考えてみると、この10数年ほど、私は毎週毎週かなりな数の原稿締め切りというものに追われています。

 JBpressの連載もコンスタントにやって来る・・・。それが嫌かと問われれば、いえいえ、とんでもない。原稿などというものは、締め切りがなければ決して書けるものではありません。

 実は作曲もそうなんです。いつまでに仕上げねばならない、というのがあるからできる。このところ私はフランス語の本の翻訳が遅れ遅れになっていいます。

 1につはもともとあまりフランス語が得意でなく、初等文法から見直したりして時間を取られること、もう1つは、締め切りを寛容に待っていただいてしまい、そのためにかえって何か月も遅れてしまったりする。不思議なものです。

 締め切りがあり、それまでに何とかするという感覚。あえて言うなら「締め切り感覚」とでも言いましょうか。

 相当な批判を受けるのを覚悟のうえで、私はこうした感覚と、ユダヤ・キリスト教、さらにはイスラム教徒の信仰、とりわけその核心にある「契約」の感覚が通じているのではないかと思うのです。

 もっと正確に言うなら、これは私自身の信念で、そのマニフェストに過ぎませんから、誰が何を言おうと勝手にしてくれ、という話でもあるのですが(苦笑)。

 でも、外人の宣教師に「アーナタハー カーミヲー シンジマースカ〜?」と問われて「信じるわけねーだろ」と答えるような人にも、ユダヤ・キリスト教系の「ある感覚」を共有してもらえるのではないかと思うのです。

 前回はこれを逆から考えました。つまり、締め切りがない。誰からも、何の希望の期待もなく、自分自身も力を振るう方途を失ったとき、人は急速に希望を失い、前欝に近い状態に落ち込むことがある。

 予後を誤ると、そこから欝を発症して、さらに取り返しのつかないことになったりもし得る。同じ問題をマイナスの方向から考えてみましょう。

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神様は締め切りを設定する編集者

 人は絶望すると、そしてそこに合理的な方法を一切見失うと、無力感のどん底で欝に陥りやすくなる。その症状の延長に「自死」という行動が突発的に発生する・・・。

 この生理自体は人間すべてに共通するもので、特定の宗教とか信仰の有無といったことは、元来無関係と考えるべきだと思います。では、ユダヤ教徒やキリスト教徒、イスラム教徒はなぜ「自殺者が少ない」のか?

 それは、締め切りの催促があるからだと思うんですね。

 だいたい、一番遠くても1週間に1回は編集者から問い合わせが来る。そういうふうに、うまいこと作られて、この2000年とも4000年ともいう長い人類史の時間をもちこたえ、さらに鍛えられもしてきた。

 前回、自殺について考えたとき「仮に宗教法が禁じていても、いったん『欝』に陥れば、一定以上の確率で、自殺を決行してしまう」と記しました。

 中高齢での欝発症の一因に、定年後にやることがなくなり、自分は世の中からもう必要とされていないのだ、と悲観して前欝になるというケースがあります。少なくともそれに近いケースを私は身近に複数思い当たるものがあります。

 仕事がなくなる、経済状態も悪化する、生活が目に見えてしんどくなる、先行きの見通しが立たなくなる・・・まあ、何と言うか、非常に分かりやすい、まずい方向一直線ですね。

 社内のイジメで自殺した人もありました。仕事が振られなくなる。いままで庇ってくれた上司が定年退職して、ヒラのまま50も過ぎた身に露骨な嫌がらせの直撃、さらに個人的にも私生活が破局を迎え・・・。

 まずいなと思っていたら、首を吊ってしまいました。このケースは実は私を担当してくれたことのある出版社の人で、JBpress編集部でも誰を指しているかお分かりのはずです。要するに、絵空事ではない、リアルな現実としてイメージしていただきたいのです。

 ここでユダヤ人は何を考えるか?

