する議論にエビデンスが欠落していることが問題だと指摘され、大きな注目を集めた。確かに、戦後からの学校教育をたどると、閉鎖的な学校文化の中で教育という営みはブラックボックス化されてきた。それが最近になって、「競争」と「選択の自由」を志向する新自由主義教育改革などの影響もあり、教育にも説明責任が求められるようになった。それでもなお、その議論も学術的な根拠に欠けているというのが中室氏の主張だ。

しかし『学力の経済学』についても、あくまで『学力』についてエビデンスを示しながら説いた本であって、『教育』全般について論じてはいない。教育が生み出す効果には、創造性や主体性、協調性やコミュニケーション力、自分の将来を考える力などさまざまな要素が考えられるが、そうした要素はこの本の範疇ではないのだ。

実際、これらの効果を学校や教育現場が持っているデータから測定することは現状では難しいだろう。「学校での具体的な取り組み」と「それによる効果」の因果を明らかにできるデータ収集の設計や蓄積が十分とは言いづらいのだ。

ただ、今の教育がどこに向かっているかというと、そうした学力以外の能力をいかに伸ばすか、あるいは能力とも言いづらい、スタンスや在り方をどう育むのかというところにある。それは2018年4月から段階的に適用され始めた新しい学習指導要領を見ても、大学入試制度改革を見ても、さらにはOECDが必要性を強調するキー・コンピテンシーの内容を見ても明らかだ。

そうした潮流とも、この「ポートフォリオ重視」の流れは符合している。つまり、自分自身がどんな意図でなにを実際に行い、そこからなにを感じ、学び、それをまた新たな挑戦にどう生かしたのか、ということを自らの言葉で記述し、その変化を追いかけていくなかで、学力では測りきれなかった生徒たちの変化が可視化されていくことが期待されているのである。

「ポートフォリオ重視」がはらむ危険性

しかし本当にそれだけなのか。このポートフォリオという考え方がはらむ危険性についても今このタイミングで考えておく必要がある。

筆者が懸念しているのは、「ポートフォリオ評価」や「キャリア・パスポート」が若者の活動をコントロールする1つの権力装置になるのではないか、という点である。

学校における通知表や内申点は、学校での生活を制約する機能を持っている。「こんなことをしてバレたら内申点に響くかもしれない」「まじめにやってないと通知表が悪くなるかもしれない」そんなことを思いながら、自分の生活を律したり、何かを踏みとどまったりした経験がある人はきっと少なくないだろう。そんな感覚が彼らのすべての活動にしみだしていくことを危惧しているのだ。

そしてそれが学校の短期間の評価ではなく、消すことのできない生涯にわたる記録として残るとしたら、中高生の行動に及ぼす影響は決して小さくないだろう。あるいは、彼らがなんらかの取り組みを始めようとしたときの意図やそこでの取り組み、さらにはその振り返りに誰かからの評価が下ったとき、あるいは先輩の評価が後輩に知らされたとき、そしてその評価を下した人が自分自身の人生を左右するような立場にいる人だったとき、「評価されるための行動」を彼らが選んでいくことにはならないだろうか。

そもそも「キャリア・パスポート」が始まった背景には、職歴や職能を記入して就労を希望する企業に自分がどんな仕事ができるのかという職業能力を証明することやキャリア設計に用いられる「ジョブ・カード」というツールがある。このジョブ・カードは社会人や大学生が使うものだったが、より若い年代が使うツールとして再設計されたのだ。

いまの就職活動でさえ、大学生活全般から学生の活動や取り組みを評価し、時にはSNSも含めて学生の関心事や生活を読みとり、採用に生かそうとする時代である。もし「キャリア・パスポート」がいまの小中高生の生活を長く記録できたとき、それが採用のシーンで使われる可能性も往々にしてある。

つまり、「ポートフォリオ重視」の考え方は、学力偏重の価値観を壊していくかもしれないが、一歩間違えば新しい模範を作っていくことになるのだ。そしてそれはこれまでの模範より一層全人格的で逃げ道のない模範となる。

