新たな時代を生きる子どもたちに必要なのは……(写真:ferrantraite / iStock)

4月に入って新年度が始まり、多くの人が新しい生活を始めている。わが子が進学した読者の方も少なくないだろう。前回の記事「小中学校の『教育方針』が今春から変わる理由」では、今春から小中学校の教育が段階的に変わることや、その社会的背景について触れた。そして、新たな時代を生きる子どもたちに必要なのは「自己変容型知性」、つまり自分の価値基準を持ちながら、その限界を知り矛盾や相反する考え方を受け入れ新たな解を生み出す能力だと説明した。

では、「具体的にどんな教育をすれば、自分の子どもに自己変容型知性が身に付くのか?」と思われた方もいるだろう。今回はその疑問について考えていこう。そしてこの問いの答えは、実は子どもだけではなく、社員の育成や部下のマネジメントにも活用できる。

「自己変容型知性」の育成に必要な3つの要素

筆者が教育学を研究しながら、実際に中高生向けの教育プログラムを開発し提供する中で発見した、自己変容型知性を育むために必要な要素が3つある。「葛藤を越える体験」「自己を支える核の獲得」「学び手を主役にしたストーリー設計」だ。

1つ目は、「葛藤を越える体験」である。ハーバード大学ケネディスクールのロナルド・A・ハイフェッツはリーダーシップ研究の中で、「適応を要する課題」との出会いがリーダーとしての成長に欠かせないとしている。「適応を要する課題」とは、「それまでの思考様式を変容させなくては解決できない課題」のことだ。

そして、そうした課題が引き起こす「適度な葛藤」を乗り越える体験こそが人間の知性を高めるために必要であると、ハーバード大学教育学大学院のロバート・キーガン教授は『なぜ人と組織は変われないか』(英治出版)の中で説いている。

人に葛藤を起こす「適応を要する課題」には「正解のない問い」に向き合う中で出会うことができる。教育現場では昨今、なんらかのプロジェクトに取り組み、その中で学びを得ていく「プロジェクトベースドラーニング」という学び方が注目を集めている。

ゆとり教育によって始まり、いまでは一般的な教科として捉えられている「総合学習」は多くの学校でこのプロジェクトベースドラーニングによって営まれている。たとえば企業が抱える経営課題に取り組むような授業が実際に行われているが、そういった課題に取り組むうえでは、相反する立場を踏まえ、葛藤を経て決断していくことが必要となる。

ただ、このプロジェクトベースドラーニングに取り組めば自己変容型知性を身に付けられるかと言えば、必ずしもそうではない。なぜなら、プロジェクトがフィクションである限り、学びのテーマや討論の議題としては機能しても、自分の中の意識や哲学の変化にまではつながりづらいからだ。

『これからの「正義」の話をしよう』を著したマイケル・サンデル教授が投げかけた問いに、次のようなものがある。

ブレーキの壊れた時速100kmの鉄道を運転している運転手だったとして、そのまま進むと間違いなく5人が亡くなる。側道に入れば犠牲者は1人で済む。あなたならどうしますか?

この問いはまさに正解のない問いだ。そしてここで重要なのはどんな答えを出すかではなく、答えを出すまでに抱える葛藤である。この問いに出会った中高生が「正直どちらでもいい」「1人と5人なんだから普通に考えて5人助けるでしょ」と逡巡なしに答えたなら、この営みの価値は激減する。

大事なのは「自分ごと化」

要は、「自分ごと化」したうえで「意思決定」しない限り、自己変容型知性の発達は望めないのである。「自分はどちらを選ぶべきか」という問いに出会い、自分が大切にしてきたことはなにかを考え、その大切にしてきたことを追い求めると不幸にしてしまう誰かの存在に気づいたとしても、決めなければいけない。

そのときに「それまで大切にしてきたことを手放せるのか」「両者を幸せにするような第三の選択はないものか」そうしたことを考えることが、葛藤を「越える」体験になるのである。

子どもたちの自分ごと化を引き出すためには、テーマとの「出会い方」あるいは「決め方」が重要になる。たとえばなんらかの社会課題をお勉強的に大人や先生から提供されたのでは、中高生は取り組むフリはしても、自分ごととして心から取り組みはしない。取り組む中で調整が必要な課題に出会ったとしても、利害やそれまでの経験則、あるいは大人はどちらを大事にしているかを基に、「どこかにある答えを探す」スタンスでしか取り組まないだろう。それでは「適応を要する課題」に取り組んだことにはならない。