 私自身は精神的に日系ユダヤ人まがいかユダヤ系日本人まがいでしかないので「これがユダヤ人!」などと断言はしにくいですが、日本に約1%存在する珍獣の一種であるクリスチャンという人々の多くは、これに賛同してくださるように思います。

 すなわち、多くのユダヤ・キリスト・イスラム教徒は、生活のうえで苦難に遭遇したとき「さて、ここで神様は私に、どのような試練を試しておられるのだろう?」と考えます。

 民族や宗教と無関係に、人は様々な苦難に直面します。ただ、日本で見るある種の陰湿なイジメは、あまりユダヤ・キリスト・イスラム社会では見当たらないような気もします。それについては後で記しましょう。

 何か苦難があったとき、ユダヤ人は(と短く書きますが。クリスチャンでもムスリムでもいい)はすべてを自分に引き受けて悲観したりしません。

 いや、悲しいときは、悲しいんですよ。私だってそうです。

 でも、「これはいったい何なのか?」と、ソロモンの夢判断と同様に、目の前の状況を「読もう」とする。フロイトは夢を読もうとし、アインシュタインは光速度一定の条件下で何が起きるかを読む。

 ユダヤ人が「優秀」というのは、強い感情の動きにさらされたとき、その状況を理性で「読みきろう!」と、大脳新皮質をフル回転させて考えるということなんです。

 キリスト教徒にも同様の習慣を身につけた人がいる。イスラム教徒にもいる。

 ちなみに音楽家は、「これは!」という感動の瞬間に、めまぐるしく頭を回転させて、それをどのように構成していけばよいかに全身 全霊の能力を発揮させます。

 バーンスタインでもアインシュタインでも。メンデルスゾーンでもアドルノでも、ユダヤ人で音楽にかかわる人が顕著な仕事をしている背景には、才能というよりそうした生活習慣がはっきり存在するのは知っておいていい。

 彼らに才能があるのではなくて、才能というのは人間の多くが持っていて、でも終生気づかず使わずじまいで終わってしまう。これを日常からフルに使い倒している人が、結果的に「才能ある人」と呼ばれるだけのことに過ぎない。

 別段目が4つあったり耳が6つあったりする、別の動物ではないのですから。そういう生理的な反応を、多くのユダヤ人は幼時から身につけていると思います。

 つまり、世界の造物主たる神様によって自分も、社会も、この世の中も作られているわけだから、その計画に従って物事が動いているはずである、と彼らは考えるはずです。

 だから、自分を襲った不幸だって、必ず何か理由があるはず。それを探し出すのが自分の務めだと考えます。

 神様という編集者は、本か雑誌のプランを持っていて、私はその筆者として「契約」しており、その原稿の注文として、様々な苦難がやって来る・・・。そういうふうに考えるわけです。

 仕事の上でどうにもならない状況になったというとき、職業を天命(英語で仕事を召命=Callingと呼ぶように)と考える人にとっては、これは神様から与えられた、自分を試すテストだと捉える。

 そこでどういう答えを出すかなと編集長である神様、造物主は待っているわけですね。

 そして、それを解くこと、期間内に自分の原稿を形にして送り返し、現実に行動して結果を出すと、編集長は、「おお、伊東先生、今回も面白かったです」と返してくれる。

 いや、そうではなかったです。「われらが作り主たる神様」でも「天にまします我らが父」でもいいんですが、喜んでもらえるわけです。

 そのことによって自分が神によって選ばれた存在であることを、自らいよいよ明らかにしてくださったというのは、自分が編集者に選ばれて原稿依頼されている筆者であることを、いよいよ明らかにしてくださった、ということになるわけです。

 それが元気の糧になる。こうした考え方を「職業召命観」と呼びます。つまり、仕事を天命だと思うということですね。具体的に何の仕事かではなく、何であれ目の前のことに創意工夫を凝らして、天の存在に

 「どないでっか? おもしろおまっかいな?」

 とおうかがいを立てる。神のご返事は至る所に聖霊を通じてもたらされるから、喜ばれていたかどうかはすぐに分かる。

 それを通じて、「ああわて、日々、天命に生きとるんやなぁ・・・」と手ごたえやら味わいやらを噛み締める。そういうライフスタイルになるわけです。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

