英国の国立公文書館(筆者撮影)

19世紀に発足した英国の国立公文書館には、さまざまな「公文書(パブリック・レコード)」が保管されている。『英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱』を上梓した筆者に、書籍には織り込めなかったエピソードを紹介してもらった。

二重スパイに協力した日本人

「英国」といえば、スパイを連想する人も少なくないだろう。

スパイ活動が活発化した総力戦となった、第2次世界大戦(1939〜1945年)中に、プロイセン王国(後のドイツ)で生まれたウルフ・ディートリッヒ・クリスチャン・シュミットはドイツ側のスパイとして英国に到着した。

時は1940年9月。パラシュートを使って英南部ケンブリッジ州に入ったシュミットは、英国人のふりをしたが、地元民から不審者と判断されてしまう。英語の発音が「イングランド人らしくない」のが1つの理由だったそうだ。


「テート」の生涯は「Double Cross Agent Tate」として書籍化されている(筆者撮影)

警察に逮捕され、自白したシュミットは、今度は英国を含む連合国側のスパイになることを約束させられる。英国内で情報収集を行い、ドイツに向けて偽の情報を送る「2重スパイ」である。コードネームは「テート」になった。

英国国立公文書館には、テートに関するファイルが保管されている。その中には、日本人にとって興味深い情報が入っていた。

テートは「ドイツのスパイ」ということで英国にいるわけだから、ドイツ側から報酬を受け取る必要がある。実は連合国側のスパイなので、どのようにして報酬を受け取っても捕まらないわけだが、「ドイツ側のスパイとして活動する」ふりをしなければならないので、「こっそりとドイツから報酬を受け取る」行為をしなければならない。

そこでドイツ側と何度か情報のやり取りを行い、まるで007のスパイドラマのように込み入った現金受け取り方法を編み出す。

どの駅からどのバスに乗り、どこで降り、「今、何時でしょう」と声をかけて会話を始め、お金が入った紙封筒を渡す、と周到に計画を練った。

いよいよ、計画を実行に移す日となった。

テートにお金を渡す役目を務めたのは、レインコートにトップハットの男性。この人物は英大使館に勤める日本人だった。

このときの現金受け渡しの様子を、国内の情報活動を担当するMI5が撮影し、記録に残していた。受け渡しがうまくいかず、「すれ違い」になりそうなスリルがいっぱいの過程も報告書として残ってる。男性の顔および全身の写真もファイルに入っている。

戦時中のある日本人の記録が、こんな形で詳細に英国の公文書館には残っていることに筆者は驚きを覚えた。写真や資料を何度も見たり、読み返したりしてしまった。テートとお金の引き渡しの逸話は『英国公文書の世界史』に詳細に書いた。

チャーチルお気に入りの女性スパイ

本には未収録となったが、ある女性スパイの話を紹介したい。

1940年、英政府は「特殊部隊作戦執行部」(Special Operative Executive=SOE)を設置した。ドイツの占領下にある欧州全体で偵察、妨害、調査を行うためである。終戦数カ月後の1946年1月まで、約1万3000人が連合国側勝利のために隠密活動に従事した。このうち、3200人が女性だった。

SOEの女性工作員の中で時の宰相ウィンストン・チャーチルの「お気に入り」として、その活躍が高く評価された一人がクリスティーン・グランビルであった。

グランビルはマリア・クリスチーナ・ジャニナ・スカーベックとして、1908年、ポーランド・ワルシャワで生まれた。スカーベック伯爵夫妻の娘で、裕福なユダヤ人家庭の出身であった。一家は1920年代に財政破綻に近い状態となり、グランビルは一時車の販売店で働いたこともあった。

1930年に実業家と結婚したが、間もなく離婚し、8年後、今度は元作家で後に外交官となる男性と結婚。1939年9月、夫がエチオピアに外交官として赴任すると同時にドイツ・ナチスがポーランドに侵攻。夫妻はロンドンに身を寄せた。

グランビルは、ナチスが自国ポーランドと英国にとって共通の敵となったと感じ、英国に貢献したいと思うようになった。知人のジャーナリストの紹介で、英秘密情報部(通称「MI6」)に紹介された。

