発達障害だからこその生き方がある(宮長義弘さん(仮名)撮影)

独特なこだわりを持っていたりコミュニケーションに問題があったりするASD(自閉症スペクトラム障害/アスペルガー症候群)、多動で落ち着きのないADHD(注意欠陥・多動性障害)、知的な遅れがないのに読み書きや計算が困難なLD(学習障害)、これらを発達障害と呼ぶ。
今までは単なる「ちょっと変わった人」と思われてきた発達障害だが、前頭葉からの指令がうまくいかない、脳の特性であることが少しずつ認知され始めた。子どもの頃に親が気づいて病院を受診させるケースもあるが、最近では大人になって発達障害であることに気づく人も多い。
そんな発達障害により生きづらさを抱えている人のリアルに迫る本連載。第3回は愛知県在住でASDの宮長義弘さん(26歳・仮名・会社員)にSkypeで取材した。

不登校中に出会ったプログラミングに夢中に


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現在はIT企業でSE(システムエンジニア)として働いている宮長さんだが、小学4年生の頃、突然授業がつまらなくなり不登校に。専門学校に入るまで長らく引きこもりだったという。

「かけ算九九もクラスで覚えるのが遅いほうで、授業を受けるのが我慢できなくなり、教室から飛び出したこともありました。それで、問題児として扱われ、現在の特別支援学級に入れられたんです。住んでいたのがたまたま国だか県だかが指定した教育モデル地域になっていたこともあって検査を勧められ、町の心療内科に通ったところ、ASDと診断されました」(宮長さん)

学校に行くのが嫌で引きこもっていた宮長さんだったが、引きこもり中に出会ったのがプログラミングだった。きっかけは親戚からもらったお古のパソコン。最初のうちはパソコンに内蔵されているゲームをプレイしていたが、次第にプログラミングすることにハマっていった。

「プログラミングってルールが決まっていて、書けば書いたとおりに動いてくれる。それが楽しくて、小学5年生のとき、フリーソフトを作りました。保存もできないただのメモ帳(テキストボックス)で、今で言うと付箋アプリのようなものです。でも、それを使ってくれる人がいるということで、すごく承認欲求が満たされたんです。自分は絵も描けないし、歌もうまくないので、発表できるものがたまたまプログラミングだったんです」(宮長さん)

宮長さんは「すごくシンプルなものですよ」と笑っていたが、ITに疎い筆者からすると、小学5年生にしてフリーソフトを作り上げるとは天才少年を想像してしまう。

入院生活で自分を見つめ直すも、不登校が続く

やがて、中学校に入学した宮長さん。中学でも特別支援学級に入れられ、学校生活は苦痛だった。なぜ学校が嫌だったのか聞いてみるも、宮長さんからはっきりした答えが出ることはなかった。ただ、母親からは「あなたは小さいときから相手の気持ちを考えられず、すぐに自分からケンカをふっかけていっていた」と言われたことがあるという。コミュニケーションの取り方に問題があったのかもしれない。そして、中学2年生のときに3カ月間だけ心療内科で入院生活を送ることになる。

「当時、ASDの権威の先生に診てもらっていたのですが、『そこまで君はひどくないから、一度、自分よりも大変な症状の患者さんと一緒に入院してみたら?』と、荒療治された感じでした。とりあえず、そういう環境に身を置けば良くなるかもしれないと」(宮長さん)

基本的に病院の敷地から出ることはできなかったが、敷地内にはコンビニや図書館もあり、生活するうえで困ることはなかった。個室はなく4人部屋で集団生活だった。昼間は隣にある特別支援学校へ通い、定期的にカウンセリングを受けた。普段はごく普通なのに、時おり精神状態が不安定になって暴れる患者もおり、そのような患者は隔離された。

ケガや病気での入院生活が楽しかったと言う人は少ない。宮長さんもさぞかしつらかったのかと思いきや「つらくはなかったし、自分の症状は軽いのだと思えた。自分にとって折り合いをつけるための入院で、自分を見つめ直せた」という。3カ月間の入院生活を経て、それまで通っていた地元の中学校に3年生で復帰した。心新たに頑張ろうと思っていたのに、現実はそうはいかなかった。

「学年が上がってクラス替えが行われ、担任の先生も変わりました。僕は入院のため3カ月間学校にいなかったので、一瞬存在を忘れられた状態になっていたんですね。だからだとは思いますが、『宮長はちょっと心の病気があるけど仲良くしてやってほしい』みたいな言い方で僕をみんなに紹介したんです。そうすると、クラスの人たちの僕を見る目が一瞬にして変わりました。それで、教室にいづらくなってしまい、再び不登校になってしまいました」(宮長さん)

また、宮長さんには元々軽い吃音があった。それも関係し、コミュニケーションを取ることが難しい場合もあった。今回はSkypeでの取材であったが、宮長さんがWebカメラを持っていないということで音声のみ。相手の顔が見えない会話だとなおさら、自分がしゃべるタイミングがわからなくなり、相手が話す番のときに話し始めてしまい、会話のテンポがつかめないのが悩みだという。

確かに、何度か会話と会話の間に沈黙があったため、私はネットやスピーカーの調子が悪いのだと最初は思い込んでしまい、宮長さんへ「聞こえますか?」と問いかけた場面もあった。

このように、コミュニケーションが円滑にいかないこともあるため、宮長さんを馬鹿にしていじめるクラスメイトもいた。ある日、宮長さんはついに我慢の限界に達し、彫刻刀を持ち出してそのクラスメイトの前で振りかざしてしまう。慌ててほかのクラスメイトが止めに入って何とかその場はおさまった。「今思うといじめではなく、からかっていただけなのかも」と宮長さんは語ったが、本人が傷ついていたらそれはいじめである。

