高畑勲さんの訃報、ご家族、ご一同様には心からお悔やみを申し上げます。

 実は、ある案件で高畑さんにメールを差し上げていたのですが、ご返信がいただけず、いつもはすぐに返信のある高畑さんらしくない、どうされたのだろうと案じていました。

 本当に、本当に残念です。私の高畑さんとのご縁は、まずもって他の媒体が記さないようなものばかりですので、そうした別の角度から、「反追悼文」を準備しました。

 高畑さんにはまだやってもらわなければならないことがたくさんありました。安らかに休んだりする世界状況ではなかったのに・・・。正直、とても悔しいです。

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文学青年としてアニメに向かう

 結果的に生前最後に、高畑さんとお目にかかったのは、すでに2年近く前のことになってしまいました。メールの返信は早く、数本の計画が進んでいたのですが・・・。

 2016年8月9日、長崎原爆の日に東京大学安田講堂で私たちは連続シンポジウム「哲学熟議・哲楽遊戯」を開催しました。

 まず午後1時から アニメーション「火垂るの墓」全編の上映。

 続いて、高畑勲さんと哲学の一ノ瀬正樹教授が対談しているところに、東京新聞「平和の俳句」の選を終えた金子兜太さんと黒田杏子さんの俳人お2人が加わる「不戦の歳時記」という催しでした。

 このとき、3時間以上にもわたって白熱する議論を展開され、本当にお元気だった金子兜太さんが2月20日に逝去され、いま4月5日、今度は高畑さんが亡くなられた。

 親しく平和を愛する創作をともに大事に考えてくださった先輩方が、せっかく季節は暖かくなっていくのに、どんどん去って行ってしまわれる。

 断腸の思いです。実は、まだ詳細を書くことはできないのですが、急逝された金子兜太さんが104歳くらいまではお元気の予定で私たちが準備を進めてきたことがあります。

 それにまつわるご依頼を高畑さんにお伺いしていたのですが、ご返事の代わりに訃報がもたらされてしまいました。

音楽を愛し、音楽家に敬意をもった映画作り

 高畑さんとお仕事がしたかった。結局かなわぬこととなってしまいました。なぜそのように思うかと言えば、ご本人が音楽を愛し、また音楽家に敬意をもって画面と音響の全体を真摯に考えておられたからです。

 とりわけ昨今20年ほどの映画が、音や音楽の観点から、大半が見られたものでないのは、音に感覚のない人が音楽を「発注」して、塗り絵のようなことにしかなっていないからなのです。

 絵が動くとき、それを追いかけて音が説明するような音楽のつけ方を米国の俗語で「ミッキーマウシング」といいます。

 ディズニーのアニメーションが背景にあるわけですが、それに限らずハリウッド謹製の映画全般に、説明音が大半であるのは、あまり知られていない事実かもしれません。

 楽しそうな場面は楽しい音楽、悲しそうなシーンは悲しい音楽・・・。

 当たり前と思うかもしれません。それは言ってみれば素人の最悪の選択で、どうしようもありません。

 昨今は映画人でもそういう人が増えてしまった感がありますが、テレビなどはすでにその極北にあって、どうしようもありません。

 「悲しいとき、悲しい音楽で、何が悪いんだ?」と多くの読者は思われるかもしれない。もしそう思われたら、そういう「スポンサーサイドの広告担当者が多い」という事実と重なっています。

 少し前までの映画人などは、決してそんなことは考えなかった。

 悲しいシーンがあったとしましょう、画面で十分に表現できていれば、要らない音楽などかえって邪魔になる。びょうびょうと風が吹いてるだけの方が、よほど悲しいでしょう。

 そうではなく、ミスマッチを考えてみてください。

 絶望の極北のようなシーンに、可憐なワルツが流れていたら・・・。何と言うか、名状しがたいことになりますよね? 非常に深く感動する場合が少なくない。

 古い例ですがフランシス・コッポラの映画「地獄の黙示録」では、ヘリコプターとヴァーグナーの楽劇「ヴァルキューレ」の騎行の音楽の取り合わせが話題になりましたが、そんなに突飛な組み合わせではない。

