衣服づくりは女性の大事な仕事。写真は樹皮で作られたアットウシ

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狩りや漁を行い、自然のものを賢く利用して生活していたアイヌ民族。そんな人々のライフステージを追い、どんな一生を送っていたのかアイヌ民族博物館学芸課の竹内隼人さんに教えていただきました。

集落の規模は5軒程度のものから30軒ほどのものまで

■ かわいい子には汚い名を付けろ⁉

アイヌの家庭では子どもが生まれるとすぐには名前をつけず、しばらくの間はあだ名で呼んでいました。それも「わざと汚いあだ名を付けていました」と竹内さん。例えば「クソの塊」(!)「おじいちゃんの肛門」(!!)などなど。かわいい盛りの子の名としてはあまりにも…。「いい名前を付けてしまうと悪いカムイ(神)が自分の世界に連れて行ってしまうと考えられていたんです」。カムイに好かれそうなかわいい子ほど、汚い名前をつける必要があったということですね。

正式な名前は、くせが出てきたり、印象深い思い出ができたらそれにちなんで3歳ころにつけられました。しかしそれ以降も同じ名前の人に不幸があると変更したり、と必ずしも一生ものではありませんでした。

■ 毎日の生活が「学校」

学校はなく、子どもたちは身近な大人から暮らしに必要な知恵を学びました。ほか、ブドウヅルを輪にして棒でつついて転がす男の子の遊びは狩猟の練習、女の子は砂浜や囲炉裏に絵を描いて伝統的な文様を知る、と遊びも将来必要な技術を習得する大事な機会になっていました。

男女の役割ははっきりしており男性は狩猟、そして儀式で使うイナウ(木弊)などの神具作り。女性は山菜採りや裁縫のほか、儀式でカムイに捧げる供物やお酒、シト(だんご)を作ったりしました。女性は神具づくりには参加できませんでしたが、これはカムイが血を嫌ったからだとも言われています。

■ 大人になるための痛い試練

「一年」という概念がなかったので、何歳になったら成人、ということはなく、男性は狩りや儀式の技術を身に付けたら大人として扱われるようになりました。女性の成人の証はくちびると手の甲からひじにかけての入れ墨です。

女の子は今の年齢で言うと7、8歳ころから入れ墨を入れ始め10代後半ころには完成させます。腕の文様は地域ごとに異なっていました。「シラカバの皮を燃やした灰を刃物で傷をつけた肌に練り込んだようです。時間もかかったし、痛みも相当だったと思います」と竹内さんは話します。入れ墨を入れていない女性は儀式に参加できず、結婚もできませんでした。

■ 恋愛は自由。男性は木彫、女性は裁縫の技術が良縁へのカギ

コタン(村)とコタンはそれほど離れていたわけではないので、恋愛の機会もあり、結婚は基本的に本人たちの意志によるものでした。交際を始める際や結婚を申し込む際には、男性は女性に自分が彫ったメノコマキリ(女性用小刀)を、女性は男性に自分が縫った衣服を贈るという風習もあり、男性は木彫、女性は裁縫が得意な方が良縁に恵まれると言われていました。新しい所帯でも当然必要な技術でしたが、不器用な人は大変だったことでしょう。

■ 核家族がスタンダード。年長者にも役割が

アイヌの家庭は核家族が一般で、子世代は結婚すると新しいチセ(家)を建て独立しました。が、元の親の家とは通常「スープの冷めない距離」。子どもができると、狩りなどで留守にする際の面倒は親世代が担っていました。そのため、アイヌの子どもたちは、祖父母からアイヌに伝わる物語を聞くなど影響を受けて育つことが多かったようです。

男性は年を重ね周囲から人格者だと認められるとエカシと呼ばれ、儀式を執り行う役目を担いました。出産の際には、夫も含めすべての男性が外に出される中、火の神に母子の無事を祈るためにチセに残るなど特別な存在でした。

■ 死後の世界で不自由しないように、と気遣い

アイヌの人が亡くなると死者の世界でも不便のないように、と故人が使っていた物を燃やして送る風習がありました。一番大きなものは家です。カソマンテと言い、その家の妻が亡くなると、死者の世界に行っても自分の力だけでは家を建てられないだろう、ということで生前に住んでいた家を燃やして死者の世界に送りました。

亡骸は土葬し木の墓標を建てましたが、「そこにはお参りをしなかったんです」と竹内さん。先祖へのお参りは別に設けられた祭壇で行い、その祭壇にお酒や供物を捧げたそう。アイヌ民族博物館でも年に3回、コタンノミ(集落の祭り)などの際に先祖供養の儀式を行います。その際、供物はご先祖様と分け合って、半分は自分たちで食べるのだとか。墓標はあえて手入れをせず、朽ちると魂が転生し再び現生で暮らしていると考えられていました。

※文中のアットウシの「ウシ」は、アイヌ語表記では小文字になります。(北海道ウォーカー・市村雅代)