岡崎一明(現在は宮前一明)

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「オウム死刑囚」13人の罪と罰(4)

 東京拘置所からの「移送」で、13階段に足をかけたオウム真理教・13名の死刑囚たち。その「罪と罰」を振り返る。信仰に生きたはずの彼らは、なぜ道を外れたのか。

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「粛々とやってほしい」

 3月20日、地下鉄サリン事件の慰霊式が行われた。

「毎年恒例ですが、23年を経た今年は、いつにも増して注目が高まりました」

 と述べるのは、さる全国紙の社会部デスクである。

「麻原彰晃以下、13名の死刑囚の執行がいつ行われても不思議ではない。そうしたムードが高まっているからです」

 そして、その際に執行について問われた、被害者の会代表世話人・高橋シズヱさんは、冒頭のごとくはっきりと述べたのだ。

岡崎一明(現在は宮前一明)

「一方、かつて教団にVXをかけられ、瀕死の状態となった『オウム真理教家族の会』代表・永岡弘行さんらは、“麻原以外の執行停止”を求め続けて久しい。この点はさまざまな議論がとびかっています」(前出・デスク)

 とは言え、既に死刑が確定し、うち7名の移送が済んでいる現状では、全員がそう遠くないうちに執行されるのはまず間違いない。

 その是非はともかく、では、13名はどのような「罪」を背負い、どのように「罰」と向かい合ってきたのか。

 これまでの第1~3回では、教祖・麻原に加えて、坂本堤弁護士一家殺害、松本サリン、地下鉄サリンの「三大事件」すべてに関わった、中川智正、新実智光について取り上げた。今回から3回に亘り、坂本事件、もしくは松本事件に手を染めた、死刑囚5名について取り上げる。

麻原を恐喝

 坂本事件が起こったのは、1989年11月のことだった。信者の脱会に尽力していた坂本弁護士の排除を麻原が企図。実行したのは、中川と新実、そして岡崎一明、早川紀代秀、端本悟など6名。弁護士を殺めたばかりか、妻・都子(さとこ)さんやまだ1歳だった長男・龍彦ちゃんまで手にかけた、冷酷無比な犯行であった。

 その際、弁護士の首を絞めて絶命させたのが岡崎である。今は名古屋拘置所に移送され、「その日」を待つ身だ。

 ある意味で、岡崎は、他の12名の死刑囚とはまったく異なった存在である。地下鉄サリン事件まで「麻原の弟子」だった彼らと違い、岡崎は坂本事件直後の90年にはオウムを脱走。しかもその時に麻原を恐喝し、大金までせしめているのである。

 1960年、山口県生まれ。高校卒業後、会社勤めをしている時に、オウムと出会って入信。麻原、そして教祖の愛人で「女帝」と呼ばれた石井久子に続いて、3人目の「成就者」となるなど、幹部として活動していた。

 ところが、だ。

 彼は88年、ある席で石井を叱責。それが麻原の耳に入り、遺書を書かされるという罰を受ける。「使い捨てにされる」と危惧した岡崎は、90年、オウムが総選挙に立候補している最中、突如、教団の現金や預金通帳合わせて3億円を持って脱走。これはさすがに奪還されるが、同時に神奈川県警に匿名で龍彦ちゃんの遺体埋葬場所を示した地図を送る。そこから遺体は出なかったものの、これが岡崎の手によるものだと気付いた県警に聴取されるが、否定を続けた。一方で、「ばらすぞ」と麻原を恐喝し、830万円を手にするのである。その後は、郷里で学習塾を経営しながら沈黙を続けた。

 この時点で岡崎が「自首」し、オウムに捜査が入っていれば、後のサリン事件は起こらなかったはず。が、彼が一連の経緯を警察に話し、坂本事件が解明に向かうのは、5年後の95年3月、地下鉄サリン事件が起きた後のことだったのだ。

麻原より先には…

 遺族にとっては憎んでも憎み切れない相手であろう。

「彼は教団時代からどこかしら計算高い男でした」

 とは、オウムの「車両省大臣」だった、野田成人氏。

「面従腹背で、麻原の顔写真の入ったポスターを平然と尻に敷いて座っていたとか。また、弟子の囲い込みのようなこともしていました。だから3億円持って逃げたと聞いたときも驚かなかった。もっとも麻原の焦りようは酷くて、説法で“見つけ出したら袋叩きにしろ!”とハッパをかけていましたが……」

 95年の「自首」直前、彼にインタビューを繰り返したのが、ノンフィクションライターの武田頼政氏である。

「死刑確定前まで何度も面会しました。なぜ金を持ち逃げしたのか。なぜ恐喝まがいのことをしたのか。いろいろ聞いたのですが、岡崎は“持ち逃げじゃなくオウム崩壊後に備えて一時保管していただけ”“恐喝ではない。あんな額では済まない”という主張に終始していた。なぜ早く自首しなかったのか、と問うと“麻原から後で電話が来て、お前が何を言ってもこっちは否定するから信用されないぞ”と。妻や学習塾の子どものことを考えると出来なかった、とも。身勝手とも思える言い分に、接見室で言い合いになったこともありました」

 もちろんこうした姿勢は裁判でも糾弾された。

「本人は当初、自首したから極刑は免れると思っていたのです。しかし、そうはいかなかった」(同)

 一審判決では、〈人間性の欠如〉〈冷酷非道〉〈欲得と打算〉〈したたかさと狡猾さ〉等々、断罪されて死刑判決が下されている。

 確定は2005年。13人の中で最も早かった。

「岡崎は炭鉱労働者の家に生まれ、2歳になる前に養子に出されました。親に捨てられたという意識は根強く、似た境遇の麻原にほだされたのでしょう。確定第1号ですが、常々、麻原より先には執行されたくない、と言っていました」(同)

 現在の岡崎は、獄中で鶴や鯉などをモチーフに画を描き、死刑囚の絵画展の常連となっている。果たして、“父”の代わりは見つかったのだろうか。

(5)へつづく

「週刊新潮」2018年4月5日号 掲載