 翻って、フランス・欧州の芸術映画で、音楽が画面の説明になっているようなものは、まあ普通見当たりません。端的には、ジャン・リュク・ゴダールの仕事などご存知の方は想起していただければと思います。

 異なるものを取り合わせて第3の意味以上の深い表現、映画・動画だから可能な表現を模索する「モンタージュ」あるいは「異化」といった手法は、この世界ではごくごく当たり前のものです。

 ソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュタインは、中国や日本で用いられる漢字から、映像の基本的な文法を労作しました。

 「耳」という漢字と「門」が合わさると「聞」になる・・・日本人には当たり前のことですが、ロシアやフランスの映像人は、ここに新しい創作の原理を見出しました。モンタージュと言われる方法のエッセンスです。

 「心」が「非」の状態になると「悲」しい・・・よくできています。

 でも「悲」をいくつ並べても「悲悲」では特段新しい意味など生まれない。これが「悲喜こもごも・・・」などとなると、話は変わってきます。

 メディアミックスを考えるうえでの、ごくごく標準的な思考であり感覚です。

 そういう意味で「普通のセンス」をもった人が激減してしまった。1990年代には、すでにそのような文化果つる状況に、日本の当該業界は十分に陥っていました。

 決定権を持つのは、映像も音楽も完全に素人のスポンサーだったり代理店だったりして、お金を握ってる感覚も才能もないどうしようもないのが、最低な「指定」をしてきたものです。

 映画も同様の惨状でした。米国でもイタリアなどでも、音楽を映像の弱さを補うパセリとしか思わないようなのが「ここはこんな感じ」「こっちはあんな感じ」と音楽(しばしばMと略します)を指定して、音楽製造業者は「デモ」を作って納品する。

 M1、M2、M3・・・納品した分だけ支払いがありますから、音楽業者としてはいっぱい(どうでもいいのを)作って納品して、安い単価でどうでもいい商売をする。

 自分で書かずに学生とかにゴミみたいな譜面を入れさせる業者も増えた。そういう業態の中から、ゴースト常習、偽ベートーベン詐欺師みたいなものも発生してきたわけです。

 こういう土壌では、まじめな仕事にはならないわけです。作曲家の武満徹は、音のついていないラッシュを見て、音楽の位置を1、2・・・と指定されたとき

 「ここは音がない方がいい」

 と自分で判断したら、決して作曲などしなかった。自分の音楽に一本、筋の通った人は、デモを出せなどという仕事はしないものだったし、そのようなアーチストは「使いにくい」ということになって、だんだん仕事から敬遠されるようになっていったものです。

 そういう意味で、高畑さんはこの種の堕落が一切ない人でした。切り詰めた表現を厳しく追求した「正気の映像人」だったと思います。

 映像の組み立てに厳密、音楽に造詣と愛情が深く、かつ、音楽家の発想を尊重しつつ、芸術をともに作っていくという、ものづくりの最低限のマナーを、当然のこととして前提とされる、ジェントルな芸術の品位で仕事されました。

 宮崎駿監督のアニメーション「魔女の宅急便」では、高畑さんは「音楽演出」をしておられます。

 高畑さんが演出されたシリーズ・アニメーションに「母を訪ねて三千里」という仕事があります。この仕事のために、高畑さんとスタッフは入念な南米の現地視察をされたと伺いました。

 スタジオジブリでのお打ち合わせで、私が「母を訪ねて・・・」の話題を出したのは、高畑さんが音楽家を育てられたと長年敬服していたからでした。

 「母をたずねて・・・」の音楽は、坂田晃一さんという方が担当しておられます。私はいまだご面識がないのですが、一度高畑さんと一緒に出演いただきシンポジウムが開ければと長らく思っていました。

 高畑さんは坂田さんに「母をたずねて・・・」の音楽を<ラテン音楽の本物で>と発注されたようでした。

 聞くところによれば、山本直純さんのアシスタントで修行された坂田さんが独立し始めた時期で、ここで坂田さんは南米の音楽やケーナなどの楽器に心深く通じられたようにお見受けします。