恩師に出会い人生が好転

中学卒業後は、地元から少し離れたIT系の専門学校の高等課程(通信課程も含まれている)に入学した。知り合いがまったくいない環境だ。ここで宮長さんは恩師に出会う。

「1年の最初の頃はやはり引きこもり気味でした。でも、担任の先生が発達障害とか関係なく、普通にほかの生徒と同じよう平等に扱ってくれたんです。その先生は『お前たちを、当たり前のことを当たり前にできる人間に育てる』とおっしゃっていて、それに感銘を受けました。社会人でも当たり前のことができない人っているじゃないですか。通信課程もあるため、ある意味少し問題のある生徒が集まることもあり、そういう話をされたとは思うのですが、僕はこの先生のおかげで立ち直れました」(宮長さん)

卒業後は、同じ系列の情報系の専門学校へ。在学中は、自分が作ったプログラムが雑誌に掲載されたり、IT系の国家資格に4つも合格したりするなどして、ついには首席で卒業という、充実した学生生活を送った。そして、専門学校に講師として教えにきていたIT企業の社長の会社に就職した。

「でも、この会社はブラックでした。パワハラがあるし労働時間も長く、残業代も出ませんでした。ほかの会社に出向していた時期もあったのですが、出向先の仕事が終わったら、自分の籍のある会社に戻ってきて、なぜかそこの仕事もしないといけませんでした」(宮長さん)

過酷な労働環境だったが…

こんなに過酷な労働環境だと、心を病んでしまわないか心配だが、宮長さんはこの会社が今の自分ができあがったきっかけになったと語る。この会社は、社員をセミナー業や新人研修、職業訓練校に情報系の講師として派遣することにも力を入れていた。そこで、宮長さんも講師として派遣されることになった。

「僕はASDの症状や吃音のため、しゃべりが早口だったり、コミュニケーションを取ることが苦手だったりします。でも、この会社で講師をすることで、人に教えるスキルが身に付いたし、何よりコミュニケーション能力は人並みになったと思っています。こんなに貴重な体験をさせてくれる会社はなかなかないので、3年間は必ず働こうと決めてやり遂げました」(宮長さん)

3年で会社を辞めて第2新卒で転職。現在もSEとして会社員をやりつつ、フリーランスでも仕事を請け負っている。プログラミングは宮長さんにとって天職なのであろう。そこで、ASDの特性を持つ人はSEに向いていると思うかを聞いてみると、次のような答えが返ってきた。

「厳密に言うと、ASDの人はSEよりもプログラマーのほうが向いていると思います。SEはプログラムだけでなく設計もするんです。でも、プログラマーはただプログラムのテストをするという単純作業です。だから、目の前に来たものをひたすらテストし続ける、テスターみたいな役割が向いているのではないでしょうか」(宮長さん)

宮長さんは適職を見つけてそれを全うできているようだが、ASDの症状の1つである「マルチタスクをこなせない」という点で困ることがあるという。たとえば、4つ仕事があってそれをすべてやろうとすると、そのうち1つでミスをしてしまう。

それを防ぐため、To Doリストに書き出して上から一つひとつ確認しながら集中して取り組んでいる。そうすると、早く正確にこなせるそうだ。また、人の名前を覚えるのが苦手で、以前勤めていた会社の同僚社員のフルネームを思い出せない。定期券も今年4回なくしたが、それは性格の問題なのかもしれないとも思っている。

子どもの頃は生きづらさを感じていた発達障害。しかし、宮長さんは自分の発達障害についてプラスに捉えている。

「発達障害で苦労したことはたくさんあるし、できないことも多いけど、その代わり、他の人とは発想や考え方が違うし、おそらく頭の回転は速いと思っています。だからしゃべりも速くなってしまうのですが……。たとえばシステムやプログラムでトラブルが起きた際、ほかの人が見ている角度とは少し違う方向から攻めて解決することが多いです。

発達障害があるからとマイナスに考えても仕方がない。足りない分はきっとどこかに足されているはずだと考えています。でも、それと同時に普通の人と一緒にいられる自分にならなくてはという思いもあります。だから、普段から早口にならないよう意識はしています」(宮長さん)

発達障害が知られるようになった今、当事者である宮長さんはどう思っているのか聞いたところ、発達障害がマイナスな意味で軽く使われている印象もあるという。

「誰かが少し的外れだったり変なことを言ったりすると『お前アスペかよ〜』と突っ込む人がいます。もちろん、今はこの使われ方が改善されている途中だと思います。発達障害は少しずつ、病気の1つとして認識されていくのではないかと思います。それこそ、アトピーと同じくらいの認知度になっていきそうです」(宮長さん)

今後の目標は

苦しんでいた時間が長かった宮長さん。今まで親に迷惑をかけた分、親孝行したいとも語った。

「ブラック企業で働いた経験も糧になり、ようやく人並みになったので、次は社会人として時間やおカネの余裕を持ちたい。そこまでいけば、自分はようやく発達障害が治ったというか、僕は発達障害でないと言えるかなと」(宮長さん)

生きづらさから立ち直り、さらなる階段を上っている最中の宮長さん。話を聞いていると、努力の塊の人だと感じられた。「自分は発達障害ではない」と自信を持って言える日も近いのではないだろうか。

宮長さんは幸運にも自分の得意なことを見つけられたが、「できないことばかりで何もできる仕事がない」と嘆いている発達障害当事者のつぶやきもSNS上で見かける。どうすれば自分の得意分野に出会えるかという課題も、当事者が抱える大きな悩みなのかもしれない。