写真=iStock.com/alvarez(イメージです)

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もし、事実無根の訴えを社員側から起こされたら、経営者はどう動くべきか。世の経営者は、営業は剛腕でも、人の問題となると弱腰で、ズルズルと問題を引っ張ってしまいがちだ。「問題を長引かせても、誰も得しない。裁判に持ち込む権利は、会社側にもある」と島田直行弁護士は言う――。

■何となくあやしい、と思いつつ採用

労働裁判を会社から仕掛ける。経営者などを集めたセミナーでそう語り始めると、参加者が「そんなことできるの」と身を乗りだして聞きだす。

労働裁判といえば、労働者が訴えるものというイメージだろう。経営者はとかくディフェンス一本という構造になってしまいがちだ。だから「会社側がイニシアティブをとって動くこともできます」と言うと、「まったく想像できない」という経営者が少なくない。

しかし、誰もが裁判を受ける権利を持っている。会社から労働者を相手に裁判をしてもおかしくない。実際のところ、私は会社側から申し立てることも少なくない。イメージをしやすくするために、過去の事例を紹介しよう。

相談者は、九州にある介護事業所だった。介護の分野は、恒常的な人手不足もあって、安易な採用から労働事件に発展することがしばしばある。とくに問題を引き起こしては他の施設に移っていく渡り鳥のような人もいる。「何となくあやしいな」と感じつつも、目の前の人手不足から、採用してしまうのが経営者の悲哀でもある。

本件の対象者は若い女性だった。遅刻や利用者とのトラブルがたえなかったことなどにより、話し合って、退職してもらった。そこまではよかった。問題は、退職後からはじまった。突然、女性の両親が興奮した様子で事業所を訪問してきたのだ。

■深夜にも、おかまいなく攻撃的電話

「残業代ももらっていない。上司からひどいパワハラも受けていた。そのうえ退職を強要するとは、どんなブラック企業だ。誠意ある対応をしなければ、労基署や知り合いの弁護士に相談に行くぞ」と経営者は、まくしたてられたわけだ。

言いがかりのような主張であったが、温厚な経営者の方なので、突然のことに面食らってしまった。経営者は、利用者の目もあるため、場を納めようとするばかりに、謝罪のうえ自分の携帯番号を教えてしまった。経営者としては、あらためて話し合いの場を設定するつもりだった。それが悪夢のはじまりだった。

両親からの電話は苛烈を極めた。勤務中だろうが深夜だろうが、おかまいなくの電話だった。携帯電話にでなければ事業所に電話する、という始末だった。他の社員も鬼気迫る電話に完全に精神的にやられてしまった。こうなると、交渉なのかクレーマーなのか、わからなくなる。

■事実無根、300万円超の要求

経営者は、「人の問題」に弱い方が多い。普段は豪快でも、社員とのトラブルとなると慌てたり、すぐに意気消沈したりする。交渉というのは、あくまで当事者が対等な関係でなければならない。相手に対してビクビクしている状況では、交渉にならない。

この経営者は、もともと別の弁護士に相談されていたそうだ。その弁護士のアドバイスは、相手の言い分に根拠はないから相手にしなければいいというものだったそうだ。それでも電話は止まらない。相手は、「自分こそ正しい」という信念を持っているから、ひるまない。「自分は正しい」と確固たる信念を持っている者は、自分の間違いに気がつくことができない。そういう状況の中、紹介で私のところにいらっしゃった。

事実を調査すると、相手の言い分はまったく根拠のないものであった。それでも相手は、ざっくり計算するだけでも300万円を超える要求をしてきた。何より相手は、一切譲歩する気はなく、「自分の要求をすべて受け入れろ」という姿勢だった。こちらから何か言おうものなら、「知り合いの弁護士も明らかに違法だから、訴訟しろとアドバイスしている。団体交渉もやろうと思えばできる」と口にするだけであった。

このようなケースでは二つの方針がある。相手が折れるまでひたすら耐えるというものと、経営者から動き出すというものだ。私はできるだけ事件を自分で展開していきたいスタイルなので、会社側からの裁判手続に入ることにした。具体的な手続きとしては、労働審判を利用した。しかし、経営者のほうはやや腰が引けている。

■相手を訴えて、火に油を注ぎませんか?

労働審判というのは、労働事件を早期に解決するために用意された制度だ。不当解雇などで労働者の側から利用されることが多い。それを普段とは逆に、会社から申し立てたということだ。内容としては、「労働者の主張は根拠がないものであって、会社として支払うべきものはないことを確認する」というものだ。

経営者からは、「こんなことして、火に油を注ぎませんか」と言われた。私は「延焼する前に止めるのも、経営者の責任でしょ」と答えた。経営者が「はっ!」とした瞬間だった。労働審判を申し立てられた相手方は、青天の霹靂だったはずだ。相手方からは、第一回目の期日の前に、裁判にせず話し合いで解決したいという申し出がなされた。結果、大幅な減額をして示談で終了させ労働審判は取り下げた。

このときに示談書では、金銭をもらったことを他の社員らに話をしてはいけないという取り決めもした。一人がお金をもらったことを他の社員が知ると、会社の一体感にひびが入るからだ。こういった配慮を弁護士としても忘れてはいけない。経営者はあまりのスピード解決にあっけにとられていた。

■クレーマーには、裁判手続きが効くことが

なぜ、労働審判を申し立てたか。一つには、両親と当事者を切り離すためである。裁判になれば、両親は当事者でないため参加できない。相手を分断させるというのは、交渉の基本だ。もう一つは、相手の言い分に根拠がないことをハッキリさせるためだ。相手としても、根拠がハッキリしていたら、交渉を継続することなく弁護士に依頼して訴訟などの手続きを取っていたはずだ。

根拠がないため、もしかしたら弁護士に受任してもらえなかったのかもしれない。あるいは根拠がないことがわかっているからこそ、あえて交渉に固執していたのかもしれない。相手がこういったクレーマーにも近い要求をしてくる場合には、会社から裁判手続を取ることが有効だ。他にも相手方となる当事者が複数いる場合、あるいは事実関係に争いがなく支払う金額で妥結できない場合などでも、裁判所を利用することがある。

■立派なシステムも、利用しなければ価値なし

私は、あらゆるトラブルは話し合いで解決するべきというスタンスだ。労働事件であっても、できれば裁判を利用せずに問題を解決したいと考えている。それでも限界というものがある。いつまでも問題が解決しないというのは、誰にとってもいいことではない。

裁判とは、勝敗を決める場所ではなく、紛争を解決するためのシステムだ。いくら立派なシステムを構築しても、利用しなければ価値がない。経営者の方も、一つの問題解決の手段として、頭に入れておいていただきたい。

(島田法律事務所代表弁護士 島田 直行 写真=iStock.com)