 というのは、同じ年のNHK朝の連続ドラマ<雲のじゅうたん>の音楽も、坂田さんが担当されたのですが、そこにもラテン音楽のイディオムが、全くラテンの文脈と切り離されて、非常に純度の高い形で実現していたからです。

 当時小学高学年だった私は、テレビで質の高い音楽を耳にすると、その作者に注意していましたが、坂田さんという同じ名前の人が、ケーナと思われる縦笛を同じように使いながら、連ドラと日曜夜のアニメで、各々違う気の利いた音楽を作っているな・・・と思ったものです。

 それから数年後、再び朝の連ドラで坂田晃一さんの音楽を耳にして、今度は分別をもって大変感心しました。

 といっても、この数年間は私にとって小学生から高校卒業までの年配に重なり、専門として音楽を学ぶ以前から、一通りの基礎を身に着けるまでの時期に当たっていました。

 ケーナや打楽器など、ラテンの素材を用いながら、全く別の、非常に質の高い劇伴の音楽が成立していたので、驚きました。

 その連ドラは「おしん」というもので、お化け番組として一世を風靡しました。

 雪国でけなげな女の子が頑張る、涙を誘う物語に、「母をたずねて三千里」にルーツを持ちながら、全く別の形の音楽が、内容を砂糖菓子のように下品に説明するのでなく、あるポジションを保ちながら成立している。

 もちろん、坂田さんの音楽が素晴らしいわけだし、そういう仕事を実現させたプロデューサー・ディレクターも見識と思います。

 師匠の直純さんも(お仕えするのは大変だったようですが<苦笑>)感覚の立った筋道をつけてるんだろうなと思いましたが、一番思ったのは「母をたずねて・・・の仕事が、作曲家を大きく育てているんだなぁ、という点でした。

 その時点で私は「高畑勲」という名前を意識していません。この頃、40代後半だった高畑さんは、いまだ今日のブレークを果たしておられませんでした。

人生は50代から、さらにその失敗から・・・

 訃報にどれくらい出ているか分かりませんが、高畑勲さんは大学で仏文を学び、フランス文学にも確かなライフワークがあります。

 フランスの民衆詩人ジャック・プレヴェールの詩集を訳しておられますし、結果的に最後の書籍となったかと思いますが、岩波書店刊のブックレット「君が戦争を欲しないならば」の中にも、圧政からの開放への希望を明るく歌うプレヴェールの詩が訳されており、ちなみにその高畑訳をテキストとして、私はシャンソンを書かせてもらいました。

 さて、これを「アニメで有名な高畑さんは、大学では仏文出身で、晩年に至るまでフランス文学にも思いがあった」みたいに誤解しないていただきたいのです。この両者は完全に1つのものだった。そこに高畑という人、芸術家の本質があるのです。

 昭和26(1951)年、高畑さんは東京大学文学部仏文学科の学生でした。同期には作家の大江健三郎さんがおられます。

 当時の仏文は優秀な人材、単に秀才に見えるといった本当は低い水準ではなく、本当に強い知の力を持った青年たちが学び、高畑さんも、代表的な戦後リベラルの知性、渡辺一夫氏などの影響を強く受けたようです。

 そんな高畑青年は、傾倒していた詩人、ジャック・プレヴェールが脚本を執筆した、シャープこの上ない風刺マンガ映画を見て衝撃を受けます。

 「やぶにらみの暴君」と訳されている、このアニメーションを知り、そのコンテなど可能な資料をすべて集め、自分で訳し、徹底して研究して・・・22歳の高畑さんは、このようなものを作りたいと心に決め、仏文学科秀才の当時は就職先として全く評価がなかった「東映動画」に就職します。

 ゼロから下積みを始めた高畑さんは、同時に東映の労働組合で運動を指導的、そこで宮崎駿さんと知り合ったのはよく知られた経緯と思います。

 1971年、36歳でAプロダクションに移動してテレビアニメシリーズ「ルパン契ぁ廚覆匹鮹甘、さらに73年ズイヨー映像に移って「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」そして先ほどの「母をたずねて三千里」などを担当。

