WWEの舞台裏で活躍する全身タトゥーのコメンテーター、波乱万丈の歩み

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今年も大成功に終わったWWE年間最大のイベントであり、世界最高峰のプロレス大会『レッスルマニア』。その舞台裏では様々な人たちがWWEスーパースターを支えている。今回の『レッスルマニア34』で実況コメンテーターを務めたコリー・グレイブスもその一人だ。脳震盪によるダメージでレスラーの道を断念した彼は、現在はWWEを代表するコメンテーターとして解説席に座っている。

2014年12月にNXT(WWEのファーム団体)で引退を発表したコリー・グレイブスこと本名マット・ポリンスキー。重傷を負い、頬に折れた歯が刺さり、自分の妻に背の画鋲やガラス片を取ってもらう状況に耐えてきたグレイブスにとって、もはやプロレスラーでいられないほど苦しいことはなかった。

3歳の誕生日にハルク・ホーガンのバースデーケーキをねだるほど、子どもの頃からプロレスに夢中だった。80〜90年代のプロレス雑誌を収集し、古いVHSテープを何度も観ては弟のサムと一緒にブラウン管の向こうのスーパースターをマネして練習した。WWEだけでなく、オンラインで見つけた日本やメキシコのレスリングにもハマった。ピッツバーグのポリンスキー一家にとって、プロレスは家族の楽しみだったのだ。

消防士として働いてきた父、ダン・ポリンスキーは語る。「最初にみんなで試合を観に行ってからは、それまで以上にのめり込んでいったよ」

1998年にコリーがハイスクールに進学した頃、両親はグレイブスが学校にウンザリしていて、彼に寄ってくる女の子たちをはじめとして、何も関心が持てない様子であることに気づいた。14歳の息子が何に悩んでいるのかは定かではなかったものの、両親はある日の放課後、お互いに膝を突き合わせて話し合い、何か助けになれることはないかと尋ねた。「もしかして精神的な問題なんじゃないかと思ったんだ」と父は語る。そして我が子にレスリングを勧めたのだった。「するとこう答えてきたんだ。『父さん、もしそれができたら世界一最高だよ』とね」

しかし、そこからが挑戦の始まりだった。「父さんは認めてくれたけど、その先については分からないことだらけだったんだ」とグレイブスは語る。

ポリンスキー一家は電話をあれこれかけ、グレイブスはインディ団体との訓練生契約を結び、極寒のピッツバーグで廃墟となったショッピングモールで暖房もなしにトレーニングを始めた。これこそ彼の待望していたチャンスだった。「それが第一歩だった」と彼は語る。最初の数年は毎週3日間を練習に費やした。そのうちにポリンスキー一家は自前でリングを調達、地元の独立系団体との試合興業を始めた。兄弟はピッツバーグ中の地元インディ選手と腕を競ったのだ。

グレイブスの初試合は、ウェストバージニア州のマウンドビルで、バーンと呼ばれる地元の結婚式場に使われるような農場で催された。17歳のやせっぽちの少年グレイブスは、スターリング・ジェームズ・キーナンと名乗った。これは彼が大好きだったフットボール選手スターリング・シャープと、オルタナティヴ・メタル・バンドのトゥールのフロントマンを務めていたメイナード・ジェームズ・キーナンにちなんだリングネームだった。その晩、少年はピッツバーグでデビュー、初ファイトマネーは5ドルだった。

「席に座っていると誇らしくて笑みがこぼれました」と母タニアは語る。「彼はしっかりしていました。もうその時点で将来は見えてきたんです」

初試合後、グレイヴスの下積み生活が続く。「最初は独立系の団体に帯同していたんだけど、できる限り多くの仕事を手に入れようと頑張ったよ」

自分のレスリング活動を支えるために、クレイブスは一夜漬けのスポーツアナウンサーやボディ・ピアサー、タトゥーショップの店員など、どんな仕事でもした。バーの用心棒までしたこともあった。そして2007年のある日曜日、バーテンダーの仕事をしていた彼は、のちに妻となるエイミーと出会った。彼女はBMWの販促モデルとして年に10カ月はアメリカ中に出張して稼いでいた。「正直、最初に会ったときはどうかなるとは思わなかったの」とエイミーは語る。「彼は自分がプロレスラ―だって自己紹介してきたから、私はこう言ったわ。『ねえ、つまり何して食べてるの?』って」


(Photo by WWE)

