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人気政治家の「ワンフレーズ」で、選挙結果が大きく変わることがある。なぜ私たちはその場限りのアジテーションに乗せられてしまうのか。それはそうした演説が、ヒトの心のバランスを意図的に崩すものだからだ。本質を見誤らないために、私たちが自覚すべきこととは──。

■カーリングから考える「二重過程理論」

「そだねー」──この文字列を見るだけで、多くの人は何の苦労もなく、平昌冬季五輪で活躍したカーリング女子日本代表チームを思い浮かべることだろう。両者をつなげるためには、論理的な推論は必要ない。知り合いの顔を見て、「○○さんだ」と即座に判別するのと同じように、「そだねー」と聞いたり、文字で読んだりすれば、私たちはパッとカーリング女子たちのことだと判断できる。

他方で、カーリングの試合じたいは「氷上のチェス」と呼ばれているように、選手たちには技術もさることながら、高度な戦略的思考が要求される。ルールを知らない人が、カーリングの試合を見ても、選手たちがなぜストーンをあのような位置に投げるのか、おそらく理解不能だろう。いや、ルールがわかったとしても、ショットやスウィーピングの意図を理解するのは難しい。カーリングの試合を理解するには、見る側にも論理的な思考力が必要なのだ。

さて、私たちが「そだねー」と聞いて日本代表チームのことだと判断する心の働きと、選手たちのプレーを理解する心の働きとは大きく異なりそうだ。その違いは、現代の心理学ならば「二重過程理論」という学説で説明できる。

■「速いこころ」と「遅いこころ」の違い

「二重過程理論」に関してはさまざまな本で詳しく解説されているし、ネットで検索すればたくさんの解説ページや論文がヒットする。ここではその要点だけを述べておこう。

二重過程理論とは、ヒトの心には二種類の情報処理システムが重なっているという考え方のことだ。ふたつのシステムの呼び方はいろいろあるが、学術的には「システム1」と「システム2」と呼ぶことが多い。だが、それでは無機質なので、ここでは阿部修士氏(京都大学こころの未来研究センター准教授)が『意思決定の心理学』で用いている「速いこころ」と「遅いこころ」という呼び方を採用したい。

同書では「速いこころ」(システム1)を「直感的な反応や情動的な反応、本能的な欲求の発現を支えるシステム」と説明している。先の「そだねー」に対する反応は、「速いこころ」が作動していると考えていいだろう。グルメ番組で、有名人がおいしそうに食べる料理を見て「食べたい!」と思ったり、前方から来る自転車をよけたりするのも「速いこころ」の働きだ。「速いこころ」は、本人の努力は必要としない。「直感的」「情動的」という言葉が示すように、モノを考えずとも自動的に作動する。

それに対して「遅いこころ」(システム2)は、「合理的判断や論理的思考、自制心といった、意志の力によるこころのはたらき」を支えている。カーリングの試合を見ながら「なぜ、あそこに石を置いたのだろう?」と考えるのは「遅いこころ」を使っている。仕事のスケジュールを立てたり、ゲームの誘惑を断って勉強したりするのは「遅いこころ」が働いている。

■認知バイアスは「速いこころ」のエラー処理

先ほど挙げたそれぞれの特徴以外でも、「速いこころ」と「遅いこころ」は、多くの点で対照的だ。箇条書きでまとめておこう。

【速いこころ(システム1)】
・無意識的・自動的に働く
・情動的・直感的
・処理能力が速い
・非言語的
・努力・労力が不要
・一般的な知能とは無関係
・進化的に古い
【遅いこころ(システム2)】
・意識的・反省的に働く
・合理的・論理的
・処理能力が遅い
・言語的
・努力・労力が必要
・一般的知能と関係
・進化的に新しい

この連載で繰り返し考えてきたさまざまなバイアスは、「速いこころ」のエラー処理と捉えることができるだろう。だが、「速いこころ」は、動物である私たちが生きるうえでなくてはならないシステムでもある。一事が万事、「遅いこころ」を使って意識的・論理的に物事を判断していたら、食事をすることも服を着ることもままならない。前出の阿部氏は、本の中で次のような例を出している。

<眼の前で火の手が上がった場合、自分や周囲の人の命を最優先に行動しなければなりません。一目散に逃げる人もいれば、大声で助けを呼ぶ人もいるでしょう。こうした場合には、ゆっくりと思考していたのでは、適切な危機回避の行動をとることができません。火の恐怖から逃れるため、システム1が素早く機能することで、わたしたちは生き延びることができるのです>

だが同時に、あまりに「速いこころ」ばかりに頼ってしまうのであれば、それは動物的・本能的に生きることと変わらなくなってしまう。「そだねー」に浮かれるぐらいならかわいいものだが、「遅いこころ」を使わなければ、政治家の「ワンフレーズ・ポリティクス」に熱狂し、ポピュリズムを生み出すことにもなりかねない。

■「メソポタミア」の一言だけで全聴衆が震えた

私が「速いこころ」の極端な例として思い浮かぶのは、アメリカの信仰復興運動の立役者ジョージ・ホイットフィールドの説教だ。国際基督教大学教授の森本あんり氏は『反知性主義』のなかで、次のような信じがたいエピソードを紹介している。

<その語り口たるや、まったく見事という他ない。彼は、同じ言葉を四〇回まで繰り返し、しかもその一回ごとに感動が高まるように語ることができた。ある日の観察によると、それは「メソポタミア」という一語だったという。(中略)いったいどんな文脈でそれが出てきたのか見当もつかないが、彼がただこの言葉を何度も語調を変えて叫ぶだけで、それ以外何も話していないのに、全聴衆は涙にうち震えたという>

<移住してきたばかりのあるドイツ人女性は、英語が一言もわからないのに、ホイットフィールドの説教を聞いて感極まり、「人生でこれほど啓発されたことはありません」と叫んだとか>

そんなバカな……と思うかもしれないが、程度の差こそあれ、私たちが何かに熱狂しているときの心のあり方は、この聴衆と似たようなものなのだ。

理性の領分たる「遅いこころ」は、立ち上がるスピードや処理能力に関して、「速いこころ」に比べて明らかに分が悪い。それは、私たちが根本的には動物的に生きることから逃れられないことを示唆している。

だが、動物のままであれば、すなわち「速いこころ」だけに身を任せていたら、人類が文明を築くようなことはなかっただろう。では、人間はなぜ、リソースの乏しい「遅いこころ」を使って、さまざまな制度や技術を生み出すことができたのか。次回は、その謎を「拡張された心」というアイデアから考えてみたい。

(編集者・ライター 斎藤 哲也 写真=iStock.com)