 ここで1979年に担当した「赤毛のアン」では、東京大学仏文学科で3年先輩に当たる、でもおよそ近寄りがたそうな、私たち芸術音楽畑の難物、三善晃さんに音楽を依頼します。

 この当時、桐朋学園大学学長で多忙の極にあったはずの三善先生は高畑さんに口説かれて、タイトル音楽を自ら担当、シリーズの劇伴は全体のトーンの相談をしたうえで毛利蔵人さんに託しました。

 言うまでもありませんが、高畑さんは三善さんに音楽を依頼するに当たって、M1M2とデモを提出させて、なんて失礼千万というより、無意味な発注はしていません。

 そもそも納得のいかない仕事はすべて断るのが三善さんという人です。かつて音楽家はみなそういう存在でした。

 「赤毛のアン」という作品があり、自分が考えている作品像があり、オープニング出来上がりの動画があって、決まっているのは尺、時間長さだけです。

 そこから先は芸術家と芸術家のコラボレーションです。お金でサンプルデモを買ったり落としたり、といった時間の間埋めのようなインチキで仕事のアリバイなどには絶対にしない。

 音楽というのはこうやって作るもので、そうでないのは基本、効果音と言うべきです。私も効果音に堕した水準の仕事は一つもしたことがありません。そういう話はすべてお断りしてきました。

 偽ベートーベン事件で思わぬ経過をたどりつつブレークした新垣隆君も、もう少し後ですが三善先生のもと桐朋で学んでいます。

 このとき高畑勲44歳、いまだズイヨー映像でテレビアニメの名作に心血を注いでいた時期で、業界では知る人はみな知る存在だったと思いますが、いまだ今日の「高畑勲」にはなっていませんでした。

借金から生まれたスタジオジブリ

 1984年、高畑さんが49歳のとき、一つの転機が訪れます。

 営業的に成立しないだろうと思っていたアニメーション映画を、思い切って作ってみたところ、大きく化けてヒットした。「風の谷のナウシカ」(1984)という作品です。

 この作品のプロデューサを務めた高畑さんをねぎらうべく、宮崎氏からの発案で、アニメの監督として知られる両者が取り組んだのは、実写のドキュメンタリー映画でした。

 福岡県柳川市で、たった1人の市職員の抵抗と発意、行動から、クリークの埋め立て・暗渠化が防がれ、美しい水都が守られた「柳川掘割物語」という映画作品です。

 皆さんはご覧になったことがありますか?

 良いものを作るというとき、お金に糸目をつけない高畑さんは、「ナウシカ」の権利料3000万円ほどのシードマネーで、このノンフィクションを撮り始めたようです。

 ところが気がついてみると、あっという間に8000万円ほど出て行ってしまっていた。大変な赤字です。これは何とかしなければならない・・・。

 自分たちが一番お金が稼げるのは、結局のところもの作り、アニメーション映画しかありません。

 そこで企画されたのが「天空の城ラピュタ」という作品で、これで5000万円にも上る赤字をどうにかしよう(宮崎監督の自宅が抵当に入った云々という逸話も知られているかと思います)というとき、これを作るスタジオが存在しない。

 どうしようか・・・というとき、思い切って「スタジオから作ってしまえ!」と設立されたのが「スタジオジブリ」(1985)でした。

 つまり高畑さん50歳、赤字を何とかするべく背水の陣的に作られたこの会社が「ラピュタ」を生んでまず「柳川掘割物語」の借金を返し、手長尺の「柳川」が完成・公開(1987)、次いで作られたのが、2作同時公開となった

 「火垂るの墓」(1988)と「となりのトトロ」(1988)

 の2作、ここから本格的に「ジブリ」は世界に展開していったわけです。

 高畑さんとは、この「借金の元」柳川掘割物語 全編を上映し、環境を考える科学者と高畑さんご自身を筆頭に表現者のラウンドテーブル、シンポジウムを東大で行ったのが、ご縁でした。