 昨今の統計では自殺率が高くなっているプロテスタント諸国ですが、元来は宗教改革以降、プロテスタントつまり新教の社会勢力が「職業召命観」を社会体制としても強化しました。

 大本は原始キリスト教〜ユダヤ教から一貫し、イスラム教にも濃厚に受け継がれている考え方です。

 よく知られたマックス・ヴェーバー(1904-05) の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を思い出された方もあるでしょう。

 ユダヤ人は、あるいはキリスト教徒は、苦難があったとき、それを自分に課せられた「試練」として受けとめ、どのようにしてこれを合理的に解決するかという覇気、むしろ精神的なエネルギー源に変える精神生活上の習慣を持っています。

 これは「信仰」がどうとか「契約」がどう、といった難しい言葉以前に、子供のとき、有無を言わず理非と無関係に刷り込まれている。

 正直に告白しますが、私自身、そのようにしてクリスチャンの父とミッションスクールで育ち教えていた母によって刷り込まれました。

 最悪(?)だったのは、現実に親父が6歳のとき死んでしまったので「天にましますわが父」は本当に父親なんですね。

 皆さんも、親の墓前で何か報告したり、自問自答して答を探したりしませんか。春のお彼岸に故郷のお墓参りをした方もおられると思います。

 そういうとき、ただの石の塊でしかない墓に向かって(その地下に骨があったりなかったりするわけですが)あれこれ話かけたり、親に恥じることのないように誓うとか、おばあちゃん空から見ていてね、と言ったりすることがあっても、不思議でないはずです。

 人間が考える宗教で、人の生理と直結していますから、ユダヤ啓典宗教だって、そんなには違っていない。

 私はここで、死んだ現実の父親と、キリスト教で教える「父」が重なってしまい、ミッション系の学校で育ち自身もそこで教えていた教師の母親に、両者をごっちゃにして育てられたので、このような内容が正味で素になってしまったんですね。

 自身が日々の問題に直面するとき、私は「さて、私はここで何をせねばならぬのか・・・」と考えます。そうでないと、夜も明けない。トイレにも行けない。

 本当の話です、何が「正当にしてなすべきこと」かを考える習慣を物心ついた時点ではすでに植えつけられていました。

 そこでは、私が日本人であるから、基本的人権を持っているというのと同じくらい反射的に「自分には、せねばならぬことがある」という義務の感覚が鮮明、当たり前のことになっているのです。「締め切り」の約束があるということですね。

 今日は私は何をせねばならぬのか。ピアノ協奏曲の五線紙を作って、フランス語の訳はあそこまで終わらせて、JBpressの原稿も1本入れておいた方が安全とか、1日の仕事を考え、よし、となると動く。

 そこで、始めるとまあ、マシンのごとく仕事する。私は活発なときの生産量は多い方だと自覚しています。そうでないときは、仕入れの時間で、それもまたなすべきこと、すべてを天命と思って、全身全霊で取り組む。

 逆に言うとそれしかできない、ちょっと不便な体になっている(苦笑)。単なる器用貧乏と言っていいかもしれません。

生きる目標と就職活動
自殺と死について

 ここで私の日常から、突然具体的な例を挙げようと思います。大学時代の同級生がやや特殊な境遇にあります。

 オウム真理教という霊感商法詐欺の犯罪集団に洗脳され、地下鉄にサリンガスを撒布する実行犯となり、最高刑が確定しています。

 私は法務省の認可する交通許可者として、彼と現在も月1回程度、接見室で面会します。とりとめもない話や、物理の問題を考えるとか、まれに裁判関係の実務もありますが、大半は普通の話をしている。

 なぜこうなっているかと言うと、長い来歴があるわけだけれど、結局それは「私がなすべきこと」と思ったから、なんですね。天命と思ってやっている。

 彼は豊田君といいますが、物理学科の同級生で彼がオウム事犯となったとき、私のように自由に彼と交流できる立場(当時は国立大学助教授という身分、いまは指定国立大学法人教員ですが)にいる人は限られていた。

