フィンランドの湖


 第2次世界大戦における枢軸国といえば、日本、ドイツ、イタリアの3カ国を挙げる人が多いでしょう。しかし実際には、この3カ国以外にも、枢軸国側に属し米英ソに代表される連合国軍と戦った国々は存在しています。

 そうした中で、筆者が特に注目し、日本の手本になり得ると高く評価している国があります。今年のセンター試験におけるいわゆる「ムーミン問題」でも話題になった北欧のフィンランドです。

 第2次大戦中にフィンランドは、ほぼ孤立無援の状況で隣の超大国ソ連から侵略を受けながらも勇敢に抗戦し、見事その独立を守り抜くという偉業を達成しています。

 そこで今回は、前後編の2回にわけて、第2次大戦におけるフィンランドの2つの戦争について紹介したいと思います。前編では、第2次大戦勃発初期にソ連の侵略から始まった「冬戦争」を取り上げます。

現在のフィンランドの位置と領土(出所:Googleマップ)


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強大なソ連軍による理不尽な侵攻

 まず、冬戦争勃発当時の世界状況について説明しましょう。第2次世界大戦は1939年9月、ドイツがポーランドへ侵攻し、それに対しイギリスとフランスがドイツに対して宣戦布告したことから幕を開けます。

 この時、ドイツはソ連との間で独ソ不可侵条約を結んでいたのですが、独ソ双方とも、一時的な不戦条約に過ぎないという認識がありました。そんな一時的な不戦期間中、ドイツがイギリスとフランスを相手にしている間、ソ連が領土拡大のターゲットとしたのが隣国のフィンランドでした。

 ドイツという後顧の憂いを絶ったソ連はフィンランドに対し、領土の割譲や軍港の無条件租借といった強引な要求を繰り返すようになります。しかしフィンランドはこれらの要求を敢然と拒否し続けます。こうした態度を見たソ連は1939年11月に、国境付近でフィンランド側から砲撃を受けたと偽装し、一方的に宣戦布告してフィンランドへ軍隊を送り込みました。その兵数はなんと当初から45万人で、最終的には100万人まで増派したと記録されています。

孤立無援のフィンランド

 この「侵略」としか言いようのないソ連の行動は世界中から非難され、国際連盟から追放される契機となります。フィンランド国内の社会主義者や共産主義者ですらソ連の横暴な侵略に憤慨し、フィンランド政府に協力したと言われます。

 しかし、状況はフィンランドにとって圧倒的に不利なものでした。スカンジナビア半島の先端に位置するノルウェーは、ドイツから圧迫を受けていたことから中立に回らざるを得ませんでした。また、イギリス、フランスなどからフィンランドへ支援物資や義勇兵が送られていましたが、ノルウェーが輸送を妨害したため、フィンランドには届いていませんでした。従って、この時のフィンランドは事実上孤立無援と言ってもいい状態で、何の支援もないまま独力でソ連に立ち向かわなければなりませんでした。

フィクションのような勝ちっぷり

 このような圧倒的不利な状況で仕掛けられた戦争でしたが、結果的にフィンランドはソ連に対してフィクションと見まごうばかりの大勝をおさめます

 下の図は両軍の動員兵力数と損害を比較したものです。見て分かる通り、ソ連はフィンランドの4倍の兵数を動員しながら、数倍の損害を出しています。戦車や航空機などの兵器面でもフィンランドはソ連に大きく劣っていましたが、まるで近代戦における火力の重要性がどこかに消え去ってしまったような勝ちっぷりです。

冬戦争におけるフィンランドとソ連の動員弊数と損害


 一体なぜフィンランドはこれほどまでにソ連軍を打ち負かせたのでしょうか。

 理由はいくつかありますが、ソ連側における最大の敗戦要因と考えられているのは、軍隊が組織として弱体化していたことです。当時のソ連の最高権力者であるスターリンが赤軍将校を片っ端から粛清していたため、まともな士官がおらず、ソ連の指揮系統や戦術があまりにも不甲斐なかったという指摘があります。

 実際に冬戦争中、当時のソ連の国防大臣が軍議中にスターリンに向かって「お前が士官を殺し過ぎたせいでまともに戦えない」と痛罵したといいます。さすがのスターリンも責任を感じていたのか、その後、この国防大臣を左遷こそしますが粛清するまでには至りませんでした。

 その他のソ連側の敗因としては、1カ月ほどで片が付くと思って攻め込んでみたら思わぬ抵抗に遭ってずるずると期間が延びてしまい、補給に綻びが生まれ、大量の凍死者を出してしまった点も挙げられています。ある意味、後の独ソ戦でドイツが犯した失敗を、この時はソ連が犯していたわけです。

史上最高のスナイパー、シモ・ヘイヘ

 一方、フィンランド側の勝因としては、ソ連との開戦前に「マンネルハイム線」(注)という防御陣を敷いてソ連の侵攻を食い止めたこと、兵力の少なさをカバーするために、森林などで待ち伏せするゲリラ戦のスタイルを徹底的に貫いたことなどが挙げられています(注:マンネルハイム線の名前の由来となった最高司令官のカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは後に大統領になりました)。

 ただ、これら以上に、絶対に祖国を守ろうとするフィンランド人の高い士気、そして最低限の訓練を経て採用された民兵が恐ろしいまでに強かったという事実の方が重要だったかもしれません。

 もともとフィンランドは狩猟の盛んな国であり、冬戦争ではハンターを中心とした民兵の狙撃部隊が組織されました。元ハンターの兵隊は、その多くが氷点下何十度という厳しい環境下でも高い狙撃能力を発揮しました。その中に、シモ・ヘイヘがいたことはソ連にとって悲劇以外の何物でもないでしょう。

シモ・ヘイヘ。1940年撮影。顎に戦傷の跡が残っている(出所:Wikipedia)


 シモ・ヘイヘは圧倒的な狙撃技術を持ち、ソ連側から「白い死神」と恐れられた人物です。彼の狙撃による射殺数は公式で確認されているだけで505人、非公式を含めれば1000人を超すのではないかとも言われています。驚くべきなのは、この射殺記録は冬戦争中のわずか100日間で打ち立てられたということです。彼の狙撃にまつわるエピソードはどれも人外じみており、300メートル以内なら確実に敵の頭部を撃ち抜き、1分間で16人を射殺したこともあると言われています。

 実際に彼が配属されていたコッラという地域は、ソ連軍の手に落ちることはありませんでした。ある丘ではシモ・ヘイヘを含むわずか32人が、押し寄せる4000人のソ連軍を撃退したという嘘のような話まであります。

戦闘で勝利するも領土を割譲

 ただしどれだけ民兵が奮闘しても、他国からの支援がない状態で武器弾薬の不足は避けられず、当初から戦争の長期継続は不可能でした。一方、ソ連側も開戦当初の損害の大きさを深刻に受け止め、早くから講話の道を探っていました。両国の思惑は一致し、開戦から約3カ月後の1940年12月、モスクワで講和条約が締結されます。

 戦闘で勝利していながらも、フィンランドは講和条約でソ連側の多くの要求を受け入れざるを得ず、重要な工業地帯を含むフィンランドの国土の10%がソ連に割譲されました。フィンランドはこの苦しい決断によって独立を守り切り、束の間の平和を勝ち取ったのです。

 しかし、この時のソ連に対する怨みはくすぶり続け、翌年の1941年にフィンランド対ソ連の第2ラウンドといえる「継続戦争」が勃発することとなります。

◎「後編」はこちら。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/52873

筆者:花園 祐