ハイフェッツは、既存の考え方を当てはめたり、スキルを身に付けさえすれば解決できる課題を「技術的な課題」と呼んだが、客観的には答えのない課題でも、取り組み方や解決の水準によっては「適応を要する課題」にも「技術的な課題」にもなりうる。

子どもの自分ごと化を引き出す方法として、自分の身の回りの困っている人、笑顔ではない人を探し、その背景にある社会の課題に自ら気づくという形でテーマとの出会いを設計してみるのもいいだろう。このプロセスにおいては”心をくすぐるような”問いやテーマとの出会いと、「正解の存在」や「規範」を完全に排除したコミュニケーションが欠かせない。

そして「正解のない問い」や「葛藤を生む課題」に、自ら始めた取り組みの中で出会うこと、その葛藤を越えるために手放さなければいけないことの大きさを感じ、時には後悔も抱えながら、決断しプロジェクトを進める体験こそが重要なのである。自分で気づき、自分で前に進んでいくということが大切なのである。

このとき大人たちには、自分が想定する答え以上の答えを子どもたちが生み出すということを心の底から信じ、自分の正解を手放して覚悟を持って見守ることが求められる。さらには、自分で考えた課題解決の方法を客観視させ、その課題や問題点を自分自身で考えさせるようなプロセスも必要かもしれない。

学びのプロセスの中に意図的に混沌を仕組むことが重要だ。自分が考え思いを込めて進めてきたプロジェクトの課題を自分で発見し、時にはやり直しが必要となるような障壁との出会いは、彼らに葛藤を与え、それを越えるために自己の変容を促すだろう。

自己を支える「核の獲得」とは?

「自己変容型知性」の育成に必要な要素の2つ目は、自己を支える「核の獲得」である。キャリア教育が盛んに行われるようになってから10年以上たつが、現在学校教育において行われているキャリア教育のほとんどは「情報提供」と「夢探し」である。昨今、多くの学校が社会に開かれた学校を標榜し、さまざまな場面で社会人が学校に赴くようになった。読者の方にも、母校や地元の学校で仕事やキャリアについて話をした経験を持つ方がいるだろう。

そのおかげで、昔は冊子を通してしか知ることのなかった幅広い仕事や、職場体験を通してでも1つや2つしか体験することできなかった職場のイメージに触れやすくなった。それ以前は親や先生の情報から自分の将来像を描くしか方法がなかったのだから、大きな進歩である。

こうして広がった仕事のイメージを基に、自分のキャリアや夢を考えていくというプロセスが多くの学校で行われているキャリア教育である。そして、自分が語った(語らされた)夢や将来像はそのまま「モチベーション装置」とされる。つまり、彼らがこれから乗り越えていかなければいけない受験や進路選択の中で「●●になりたいって言ってたじゃないか!」「そんなこともできないと○○には到底なれないぞ」と、彼らを煽り高めていくテコになるのだ。

確かに、こうした形で夢を実現する若者は少なくないだろうし、そうではなくても努力する理由にはなるかもしれない。しかし、こうしたプロセスは人生100年時代以前のキャリア教育と言わざるをえない。

前回の記事で紹介したように、学び直しやキャリアの選び直しが必須となる人生100年時代において、一つの夢を見つけそのためにがむしゃらに努力することを推奨するキャリア教育はすぐに限界が来る。自分の努力を支えたテコである夢が叶わなかったとき、あるいはその夢としていた職業がAIにとって代わられてなくなったとき、自分を支えるモチベーションが失われてしまうことは大きなリスクである。

むしろ変わり続ける社会の中で自分が大切にしたい価値観や思いを、職業や進路選択に紐付けない形で自覚することを目指すべきだろう。いまある職業の半分がなくなるかもしれない未来を生きる彼らに、いまどんな仕事に就きたいのかを考えさせるのは、半分の子にとっては間違いなく意味のない営みになってしまうのだ。

重要なのは「自分がありたい姿」であり、何を大切にしていきたいのかということである。いまこの瞬間、何かを成し遂げているか否かにかかわらず、いまここにいる自分を大切に生きるということが重要なのだ。そのためには、自分を深く幅広く知っていくこと、そしてそれがどんな自分であれ、周りの友人や大人が承認してあげることがとても有効だろう。

大人は、いまの成功の理由を学生時代から探し出し、いかに努力し続けてきたかをアピールするのではなく、紆余曲折や挫折、夢の変遷を言葉にして届けることを通して、一日一日、いまを大切に生きることの重要性を語ること。そして彼らのありのままを受け入れることを通して、一人ひとりの子どもたちや若者がそれぞれに持っている可能性を手放しに信じられるようにしてあげることのほうがこれからのキャリア教育においてはよっぽど重要だろう。

「学び手を主役にしたストーリー設計」とは?