とはいえ、2人はすぐに打ち解けた。それから1週間後、彼はエイミーの家に引っ越した。付き合って3カ月で婚約して、2009年には長男キャッシュを授かる。間もなく長女レノンも誕生。ただ、生活は厳しかった。妊娠したエイミーは昔のようにBMWのモデルとしては働けなくなり、2つの仕事を掛け持ちして、さらに教育学の修士コースも履修した。全て生まれてくる子どものためだ。グレイブスはといえば独立系団体の興業で週に100ドルしか家に稼ぎを入れられなかった。ボディピアサーとして働いていたときには稼ぎがよければ1日50ドルにもなっていたのに、である。仕方なく妊婦のための社会扶助に頼ることになり、それでミルクやシリアル代を工面したと、エイミーは語った。「10ドルのガソリン代をありとあらゆる小銭をかき集めて払う羽目になって、これはなんとかしなきゃと思ったわ。でも私たちはすごく愛し合っていたの」

この頃、プロレス界への夢に向けて動いていたのは弟の方だった。子どもの頃と同じようにグレイブスは弟のことを「リトル・サム」と呼んでいる。グレイブスは弟からWWEと契約したと聞かされて、びっくりしてその瞬間、自分のチャンスの扉が閉じたようにも感じたと語っている。弟のことを素直に祝福できなかった。長年のリング生活でも自分は世界最大の団体の食指に引っかからない。自分のどこが間違っているのか? たぶん、この話も何か仕組まれているに違いない、と思ってしまったのだ。そして弟は契約後 すぐ壁にぶち当たり解雇されてしまった。

「自分なりの準備ができていなかったのに、(WWEと)契約したんだ」と弟のサム(リングネームはサム・アドニス)は語る。「もし兄さんが僕を引っ張ってくれたなら、また違う成り行きになっていたと思う」とアドニスは言う。その後、アドニスはしっかり立ち直っている。現在はメキシコのルチャ・リブレでギミックを演じているアドニスなのだが、そこでは熱心なトランプ大統領支持者を演じてのけ、メキシコ中の憎まれ役として活躍している。

2011年、27歳でクレイブスはプロレスの道を断念することに決めた。彼は警察の通信指令課で働き定期収入を確保していた。

しかし、妻エイミーにとって夢を失った夫は受け入れがたかった。「彼に電話させてWWEのエキストラとして働くよう仕向けたの」とエイミーは語る。ちょうど運良く、クリーブランドでのRAWのエキストラに空きがあった。夫婦はとても貧乏だったが、彼女は夫の身なりをできる限り整えるべく、紫のセーター、カラーシャツ、ネイビーのスラックスを購入。彼女自らが彼の調髪をして、耳掃除までしてあげた。グレイブスも人生で一番それがまともな出で立ちだったと振り返る。そしてバックステージでは、彼のことを覚えていたエージェントたちが話しかけてきたが、グレイブスは自分がもう引退した身でここには雇われてきていると言い張った。一週間後、一家が食卓を囲んでいると電話が鳴った。WWEからだった。その電話を切った後でグレイブスがコトを把握するのには30秒はかかった。WWE側がディベロップメント契約をオファーしてきたのだ。

WWEではバロン・コービンと親しくなった。グレイブス同様、全身タトゥーだらけのNFL選手出身者だ。当初は距離を置いていた2人だが、グレイブスの方からコービンに打ち解けた。共通していたのは音楽への愛だった。コービンはメタル、グレイブスはパンク。コービンはのちにグレイブスに自分の結婚式での新郎付添い人を頼むほどで、リングでのグレイブスのキャラクターの際立ちぶりにコービンはとても心動かされていた。

「彼はリングの世界で最高にクールな男として振る舞えるだけでなく、きっちり切り替えて邪悪なキャラクターにもなれるんだ」とコービンは語る。

2014年の初めには、グレイブスはWWEに将来を見込まれた有望株の一人になっていた。プロレス界の伝説、ダスティ・ローデスもコリーを「次世代の怪物」と評していた。タトゥーだらけの彼は口も達者でプロレス通をうならせていた。ヘンリー・ロリンズのパンク・ロックやトゥールのオルタナティヴ・メタルをバックグラウンドに持つ謎めいた一匹狼キャラは、WWEの未来を約束されていたといっても過言ではない。しかし脳震盪によるダメージでその計画も潰れてしまった。グレイブスは「人生で最悪のときだった」と語る。

「その結果は誰にも分からなかったんだ」と彼の父、ダン・ポリンスキーは回想する。2014年の春、WWEのレジェンドの一人にして重役の一員、トリプルHはオーランドでのNXT大会収録前にグレイブスを呼び出し、彼がリングに上がれないということを伝えた。WWEの医療担当プログラムはグレイブスを医学的に不適格と診断。事実上、コリーはレスラーとしてWWEで戦うことができなくなってしまった。