 その折、先に触れた坂田晃一さんの音楽の仕事や三善さん、あるいは間宮芳生氏や、「魔女の宅急便」での音楽選曲などで、私が感心していたディティールなどでお話が盛り上がり、親しく行き来させていただくようになり、歌を作ったり、シンポジウムに登壇していただいたりしていただくようになりました。

 残念ながら作品はもう作れないだろうとも仰っていました。本当は次回、高畑さんが日本語版の吹き替えを監督されたアフリカのアニメーション「キリクと魔女」という作品を、駐日のアフリカ諸大使館から文化アタッシェのゲストを呼んで、ぜひご一緒いたしましょうと相談していたのですが、かなわぬことになってしまいました。

男は50歳から

 私が高畑さんと知り合ったのは49歳から50歳にかけての時期で、親しくお話するようになってから、「30台半ばまでは最前線にいたのに、ここ15年ほど大学に引っ込んで仕事も激減、50になってしまいました」とこぼしますと、怒ったような口調になられ、

 「50なんてすべてが始まる前みたいなものだよ。私なんかジブリを作ったのが50くらいだったから」と叱咤激励してくださり、大いに元気つけられました。

 実際、49で着手した「柳川掘割」の赤字、背水の陣のジブリ創立が50歳。

 「火垂るの墓」が53歳、「おもひでぽろぽろ」が56歳、「平成狸合戦ぽんぽこ」59歳、「ホーホケキョとなりの山田くん」64歳、「かぐや姫の物語」78歳と、50代以降の30年余に、ライフワークの映画5本を遺されました。

 限られた期間のご縁になってしまいましたが、本当はもっともっと、ご一緒したかった、表現者の良心が服を着て歩いているような方でした。

 子供の一視聴者として親しみ、影響を受けた「ハイジ」などのお話も伺いましたが、大切な作品だけれどテレビアニメはシリーズの全体で1つの作品、1本の映画とは作品として別のもの、というけじめをお持ちだったように思います。

 一般社会では定年とか役職定年とか言われるような年齢に近づいてから、本当にやりたいと思うライフワークを力強く実現していかれた高畑さんの歩みは、今の私自身にとっても本当に励みになるし、アラフィフのみならず多くの人に勇気を与えると思います。

 大学の同級生だった大江健三郎さんが芥川賞をとったのは1958年23歳で最年少、その後も「最年少」が続いた大江さんがノーベル文学賞を得るのが1994年59歳のこと。この時点で、もう1人の同級生、高畑さんは後期5作のいまだ道半ばにありました。

 それから四半世紀、大江さんの仕事はそれとして独立した価値と思いますが、高畑さんのライフワーク、またジブリ作品の全世界への普及と影響力は、文学というジャンル全体のそれよりはるかに大きなものがあると思います。

 映画を作っていないように見える時期にも、翻訳や各種の基礎的な研究など、良心的なインテリジジェンスとして、珠玉のような仕事をしておられます。

 グローバルに見て、渡辺一夫が指し示したようなユマニズムの果実から、最も大きな表現の花を開かせ、深く根づかせたのは、疑いようもなく高畑勲さんと思います。

 と同時に、その仕事はいまだ終わったとは言いがたい。結果的に最後の著作となった岩波のブックレットでご自身もそれを強調しておられます。ジャック・プレヴェールが言うとおり、平和という織物はいつでも綻び、穴が開きやすい。

 平和は単に織り上げるだけの布ではなく、毎日身に帯び、綻びは繕い続けなければならないものなのだと。

 つくり、つくろい、つくり、つくろえ。脆い平和を、つくり、繕え!

 だから私は、絶対に高畑さんの冥福など祈りません。アフリカの件もまだでした。兜太さんのことも約束したじゃないですか。どうして約束を破るんですか。絶対に冥福など祈るものですか。

 生前お話を伺ったビデオが残っていますので、ジブリか畑事務所にご連絡差し上げて、ビデオでこの分はご自身の声で繕っていただく場を、かならず持とうと思っています。

 「火垂るの墓」のような作品が古びたり終わったりすることがないように、高畑さんにはまだ安眠などしてもらいたくない。まだまだ高畑さんにはなすべきことが残っています。

筆者:伊東 乾