周りのノイズを気にせず、自分の思うがままに突っ走った女性が平安の世にもいたのか(写真:kuri2000/iStock)

サンドロ・ボッティチェッリの「ビーナスの誕生」を初めて見たときのことを、今でも鮮明に覚えている。中学生のとき、クラスの遠足でフィレンツェのウフィッツィ美術館を訪れた。平日の早い時間帯で人が少なく、ゆっくりと作品を観て回れたのだが、ボッティチェッリの傑作が飾られている部屋に入った途端、とっさにつぶやいてしまった。「あ、お腹出ている!」


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メディチ家の皆さまは毎日パーティに明け暮れて人生を謳歌し、楽しんでいた分は当然BMIにも影響していた。生活のためにがむしゃらに働く人たちからすればその脂肪こそが富の象徴そのものであり、羨望の対象となっていった。しかし、時代が変われば価値観も変化するもので、18世紀のヨーロッパでは「美白」がキーワードとなり、貧血状態を保つために女性たちは日常的に血を抜いていたそうだ。

平安時代の価値観を真っ向から否定した姫君

ここまで命懸けでなかったにせよ、昔の日本でも美の基準が固定化されており、女性の外見磨きに対するプレッシャーが相当大きかった。平安時代では、まゆを抜き、濃く白粉をつけた額に、丸くて小さいまゆを描くというのが上品とされ、歯を黒く塗るというのは定番だった。

しかし、平安女性の場合は、ただの好みやおしゃれの問題だけではなかった。政略結婚は出世する方法の1つで、デキる男を捕まえることは自分の心の安定だけではなく、家族全員の生活がかかっていた。完璧なメーク、おしゃれな着物選び、流れる黒髪を手に入れるのは死活問題だったのである。

こうした中、この価値観を真っ向から否定し、わが道を歩んだ女性がいた。それは、『堤中納言物語』の短編小説の主人公である、「虫めづる姫君」だ。

『堤中納言物語』は平安時代の多くの作品と同様に正確な成立時期も、作者も不明。光源氏や在原業平のような女たらしの貴公子を連想させられるような題名だが、物語の中に堤中納言と呼ばれる人物は一度も登場せず、なんでこのようなタイトルで知られることになったのかがいまだに謎だ。

「虫めづる姫君」のほかに、「逢坂越えぬ権中納言」や「花桜折る少将」など合計10篇の短編小説が収められている。どれも題名を見ただけでわくわくするような、面白くてウィットに富んだ作品だ。どの作品をとってもしっかりとした世界観が味わえるのだが、その中でも「虫めづる姫君」のユニークさが別格である。

蝶をかわいがる姫君の隣に住む按察使の大納言の娘。彼女は虫が大好きで、特に毛虫がたまらなく好き、と出だしからしてとんでもない。

「自然体、ありのままの自分のほうがいいじゃん」

この姫君ののたまふこと、「人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ。」とて、よろづの虫の、恐ろしげなるを取り集めて、「これが、ならむさまを見む」とて、さまざまなる籠箱どもに入れさせたまふ。〔……〕「人はすべて、つくろふところあるはわろし。」とて、眉さらに抜きたまはず、歯黒めさらに「うるさし、汚し。」とて、つけたまはず、いと白らかに笑みつつ、この虫どもを、朝夕に愛したまふ。
人々おぢわびて逃ぐれば、その御方は、いとあやしくなむののしりける。
かくおづる人をば、「けしからず、ばうぞくなり。」とて、いと眉黒にてなむ睨みたまひけるに、いとど心地惑ひける。
【イザ流圧倒的意訳】
姫君が「みんなが花とか蝶とかかわいいと思って騒ぐじゃない? それって本当にわからない。馬鹿みたいよ。人間は誠実が一番」と言い、いろいろな種類の、見るだけで気持ちが悪くなるような虫たちを集めて、「これがどのように成長するのかな……楽しみだわ」と言いながらさまざまなかごに入れていた。
〔……〕「自然体、ありのままの自分のほうがいいじゃん」と言って、まゆを抜かず、お歯黒ときたら「あー面倒くさい……汚くてやってられないわ」とまで言い出して、一向につけようとせず、真っ白な歯を光らせて、朝から晩まで虫と遊ぶ。周りの人はそのありさまを見て当然怖くて逃げだそうとするが、姫君が大きな声で「信じられない! あなたたちおかしい!」と怒鳴りつけて、ぼうぼうのまゆでにらみつけるので一層怖い。