その知らせを聞いたグレイブスの妻、エイミー・ポリンスキーはグレイブスと一緒に号泣した。「彼は同じことを繰り返し言ってた。『俺は終わっちまった。俺の人生はおしまいだ』って」

2014年4月、ニューオーリンズでグレイブスはWWEの声ともいうべき実況アナウンサーのマイケル・コールとビールを飲んでいた。『レッスルマニア30』が開催された週末で、グレイブスは脳震盪の影響で故障者リスト入りをしていたが、それでも微かな希望を持っていた。

「自分ではなぜ門が閉ざされているのか理解はできていた。でもそのときは受け入れたくなかった」とグレイブスは語る。「ここにたどり着くまでに一生をかけたのに、それが終わってしまったんだ」

NXTでのトレーニングを通してグレイブズはオーランドでコービンと行動を共にした。そのおかげで少しはマシな夜を過ごせた。グレイブスとコービンは2人でよく飲みに出かけた。「正直、見てられなかった。彼は家族を亡くしたみたいになっていた。あれから彼がどうなっていくのか本当に分からなかったんだ」とコービンは語る。

ピッツバーグ時代にラジオでバイトした経験があったということと、コールの助けもあって、WWEはグレイブスに実況コメンテーターのポストをオファーした。2014年12月に初めてアナウンサーとしての契約をしたとき、それは彼の望んでいたものではあったのだが、失ったこの先の選手としてのキャリアにも未練を残していた。

引退から約3年半が経った。2018年1月、フィラデルフィアのウェルズ・ファーゴ・センターで開催された『ロイヤル・ランブル』の会場に、ラベンダー色のボタンダウンシャツに身を包み、赤と黒のスタイリッシュなスーツを着たグレイブスはいた。ドレスアップしたグレイブスの現在の定位置はアナウンサー席だ。

その突き刺さるようなパンチの効いた語りは、サーシャ・バンクスの悪友ぶりを暴露するにせよ、解説席に座るコメンテーターのバイロン・サクストンを黙らせる新たなやり口を見出すにせよ、WWEが標榜するスポーツエンタテインメント界のかつての最高の解説者たち、ジェシー・”ザ・ボディ”・ベンチュラやボビー・”ザ・ブレイン”・ヒーナンを彷彿とさせる。

日曜夜の『ロイヤル・ランブル』の翌日には、月曜夜のRAW、火曜夜のスマックダウン・ライブと続く。いずれの番組にも登場するコメンテーターはグレイブスだけだ。また、それ以外にもFacebookでライブ中継する、男女混合タッグによるトーナメント、ミックスド・マッチ・チャレンジの収録をし、アトランタでは3日間で6時間分のビデオゲームの音声収録がある。


左から実況のブッカー・T、マイケル・コール、コリー・グレイブス(Photo by WWE)

オンエアではノンストップでまくしたてる彼がコネチカットの我が家に帰ると、子どもたちと遊び、野球観戦をして、時間を惜しんでは妻と連れ立ってニューヨークで夜を過ごしてタトゥーを増して帰ってくる。でも日曜日にはまた振り出しに戻ってRAWからスマックダウンに至る強行軍だ。

RAWのアナウンサーチームに2016年7月に参加して以来、頑固なプロレス者たちもグレイブスを待望されていた若き才能であり、WWEの伝統を継ぐコメンテーターとして喝采してきた。フロリダでのアナウンサー修業は決してたやすくはなかったが、グレイブスは期待を上回る実績を出している。1日4時間の生放送を1週間に何度もこなしているのだ。

彼は自分に厳しくあり続けている。というのも彼はこの転身を言い渡されたときの感覚をはっきり覚えているのだ。自分への称賛は謙虚に受け止めているが、ベンチュラやヒーナンにはまだ遠く及ばないと自覚している。「彼らは神話的な存在なんだ」とグレイブスは語る。「彼らと同じ空気を吸えるのはうれしいけど、自分がそういう人間になれるかどうか、一生無理だろうね」

コリー・グレイブスは今ではWWEの人気番組の主力解説者で、WWEの新たな声ともいえる存在だ。しかし彼自身は未だに落ち着かないようだ。「なんか奇妙なんだ」と彼は語る。「この業界の動きは激しくてとてもじっとはしていられない。戸惑うことも多いよ」と。