それからの活躍は目覚ましかった。

ドイツとソ連の2カ国に分割されたポーランドや枢軸国側についたハンガリーの国境まで何度も足を運び、独ソ不可侵条約を結んでいたにもかかわらずドイツがソ連への攻撃順を開始しているという情報を連合国側にもたらし、ドイツの支配に抵抗する活動家などに資金を渡した。枢軸国側の警備隊に拘束されたこともあったが、策を抗して逃げ切った。

1941年1月、同じくポーランド人のスパイ、アンドリュー・ケネディとゲシュタポ(ドイツの秘密警察)に捕まったことがあった。グランビルは肺結核を患っているふりをするために、舌を噛み、口から出血した様子を見せた。感染を恐れたゲシュタポから解放されることに成功した。

1944年8月、連合軍が戦時中を通じてナチスの政権下にあったフランス南部に進軍してきた(「ドラグーン作戦」)。SOEの上級工作員フランシス・カマエーは連合軍が進軍しやすいように道を開けておく作業に従事していた。

しかし、カマエーはプロバンス地方南部にいたゲシュタポにほかの工作員とともに拘束されてしまう。死刑が宣告された。一方、拘束を免れたグランビルはフランス側のゲシュタポ協力者に会い、こう言った。「あと数時間で米軍が到着するわよ」、カマエーらを「解放しなかったら、復讐心でいっぱいのフランス市民にあなたたちを引き渡してやる」。英陸軍指揮官モンゴメリーの姪であるとしてはったりをかまし、200万フランの身代金を提供する代わりにカマエーと2人の工作員の引き渡しを要求した。

3時間にわたる説得と翌日身代金が空中投下されたことで、カマエーらは自由の身となった。グランビルはその功績を称えられて大英勲章(OBE)、勇敢な非戦闘員に与えられるジョージ・メダル、仏戦功十字章を得ることになる。

終戦と同時にSOE工作員としての仕事も消えた。グランビルは、戦時中ドイツとソ連に分割された母国ポーランドに帰ることができなくなった。そこで、英国への帰化申請を出す。それまでも本名ではなく英語名クリンスティン・グランビルを長年使ってきたが、1946年に英国人に帰化したことで、これが彼女の本名になった。


書庫にある特製の箱にファイルが入っている(筆者撮影)

英国国立公文書館にはグランビルが新たな職を求めて政府官僚や関係者と交わした書簡がファイルにまとめられている。戦時中の華々しい活躍の後、何か自分を懸けることができるような仕事を求めていた彼女の姿が浮かび上がる。

「お願いですから、私の名前を削除しないでください…どんな仕事でも喜んでやりますから。ドイツの収容所や刑務所から人々を連れ出す仕事はどうでしょうか、処刑される前に。ぜひやってみたいです」(1945年3月25日、SOEの統括者ハロルド・パーキンス宛の手紙)。保管をされている書類を見るかぎりでは、十分に満足のゆく仕事が見つかった形跡はない。

新たな人生のスタートと思えたが…

グーグルでChristine Granvilleの画像検索をしてみると、若い時に「ミス・ポーランド」大会で競ったこともあるグランビルは美貌の女性だったことがわかる。このため、男性ファンも相当いたようだ。英政府関係者がしたためた複数の文書には「何とか助けてやりたい」という思いがにじみ出る。

1952年春、南アフリカに滞在後、グランビルは英船舶会社「ユニオン・カッスル・ライン」のスチュワーデスとして働き始めた。新たな人生のスタートと思えたが、6月15日、ロンドンのアールズコートにあるシャーボーンホテルでグランビルの死体が発見された。刺殺だった。

犯人は客船の元スチュワードで、以前にグランビルに好意を持ってアプローチをして拒絶された男性デニス・ジョージ・マルダウニーであった。この年の9月30日、マルダウニーは絞首刑となった。1971年、ホテルの保管室にグランビルが残したスーツケースがあることがわかった。中には衣類や書類などが入っていたという。

ロンドン・ケンジントンにある在英ポーランド人が集まる「ポーリッシュ・ハース・クラブ」にはグランビルをしのぶ、ブロンズ製の胸像が置かれている。