「Gettyimages」より

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●失言だらけの政治家たち

 政治家の失言がしばしば報道され、批判が殺到し、ときに辞任に追い込まれることさえあるのに、失言騒動は後を絶たない。
 
 なぜか。それは、失言のもつ意味を国民も政治家もちゃんと理解していないからだ。失言が問題にされ、批判にさらされると、“仕方なく”本人が出てきて釈明をする。あまりに批判が殺到した場合は、謝罪し、発言を撤回する。これで一件落着だ。そこでは失言の本質が見逃されている。

 世間を騒がせた近年の政治家の失言を見てみよう。

 憲法改正論議に関して、ワイマール憲法が国民の誰もが気づかないうちに、いつの間にか変わっていた、ナチスのあの手口を学んだらどうかといった主旨の発言をし、批判を招き、不適切だったとしてこれを撤回した政治家がいた。「国民の気づかないところで、そっと憲法を変えてしまえばよい」とでもいうかのような失言を、なぜするのだろうか。

 東日本大震災に言及した際に、「まだ東北で、あっちのほうだったからよかった」と発言し、激しい批判にさらされた政治家もいた。それに先だち、自主避難者についても「自己責任」だと突き放すような発言をしており、とても復興相という立場の人物とは信じがたい発言が続いたため、ついに辞任に追い込まれた。辞任にまで追い込まれかねない「被災者を冷たく突き放すような」失言を、なぜ繰り返ししてしまうのだろうか。

 観光で稼ぐという話のなかで、「一番のガンは文化学芸員と言われる人たちだ。観光マインドがまったくない。一掃しなければダメだ」と発言し、これが不適切だと批判にさらされ、発言を撤回し、謝罪した。「文化などどうでもいい。金儲けの邪魔になる文化人はいらないどころか害になる」とでも言いたげな失言を、なぜしてしまうのか。

 つい先頃も、国会で在日米軍機の事故についての議論が行われている最中に、「それで何人死んだんだ!」とヤジを飛ばし、あまりに不適切との批判を受け、辞任に追い込まれた政治家がいた。沖縄県民の気持ちを考えたら許されるものではないが、「べつにまだ誰も死んでないのに騒ぐな!」といった思いを匂わすような失言を、なぜしてしまうのだろうか。

●「開会」宣言のつもりで「閉会」を宣言した議長
 
 このような失言の背後に潜む深層心理を解明したのが、うっかりしたミスの精神分析を行ったジグムント・フロイトである。フロイトは、失言に代表されるうっかりしたミスについて、たいていは興奮、疲労、不注意などの生理学的要因のせいにされがちだが、そこに潜む心理学的要因が見逃されているという。

 たとえば、議会において、「開会を宣言します」というつもりの議長が、うっかり「ここに閉会を宣言します」と言ってしまった例について。議長が疲れており注意散漫になっていたからだろうといった生理学的要因による説明も、確かに成り立つ。

 でも、疲れていたから言い間違えたのだとしても、なぜ間違えたのが「開会」の箇所であって、他の箇所ではなかったのか。しかも、「開会」の代わりに口から出た言葉が、なぜよりによって「閉会」だったのか。これをすべて偶然のせいにしてしまってよいのだろうか。

 ここに浮上してくるのが、心理学的要因の存在だ。言い違いも、それなりの目的をもった心理的行為だとみなすのである。

 そういう目でこの議長の心理状況をチェックしてみると、じつは議会の形勢が思わしくなく、一応開会は宣言しなければならないものの、できるだけ早くお終いにしてしまいたいという思いが強く、それが「開会」を「閉会」と言い間違えさせたとみることができる。

 議長の心の中には、会議を開かなければならないという意図と、開きたくないという意図の2つが同時にあった。この2つが衝突し、せめぎ合った結果、言い間違いが生じたわけである。

 だが、そうしたせめぎ合いが心の中で生じていることに本人自身が気づいていないことが多い。だから、うっかり失言しても、平気でいるのである。じつは、失言によって隠しておきたい内面が見えてしまっているのに。