3つ目は、「学び手を主役にしたストーリー設計」である。南アフリカ出身の数学者で発達心理学者でもあるシーモア・パパートは、学習や教育を支援するテクノロジーの導入において重要なこととして“low floors (ハードルが低いこと)” と “high ceiling(奥行きがあること)”を挙げた。さらに、子どもたちが簡単に使えるプログラミング言語Scratchを開発したMITメディアラボのミッシェル・レズニックがこれに“wide walls (幅が広いこと)”を加えた。

つまり学びのプロセスを設計する際には、誰もが挑戦できること、そのために遊びの要素があること(low floors)、意欲や習熟度によっては難易度の高いチャレンジや深い探究が可能であること(high ceiling)、そして、答えが一つではなく、取り組み方や関心、興味によって無数の可能性や自由度、多様性が許容されているということ(wide walls)が、これからの学びの場には重要なのである。

これら3つの点は、学び手を主役にしたストーリーが設計されていることの重要性を表している。うっかり始めてしまうくらいハードルが低く、幅広い正解の設定によりできるだけ早く成功体験が積め、それによって「もっとやりたい」という気持ちが高まる。そして、やりたいという思いを無限に満たし続けられるほどの探究の可能性が設計されていることにも留意すべきだろう。そのことで生徒たちが物語を自由に生きていくような心の動きが生まれ、それによって学びや学ぶ意欲が生まれていくのだ。

これら3つの条件の中で、筆者が最も重要であると感じる部分は「ハードルが低いこと」である。難易度の高いチャレンジや深い探究、あるいは自由で多様な取り組みができるのは、往々にして学校で能力が高いとされる生徒や既に評価されている生徒である。葛藤に出会うかどうか、あるいは葛藤を乗り越えようと試行錯誤するかどうか。あるいは自分自身の可能性を信じることができるかどうか、ということも、学校の授業などの取り組みでうまくパフォーマンスを発揮していたかということに依存する部分が大きい。

しかし、前回の記事でも書いたとおり、自己変容型知性を身に付けることがこれから求められるのはリーダーだけではないのだ。そう考えると、能力の高い子も低いとされる子も等しく学びの場に飛び込めるようにするには、ハードルの低さは何よりも重要となる。

言葉選びや言い回しに注意することはもちろん、誰がなにを言っても許されるような安心安全の場の設計や、規範を完全に手放したコミュニケーションが最も重要である。そうすれば「面白いからやってみる、やってみたらできちゃった。だからもっとやりたくなる」という流れが自然に生まれる。その中で葛藤に出会ったり、自分の中にある可能性に出会っていくことができるのだ。

以上の3つのポイントを意識したキャリア教育を、学校は徐々にではあるが進めようとしている。これからのキャリア教育が目指すところを一般社会や大人が支援していけるか、あるいはその理念を家庭でも実践できるか、ということも今後課題となるだろう。

「子ども」という概念は17世紀に生まれた

ところで、フランスの歴史学者であるフィリップ・アリエスは、1960年に公刊した『〈子供〉の誕生』の中で、「子ども」という概念が17世紀以降に作り出されたということを記している。

当時、社会に活字文化が広がり、子どもに読む能力、書く能力を発達させる「必要」が生まれた。それが「子ども」を「小さな人」から「未熟な大人」、そして「被教育者」に変えたのである。それ以降子どもとは、大人が知っていることを「知らない人々の集団」となった。逆に言えばそれ以前の中世においては、成人でさえ、権力者や階級の高い人々が持つ独占的な情報を知る手段がなかったので、階層の間に線を引く必要はあっても、成人と子どもの間に線を引く必要はなかったのである。

では現代はどうか。子どもと大人で、「知っていること」あるいは「知りうること」にそれほど大きな差があるだろうか。デジタルネイティブ世代は、いまの中高年世代よりも圧倒的に検索力が高く、情報にリーチするスピードは速い。動画によって情報を収集するということも、大人より若者たちのほうが得意だ。そしてそうした情報や知識は、国境を越えてグローバルに行き来している。大人よりも子どものほうがものを知っている、知りうるということはもはや珍しくない。

つまり子どもという存在を再定義しなければいけない時代に差し掛かっていると言えるのではないだろうか。当然、脳や体の発達段階によって、できることや適切な発育環境は異なるが、年齢が低いということだけで、すべての領域において子どもの発達が成人よりも劣っているというのはもはや時代錯誤である。彼らはもはや「未熟な大人」ではないのだ。

子どもという概念すら揺らぐ現代。大人はまず自分が持っている子ども観、教育観を見直してみてはどうだろうか。