新年度になりました。私もかれこれ20年間、大学の教壇に立っていることになり、早いものだと改めて思います。初期の学生諸君はすでに不惑を超えました。

 私が、大学の比較的大きな壇上から新入生諸君に入学式の言葉などを贈ることは、まずないと思いますので(苦笑)、今回は「仮想新入生」向けの「バーチャル祝辞」をお届けしたいと思います。

 あくまでバーチャルですから、スパイスの効いた形で・・・。

 仮想新入生向けの「祝辞」ではあるものの、そのご父兄にあたる、よりシニアの年齢の皆さんにも、いろいろご意見(異見かもしれません)があるような、やや辛口の「祝辞」にしてみたいと思います。

 もし仮に、現実に私が壇上で話すような折があれば、普段の連載で書いているように、聖書とかプラトンとかマックス・ヴェーバーとか、もう少し有難そうなお話を準備せざるを得ないでしょう。

 ですが、そんなお話はほとんど役には立たない。ここでは、50歳前後の教員が、新入生向けの特別講演の後、フレッシュマンたちを喫茶店に誘い、お茶をしながら教えてくれる「本当のこと」と思っていただくといいと思います。

 実は私自身、今を去ること30数年前、そういうお話を同じようなタイミングでうかがうことができ、それが大変に役立ったのです。

 ご指導くださったのは宇宙物理学者の杉本大一郎先生で、東京大学の新1年生向けに講演された後、壇まで質問にうかがった学生たちを「よかったらお茶でも飲みましょう」と井の頭線の小さな踏み切りを渡った所にあった喫茶店に誘ってくださったのです。

 知のプロフェッショナルとなるうえでの大学での学び方のコツを、よくわきまえることができました。

 同様のことは、どんな学年、あるいは新卒社会人、異動直後の大人にも、ほとんどそのまま役にたつように思います。とはいえ、以下の論旨はもっぱら私に文責があります。

 では早速、始めましょう。

[JBpressの今日の記事(トップページ)へ]

日本は思考停止社会

 まずいきなりですが、「日本人の学力の頂点は18歳近辺である」ことを、よくよく覚えておくのが、今後の人生で荒波を乗り越えて行くうえで非常に有効になるでしょう。

 他人事ではありません。別段エイプリル・フールで嘘をついているわけでもない。

 「放っておけば皆さんも今日あたりがピークで、あとは下り坂一辺倒になりかねませんよ」という警鐘でもあります(苦笑)。それを「軽症」のうちに進行を止めておこうというお話です。

ポイント1 日本人の学力の頂点は大学合格直後と思って、まず外れない。

 ごくごく限られた例外、例えば理系で大学院に行くとか、医師や弁護士など国家試験を受けるなどのケース以外では、今現在、つまり大学入試をクリアした直後の皆さんが、人生で一番勉強している可能性が高い。その後は凋落の一途をたどっていく。

 私がこの現実をとりわけ痛感したのは2005年、「国連世界物理年2005」というものの日本委員会で幹事を担当したとき、「サイエンス・リテラシー」の現状調査を通じてでした。

 学力テストをしてみると、国民全体では18歳近辺にピークがあり、その後の人生では凋落の一途をたどります。ここでは統計ではなく、実感を通じて考えてみることにしましょう。

 数学を例に考えます。高校3年生は小中学校の大半の問題にそれなりの形で解答することができます。

 しかし世の中のお父さん、お母さん全般に、「2次方程式や三角関数の問題を解いて」と出題したら、どれくらい解答できるでしょうか。そういう関係の職業に就いていない限り、まずお手上げという大人が大半になる。

 それは「40〜50になっていきなり訪れる現象か?」と問われると、そうではないんですね。

 大学1〜2年生の教養課程で、学力の追跡調査をしてみると、例えば英語などは軒並み、受験終了直後、つまり今の時期が一番成績が良く、その後なだらかに、場合によっては急速に成績は下降の一途をたどるケースが少なくない。

 つまり、受験勉強のようにまじめに、真剣に、「何があっても頑張らなくては!」と語学を勉強する生活習慣そのものがなくなってしまう。

 こういう現象を一般に「動機=インセンティブの喪失」と呼びます。

 日本の大学教育では少数の例外を除いて大半の科目に学生がインセンティブを持っていないようにみえる。非常に重大な問題です。

日本の大学生は語学にリアルな動機がない

 分かりやすい例が「第2外国語」です。サークルなどで、誰でもいい、2年生の先輩を10人捕まえて、各々の第2外国語で自在に「読む書く話す」ができる人が、何人いるか数えてみるといいでしょう。

