2006年6月22日のドイツワールドカップ、グループF・ブラジル戦での加地亮氏(写真:築田純/アフロスポーツ)

3月23・27日にベルギー・リエージュで行われたマリ・ウクライナ2連戦を1分1敗という不本意な形で終わった日本代表。4月9日にはヴァイッド・ハリルホジッチ監督解任という不測の事態が発生。西野朗(あきら)技術委員長がチームを率いることになった。

2018年ロシアワールドカップまで2カ月という時期の指揮官交代は大きなリスクも伴うが、2006年ドイツワールドカップに参戦した元日本代表の加地亮(かじ あきら)は「西野さんはチームのバランスを取れる監督。選手のモチベーションを上げるのもうまい。短期間でも積極的にコミュニケーションを取ってチームを変えてくれると思う」とガンバ大阪時代の恩師の手腕に期待を寄せた。

国際Aマッチ64試合2ゴールという偉大な実績を残した加地が代表右サイドバックを担ったのは、ジーコ、イビチャ・オシム、岡田武史(現FC今治代表)という3人の指揮官が率いた2003〜2008年にかけてである。

2003年当時、日本の右サイドバック候補には2002年日韓ワールドカップに参戦した市川大祐(現清水エスパルス普及部)、浦和レッズで活躍していた山田暢久らがいたが、彼らがJリーグヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)準決勝優先となったこともあって、2003年10月のチュニジア(チュニス)・ルーマニア(ブカレスト)2連戦に彼が抜擢された。そこでジーコの信頼を手にし、2004年アジアカップ(中国)優勝に貢献するなど、加地は絶対的地位を勝ち得ていった。

みんなを助けて黒子として働くことに集中

「僕が定着できたのはホントに偶然の積み重ね。ジーコジャパンにはヒデ(中田英寿)さんや俊(中村俊輔=J1ジュビロ磐田)さんみたいな、うまくて個性の強い選手がたくさんいた。自分は底辺にいる人間だったし、実力も分かっていたんで、ひたすら右サイドをアップダウンすることに集中していました。下手なりにみんなを助けて、黒子として働くことだけを心掛けていたんです。

代表時代の最も印象深い試合は、2004年10月のドイツワールドカップ1次予選・オマーン戦。1チームしか最終予選に勝ち上がれない重圧が漂う中、アウェーで勝って安堵感を覚えた記憶があります。ワールドカップ予選はプレッシャーと緊張の連続。つねに大変さを感じていました」と本人は述懐する。

そんな彼にとって、ドイツの大舞台は1つの集大成になるはずだった。1999年ワールドユース(ナイジェリア)準優勝の偉業をともに果たし、プロの階段を駆け上がった小野伸二、稲本潤一(ともにJ1コンサドーレ札幌)、高原直泰(沖縄SV)ら黄金世代が総勢7人もいる代表にも深い愛着を覚えていたに違いない。

ところが、6月12日の初戦・オーストラリア戦を2週間後に控えた5月30日のドイツ戦(レバークーゼン)で、加地はバスティアン・シュヴァインシュタイガー(シカゴ・ファイアー)に後方から悪質なタックルを受けて右足首を負傷。本大会出場が危ぶまれる状況に陥ってしまう。

「これ、ワールドカップに出られるのかな」

彼の脳裏に第一に浮かんだのは、こんな思いだったという。

タンカで退場してからはドクター、トレーナーと連日、治療・リハビリに専念する羽目になる。メンバー入れ替え期限ギリギリまで、彼らは全力で可能性を探り続けた。

ケガのことで頭がいっぱいだった

「本大会がOKかどうか最終チェックする日があったんです。『これでアカンかったら、日本に帰る』という覚悟を持って診てもらいましたけど、とりあえず、大会にはゴーサインが出て、心からホッとした記憶があります。僕自身、ケガの治療のことだけで頭がいっぱいで、初めてのワールドカップの緊張感を感じる余裕がなかった。そこだけはよかった点かもしれません。ただ、初戦は出られず、2戦目のクロアチア戦からになると。他のメンバーに頑張ってもらうしかなかったですね」

迎えた6月12日。カイザースラウテルンはギラギラとした太陽が照り続けていた。ドイツ戦のときは真冬のような寒さだったのに、気温が25度近くも違う。これにはベンチで見ていた加地も大いに不安を覚えた。