日本文学初の不思議ちゃんが登場。形にとらわれず物事の本質を追究するというのは仏教の教えに基づいている考え方であり、姫君が唱えている論理は一見理にかなっているように聞こえるが、きれいなものだけ求めるのは浅はかだとしても、虫に固執するというのもそれ以上におかしいし、周りに対する反応も尋常ではない。よく言えば個性的、悪く言えば変人。

うわさになるのではないかと恐れて親も説得しようとするが、姫君は頑なに自分の理屈をぶつけて、一切動じない。こんなことになって最も迷惑するのは、不思議ちゃんの姫君に仕えている侍女たちだ。蝶をかわいがる優雅な姫君だったらよかったが、気持ち悪い虫と遊ぶ変な人を相手にするのはつらい。

いかでわれとかむかたふなくいてしがな鳥毛虫ながら見るわざはせじと言へば、小大輔といふ人、笑ひて、うらやまし花や蝶やと言ふめれど鳥毛虫くさきよをも見るかななど言ひて笑へば、「からしや、眉はしも、鳥毛虫だちためり」「さて、歯ぐきは、皮のむけたるにやあらむ」とて、左近といふ人、「冬くれば衣たのもし寒くとも鳥毛虫多く見ゆるあたりは衣など着ずともあらなむかし」など言ひあへる〔……〕
【イザ流圧倒的意訳】
私にはどうしても、普通の姫様はこうなのよとわからせる方法が見つからず、一向に蝶にならない虫のような姫君に仕えて毎日仕事しなきゃいけないのよ、と一人の侍女が嘆き、小大輔という人が笑いながら「うらやましいわ!世の中は蝶と花らしいけど、うちらは毛虫臭い人生よ」と言って、また誰かが「まいっちゃうわねぇ!姫君のまゆったらぼうぼうで毛虫みたい」「歯茎こそ、皮が剥けた毛虫みたいでキモイ」と笑い合って、左近という人が「冬が来ても着るもので困らないわね、これだけ毛虫がいれば。頼もしいわ。そんなに好きなら姫も何も着なくて毛虫だけを身に着ければよろしいのに」〔……〕

なんとげじげじ姫に興味を持つ殿方が!

姫君に対して敬語を使わず、言いたい放題の侍女たち。普段の会話ではなかなか出現しない「鳥毛虫」という単語が連発され、姫君のまゆはどんな状態だったのか想像をするだけでも笑がこみあげてくる。英国では、すっかりファッションリーダーとして定着したカーラ・デルヴィーニュの影響もあり、太まゆが相変わらず流行している昨今だか、姫君の自然なスタイルは相当ワイルドなものだったのだろう。

姫君が一心不乱で虫たちの世話をする場面も、悪口を言い合って笑い転げている侍女たちの場面も生き生きと描写されており、1000年以上の月日を感じさせない新鮮な語り口と、テンポの早さがこの短編の特徴でもある。こちらまで毛虫のようなぼうぼうまゆでにらみつけられている臨場感がある。

さて、意外な設定で始まっている物語とはいえ、平安時代なので、もちろん定番の話題をしっかりと押さえられている。どんな話でもスパイスとして欠かせないのは恋愛だ。

姫君のうわさを聞いて、興味を持った上達部(かんだちめ)の息子がいた。その男性もまた変わったユーモアのセンスの持ち主で、とんでもない贈り物を準備する。蛇に似ていると思いつき、立派な帯の端に動くような仕掛けを施し袋に入れて、歌を添えて姫に送った。

風変りな姫君にも求婚者がいるのかと不思議に思いながら侍女が重い包みを届ける。それを開けると、仕掛けが作動して、狙いどおり女性たちが蛇だと思って騒ぐ中、姫君は平然な顔をしようとするが、さすがに彼女も動転する。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とて、「生前の親ならむ。な騒ぎそ」と、うちわななかし、顔、ほかやうに、「なまめかしきうちしも、けちえんに思はむぞ、あやしき心なりや」と、うちつぶやきて、近く引き寄せたまふも、さすがに、恐ろしくおぼえたまひければ、立ちどころ居どころ、蝶のごとく、こゑせみ声に、のたまふ声の、いみじうをかしければ、人々逃げ去りきて、笑ひいれば、しかじかと聞こゆ。
【イザ流圧倒的意訳】
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱え、「前世は親だったかもしれないのに!! 騒がなくていい」と言っているが、声は震えている、顔はしっぽを向いている。「美しく見えるときにだけ仲良くするとはどうかと思う。あんたたち、心が腐っているわ」とつぶやき、蛇を引き寄せようとするが、さすがに恐ろしくて、座ったり立ったりして、まるで蝶のようにせわしなく、セミのような甲高い声でぶつぶつを言っている。その様子がとんでもなくおかしくて、侍女たちが笑いころげながら逃げ出し、誰かが父親に報告する。

姫君の「真の姿」を見てしまった!