そんなことは誰も望まないだろう。なぜなら教育制度改革の大前提には、正解のない時代を生き抜ける若者の育成や産業にイノベーションを起こせる人材の創出、主体性や創造性を誰しもが育める制度設計が目標として掲げられているからだ。

海外で広がり始めた「ノーレイティング」

一方、海外に目を向けると「ポートフォリオ重視」とは異なる流れが最近では生まれている。マイクロソフトやGE、アクセンチュアといった一部のグローバルカンパニーでは「ノーレイティング」という考え方を採用。これは、リアルタイムでの目標設定とそれにひも付くフィードバックによって従業員のパフォーマンスを高め、年次での評価やランク付けを廃止するという取り組みだ(実施方法は企業ごとに異なる部分もあるが)。この考え方は2015年、フォーチュン500社の10%で導入された。

「ノーレイティング」の目的は、年次評価を気にすることで従業員が失敗や間違いをおそれ萎縮し、チャレンジしなくなることを避けることだ。また、評価基準の多様化も重要なポイントである。一律の基準や軸をもうけてランク付けをすると、どうしても特殊な技能や専門性、あるいは長期的な成果を目指す取り組みが評価されづらくなる。しかし、変化の激しい時代においては組織のダイバーシティ維持は非常に重要な課題となる。そのとき、各従業員との対話の中から彼らを評価すべきポイントを取り出し、評価しパフォーマンスを高めることができれば多様かつ強い組織が生まれていくだろう。

この「ノーレイティング」の考え方と、「ポートフォリオ」や「キャリア・パスポート」の考え方は逆行しているように思える。

大切なことは、「なにのために評価するのか」さらに言えば「誰のために評価するのか」ということなのである。

確かに、データが蓄積され、検索性や一覧性を高め、さらにはそれを数値化することもできれば、評価者にとっては便利で合理的かもしれない。評価や選考の効率は圧倒的に増すだろう。評価の結果や基準を察知した教育者は、どんな人材が「選考に通過する人材なのか」を認知し、そういった人材を育てることで「通過できる人材」を増やせるかもしれない。では、それが被評価者、つまり学習者の成長や発達にとってはどうだろうか。創造性や主体性、協働する力といった自由で多様な価値は育まれるだろうか。

ツールはあくまでツールである。しかし便利であればこそ意図しない帰結を生むこともある。だからこそ教育者やそれを使う選抜者(大学入試に携わる方々や就職面接にかかわる社会人)がそれに自覚的であるかということが重要なのである。つまり利用者側の哲学が問われるのだ。

「主体的に隷属する若者」が育つ懸念

フランスの社会学者ミッシェル・フーコーは『監獄の誕生』のなかで強制や抑圧といった権力観に代わる権力観として「規律訓練型権力」という概念を提唱した。これは、従来の法や支配のように単に人を抑圧するのではなく、訓練や教育を通して力をうまく引き出すことで人々を従わせるという「権力」の考え方である。イギリスの哲学者であるジェレミー・ベンサムが考案した「一望監視装置(パノプティコン)」はこの「規律訓練型権力」の例として挙げられる。

中心に塔が、周囲に円環状に独房が配置され、それぞれの独房には窓が設置されているがその窓は角度や高さによって塔からしか見えなくなっている。この仕組みによって、牢屋に入れられた者はいつ看守に監視されているかわからなくなり、架空の視線に怯えるようになり、そして”主体的に”自分自身を監視するようになるのだ。この権力の怖さは監視者が不在でも発生してしまうということだ。

大学受験や就職活動に際し、大人が子どもを監視するための装置として「ポートフォリオ」が機能したとき、そこには新しい権力が生まれ、たとえ大人が意図しなくても隷属する若者が育っていく可能性さえあるのだ。そうなってしまったとき、「JAPAN e-Portfolio」が評価したい価値として掲げた「主体性」は、本当の意味では芽生えないだろう。