 一般に、企業に籍のある人は「私の親友はオウム事犯でサリンをまいた。でもマインドコントロールが解けていまは正気に返っている。今も昔も彼は私の最高の親友だ」というようなことは、会社への遠慮がありますから、おいそれとは書けません。

 実はまあ、国立大学法人だって似たところはあるわけで、親代々の研究室の後継者として助教授などしていた日には、遠慮があります。のれんに傷はつけられないと思う人もあるでしょう。

 その点、私は身軽です。私自身が創設教授だし、後に何か残していくという未練がましい錯覚もありません。

 俳人・金子兜太さんの雑誌「海程」廃刊私一代でいいと同様、全部自分で始末つけてゆく覚悟が最初 からできているので、自分で判断して「天命」と思うことは、熟慮のうえで判断、実行に移すことができます。

 そこでやはり同様の立場にあった先輩の方と私と、いまでも交通許可者としてやり取りをしています。

 死刑が確定すると世間的には「もういない人」という扱いになるので、よほどのことがない限り面会はできなくなります。最高裁で確定するまでは私自身、他のオウム事犯の人とも行き来がありましたが、いまは豊田君1人です。

 昨日、週刊新潮から連絡があり、3月に入ってオウム事犯の移送が始まった、平成が終わるまでに順次全員執行という話もあるが、話を聞かせてくれないかという問い合わせがありました。

 文書で過不足なく回答しましたが、何を記事に取り上げるかは知りません。ただ、「再発防止」ということを私たちは大事に考えている。それを誌面に反映させてほしいとは伝えました。

 こういうことを、私は天命、自分がなすべきことと思ってやっている。いま大学で教えているのも、音楽を作るのも、新しい教科を開講するのも、すべて「これは天命」と思ったら火がつきます。

 そして、火がついている間はマシンになって一心不乱にやっていますから、学生諸君は毎週けっこうな量のプリントに悩まされたりするかもしれないけれども、「仕事」は動きます。

 職業召命観的な観点からすると、「仕事」というのはそういうものだと思います。

 翻って、学生諸君とか、若い人から将来のこととか、進路相談など受けることがありますが「自分が何を選ぶか?」という観点で考え、迷ったり困ったりしていることが多い。

 そして何かした結果、希望を失って引きこもってしまったりするケースもないわけではない。でも違う考え方があると思うわけです。

 自分は「常にすでに選ばれている」という、下手すると鼻持ちならないエリート主義と誤解されかねない(そういうのもあるのですが)「予定説」という感じ方、考え方があります。

 これは、自分は日本人で基本的人権がある、というのと同じだと考えてください。具体的に会社がどうなるとか、そんなのは、偶然というか「誤差の範囲」に過ぎない。そうではなくて、

 自分は一体何をするのか
 何をするために生まれてきたのか

 という人間の芯みたいな部分に「これ」という柱があること、それを「世界の編集長」である神様との間で、あらかじめ、自分を信用してもらって、ある種任された範囲もあって、それを着々と実現していくのだ、というような確信になる。

 啓典一神教3宗教に共通する「契約」感覚は、そういうものだと私は思いますし、それが敷衍されて、西欧近代由来の世の中の契約全般、あるいは「社会契約説」に基づく民主主義とか法治の原則とか、非常に多くの概念が、しっかりと1つに束ねられている。

 こういう核心を、本当は教えるといいと思うんですね。今学期は新しいコースを持つので、大学1〜2年生向けに、最後の週あたりに、こういう話をしてみようかと思っています。

 少なくとも「就活」にあたって、自分の中に芯があれば、結構な確率で結果が違ってくる。表面的な結果はともかく、精神的な内実、あるいは採用に落ちたときの気の持ち方などは天と地くらいに違ってくるように思うわけです。

 一神教の「契約」感覚は、コンプライアンスなど今日の別の問題にも直結するので、また別の角度でも取り上げてみたいと思います。

筆者:伊東 乾