完全なドタバタ劇。飛んできた父親は仕掛けを見破るが、怒るどころか、そんな器用な人がいるのか、と娘に似た的外れの反応を見せる。気を取り直して、せっかくプレゼントをもらったので、姫君は返しの歌を準備するが、なめらかなひらがなではなく、ごついカタカナで書いて送るという、またしても常識外れな行動に出る。

こうなったら一目でも見ておかなきゃと思い、男性は友人と2人でのぞきに行く。風変りな女だと知っていたが、目の前の光景ははるかに想像を絶するものだった。働く女性と同じように髪の毛を耳にかけて、年寄が着るような飾りのない白い着物を身にまとった、ぼうぼうまゆ毛の女性。身分の低い男の子たちと一緒に一心不乱で虫と遊んでいる姫君はそれでも愛嬌があって、ちゃんとしていればそれなりの美人になれるんだがな、と残念がる男性。

彼女を見たことを知らせるために、帰り際に歌を送る。

烏毛虫にまぎるるまゆの毛の末にあたるばかりの人はなきかな
と言ひて、笑ひて帰りぬめり。二の巻にあるべし。
【イザ流圧倒的意訳】
毛虫に負けないぐらいぼうぼうのあなたの眉の端にだってかなう人は、「この世に一人もいないよ」と言い残して、笑いながら帰っていった。続く。

「二の巻へ」と終わるが、話はこれでおしまい。その続きが実際存在していたのかどうかわからないが、たぶん最初からなかったと思われる。読者に期待させておいて、話をパタッと終わらせるなんて、作者未詳、なかなかやるじゃないか。

ぼうぼうのまゆ毛をからかわれて、甘ずっぱい恋愛の喜びと苦しみを知ることなく、姫君の物語に幕が下りる。が、不思議なことに悲しさも、みじめさもなく、なんだか気分爽快にすらなる。つねに感情移入できるのが唯一の取り柄である私だが、姫君に同情することなく、笑いをこらえながら物語を読み進んだ。それは、彼女がそういうことを一切気にしていない不思議ちゃんだからだろう。

姫君は自分と同じ思考を持つ人と一度も出会わず、親でさえその常識から外れた生き方に理解を示さなかった。そでれも、わが道を突き進む彼女は孤独ながらも、寂しくはない。

常識と非常識が隣り合う「逆さま」の構造

「そんな噂が広まったら困るでしょ」とまともなことを親から言われたときに、姫君は「くるしからず(どーでもいい!)」、ときっぱり当時の常識を覆す。カッコイイ!! 純粋な心で好きなことに向き合って、周りのノイズを一切気にしない芯の強さ。その魅力は作品の中で輝きを放っている。

実は、この物語は「蝶めづる姫君」への言及から始まる。このもう一人の姫君は、世間一般の常識的な姫君の典型であり、王朝的な美徳を象徴する存在。物語の中で2回しか出てこないが、その存在感は意外と薄くない。

一方で「虫めづる姫君」という題名にもかかわらず、本文中には一度もこの言葉は出てこない。蝶めづる姫君の存在を前提にして、読者は「虫めづる姫君」と呼ばれるべき女性の存在を知ることになる。つまり、蝶をめづる姫君なくして虫めづる姫君は作品世界の中に成立しないわけである。

常識の隣に非常識が住み、まっとうな姫君の隣に常識を逸脱している姫君が住んでいることで、「逆さまの構造」が出来上がる。そして、「虫めづる姫君」は常識から外れているかもしれないが、彼女には知恵や情があり、自立や楽しさもある。そういう人生の歩み方もあるんじゃないか、と永遠に名前が失われた作者が私たちに教えたかったのかもしれない。

仏教に関連した内容が含まれていることや、文章のスタイルなどからは作者は男性だという説が有力とされている。でも紫式部や清少納言のように、漢文もお手の物、深い知識を持っている貴族の女性も平安時代にはいた。

自室に戻り、お歯黒を落として、一瞬ホッとした女性がこの物語を思いついたということはないのだろうか。毎日何枚も着物を着こなし、髪の毛を完璧にセットして、化粧もばっちりし、親や夫の言いなりになって送る人生。創造の世界の中だけでも、完全に自由になれるならば何ができるのだろうか……と白い歯を光らせてある女性が筆を走らせたのかもしれない。