●上司に対する祝辞を言い間違えた部下
 
 もう少し具体的なケースについてみてみよう。
 
 あるパーティの会場で、上司に対して祝辞を述べる際に、「健康を祈って乾杯しましょう(anstossen)」と言うつもりで、「健康を祈ってゲップしましょう(aufstossen)」と言ってしまったケースについて。

 このような場合、言ってしまった当人は大慌てで謝罪し、訂正し、会場は大きな笑いの渦に包まれ、和やかに進行するのが常だろうし、それは緊張のあまりうっかり言い間違えてしまったに違いないと誰もが思うはずだ。日本語にしたら、こんな言い間違いはあり得ない。だが、ドイツ語では、語が非常に似通っており、うっかり言い間違えてもおかしくない。緊張のあまりうっかりしてしまった。それはそうだろう。

 だが、なぜほかのところでなく「乾杯」のところで言い間違えたのか。しかも、代わりに口をついて出た言葉が、よりによって「ゲップ」「吐き出す」なのか。

 ここでもまた心理学的要因の存在が疑われる。この場合も、日頃のこの人と上司との関係を知っていれば、この言い間違いの心理メカニズムは明らかだ。

 この人は、上司に祝辞を述べなければと思いつつも、心の中ではこの上司のことを尊敬すべき人物どころかとんでもないヤツだと思っているため、祝辞を述べることに心理的に抵抗があったわけだ。

●失言はすべてホンネ、謝罪し撤回してもホンネは変わらない

 これで政治家の失言の理由が明らかになったはずだ。
 
 なぜ自分の進退にもかかわる可能性もあるような失言を平気でしてしまうのかといえば、本気でそう思っているからだ。

 このようなホンネは、謝罪し、撤回したら、その瞬間に果たして変わるものだろうか。変わるわけがない。批判にさらされたから、仕方なく失言について謝罪し、発言を撤回はするものの、それはタテマエとしての謝罪であり、やむを得ない撤回であって、心の中までいきなり変わることなどあり得ない。人間というのはそんな単純なものではない。よほどの価値観を揺さぶられる経験をしない限り、自分が信じている考えなど、なかなか変わるものではない。

 さて、ここで強調しておきたいのは、失言しても謝罪・撤回で一件落着にはしないといった世論形成が必要だということだ。失言をいくら謝罪し撤回したところで、騙されない国民。失言はホンネの表れ、あの政治家は心の中でこんなことを思ってたのかと国民が考えるようになれば、自己呈示としての謝罪(本連載の第2回で解説)に騙されずに人間性を判断できるようになる。言葉には人柄や思想が滲み出るものだ。心の中に秘めたホンネが漏れ出る瞬間がある。

 失言を繰り返す政治家の側も、うっかり失言して批判にさらされると、「ほんとうにうるさいな」と思いつつ、仕方なく謝罪し、撤回するだけで、事態を軽く受け止めすぎている。うっかり言ってしまったことが問題なのではなく、心の中でそう思っていることが問題なのである。失言が問題になるということは、心のありようが批判にさらされているのである。

 国民から見て「???」「あり得ない!」と思わざるを得ないような失言を政治家が繰り返すのは、今の多くの政治家が国民の心理に無知でありすぎるからだ。国民心理から遊離してしまっている。ホンネがどこかズレてる。だから信頼が得られないのだ。
 
 うっかり失言して問題になると、運が悪かったと考える。だから進歩がない。思いがけず失言し、批判にさらされたら、運が良かったと考えたらどうだろう。自分が気づかなかった国民の意識とのズレに気づくチャンスととらえる。それによって国民の目線に立ってものごとを見ることができるようになっていけるのではないか。

「謝ってすむなら、ケーサツはいらない」
 
 子どもの頃によく耳にもしたし、言いもしたセリフだ。いい年をした大人たちが、国民の生活に責任がある政治家の失言を謝罪・撤回で水に流すなどという文化を、軽々しく形成しているのがおかしい。

 子どもだって、そんなのおかしいと思うのである。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)