それでも日本は前半のうちに中村俊輔のラッキーゴールで先制。1-0で前半を折り返した。ただ、それはオーストラリアにとっては想定内のシナリオだった。彼らは後半からティム・ケイヒル(ミルウォールFC)、ジョシュア・ケネディ、ジョン・アロイージ(ブリスベン・ロアー監督)の切り札3枚を次々と投入。ラスト6分間にまさかの3点を叩き込まれてしまった。

「暑さにやられて後半、みんなの動きがガクッと落ちたのは感じました。向こうはそこに勝負を賭けていたと思います。僕は『何とか引き分けでいいから終わってくれ』と祈っていたけど、ああなると耐えるのは難しい。後から考えると、あの初戦でワールドカップは終わっていたかもしれない」と加地は苦渋の表情を浮かべた。自身がピッチに立てない無力感、自責の念も覚えていたはずだ。

いきなり崖っぷちに立たされた日本だが、気を取り直して前を向くしかない。彼は6月18日のクロアチア戦(ニュルンベルク)にすべてを懸けた。この試合も前半にPKを献上するなど苦境を強いられたが、川口能活(現J3・SC相模原)のスーパーセーブで難を逃れ、0-0で折り返す。そして迎えた後半6分、加地が最大の決定機をお膳立てする。

高原とのワンツーでペナルティエリア内の右から駆け上がった背番号21は絶妙の折り返しをゴール前に送った。次の瞬間、柳沢敦(現J1・鹿島アントラーズコーチ)がフリーで右足を合わせたが、シュートは無人のゴール上を越えていった。いわゆる「QBK(急にボールが来たから)」と言われるシーンだった。

ドイツの僕らに足りなかったこと

「『シュート性のボールをとりあえず逆サイドに飛ばそう。そうすれば誰かに合うやろ』と思って、強めのボールを蹴ったんです。自分的にはシュートだったけど、ちょっとマイナスに引っかかった感じでした。そこにヤナギさんが飛び込んできた。あの動き出しの鋭さはさすがヤナギさん。結果的に外れたのは仕方ないこと。誰も責めることはできないと僕は思います。

ただ、1つ言えるのは、本当に強いチームはああいうチャンスを逃さず決めてくる。落ち着いて仕留められる。それが強豪たるゆえんです。ワールドカップという舞台は戦術とかチーム作りとかはすべてもみ消されて、勝ち負けという結果しか残らない。魂と魂のぶつかり合いなんです。気持ちの強いほうが勝つ。もしかしたらドイツの僕らはそこが足りなかったかもしれないですね」

結局、クロアチア戦は0-0で引き分けるのが精一杯。加地は6月22日の最終戦・ブラジル戦(ドルトムント)にも先発フル出場を果たしたが、玉田圭司(J1・名古屋グランパス)の先制弾が逆に相手の本気を引き出し、結果的に1-4の惨敗。華やかな夢舞台から絶望の淵に突き落とされることになった。

すべてを出し切らないと勝てない

「ワールドカップって1次リーグだけだと270分間しかない。そのために全員ができることをすべてやり切らないと勝てないんだと痛感させられました。

だからこそ、今の日本代表も全員の考えを一致させて、西野さんが目指すサッカーを全うするしかない。西野さんがロシアで守備的な戦いをするのか、攻撃的なサッカーを仕掛けるのかはまだ分かりませんが、僕の知っている西野さんはボールを支配しながら攻めを仕掛けるスタイルを志向する監督だった。

そういう戦いに舵を切るのであれば、日本人の武器である俊敏性を生かして狭いエリアでどのくらい相手を崩せるかがカギになってきます。

プレースピードや頭のスピードを上げ、ボールを出して動く回数を増やしながら、相手を凌駕していければ、勝機を見いだせると思う。僕らがワールドカップで勝てなかった分、今の後輩たちには『勝つための最短距離』を徹底的に追求してほしい。そして、未来の日本サッカーにつながる戦いを見せてもらいたいと思います」

かつて日本の右サイドを疾走していた男の提言がどこまで後輩たちに届くのか。加地の願いを少しでも彼らが聞き届けてくれることを強く祈りたい。

(文中敬称略、後編に続く)