 少なくとも、東京大学教養学部で実施するなら、10人なら10分のゼロ、100人くらい集まると2〜3人程度、ゼロから始めて1年間で、その言葉の基礎を体得した、稀な例外の学生を見つけることができるでしょう。

ポイント2 大半の日本の大学生は学習のインセンティブを持っていない。

 せっかく授業料を払っているのに、もったいないと思いますが、「顧客」の学生にやる気がないので、その程度の「教育サービス産業」で手を打たざるを得ない、という大学側の営業の現実も、きわめて残念なことですが、存在しています。

 この「動機不在」と鶏と卵のような関係にあるのが「将来の職業への希望」です。これは新入生だけのクラスでも、挙手を求めれば数えることができますね。

 「皆さんの中で、将来これになりたいという職業が決まっているという人は、それが何であるか具体的に言わなくてもいいので挙手してください」

 こう問うと、手が挙がるのはよくて2〜3割、100人単位の教室でも、パラパラとしか挙がらない現実があります。中には

 「実際どこの会社が取ってくれるかも分からないのに、そんなの決められない」

 という正直な意見を聞かせてくれた学生もいました。東京大学の場合、文科砧爐亘ヽ愽堯⇒科稽爐楼絣愽医学科と、行き先が決まっていますが、そこでも決して手の挙がる率は高くない。

 企業に行くか公務員になるか、はたまた司法試験を目指すのか・・・。

 決めないというか、決めたくない。決められないというより、可能性を残しておくこと自体が、気持ちのうえで大事であるようです。皆さんは、いかがですか?

「可能性」を残しておきたがる若者の本音

 もっと著しいのは、理科稽爐如医者にはなるのだと思うけれど、まだ実感はないし、せっかく受験が終わったのだから、しばらく何も考えずに遊びたいという本音を、かつて教養学部で必修を持っていた時期に最も高い確率で耳にしました。

 医師になるとしても、診療科目などは決められない、たぶん臨床医になると思うけど、基礎が面白そうだったら、やってみてもいいかな・・・など、善くも悪しくも「可能性を残しておく」というモラトリアム志向の空気が非常に濃厚なのです。

 上に記した東大の例はむしろ例外的で、入学時点で「□学部△学科」と専門選考が決まっている場合が多い。

 しかし、きわめて一部の例外を除いて、その学部の専門で自分は将来プロになるんだ、という意識、決意を持っている人は非常に少ない。

 例えば、文学部仏文学科を卒業したはずなのに、フランス語初級文法も怪しく、会話や読み書きなど全く覚束ないという人は、決して珍しくありません。

 法学部を出ても法律のプロではない。プロになるならロースクール・司法試験です。経済学部を出ても経済のプロではない。プロになるならビジネススクールやMBAを取ることでしょう。

ポイント3 日本の若年層にはモラトリアムの志向が強い。

ポイント4 日本の若年層にはプロフェッショナルを目指す意識が弱い。

 どうしてそうかというと、上の世代がそうだから、というのが最初の解答案になると思います。

 先ほど、お父さん、お母さんは2次方程式や高校英語が必ずしも得意でない場合が多いと記しましたが、特段の専門など持たずとも、多くの大人が普通に社会生活していて、自分たち子供も育ててくれている。

 まずはその程度を目指せばいいし、そのあたりまでは生活のリアリティがある。こんなあたりが、本当の本音なのではないでしょうか?

 親がお医者さんで、ゆくゆくは医者を継がなければならないとなれば、その範囲では一生懸命勉強もするでしょう。

 お父さんがSEという学生は入学時点でプログラミングなどにスキルを持っていたりする。やはり、現実感のあることはそれなりに一生懸命やるし、やれば身にも着く。

 翻って、家族も先輩も知り合いも特に話さない外国語は、特段できるようになりたいとも生理的な渇望があるわけでもなし、単位を取らないと進級できないというので、うざったいけど仕方なく、落第しない程度にはおつき合いしておく・・・。

 就職だって、どんな仕事につけるかまだよく分からないので、本当に必要になったらそのときやればいいや、まずはほどほどに、留年しない程度にやっておけばいいかな・・・。

 こんなあたりが「受験勉強を終えて、これから自由に大学生活をエンジョイしようという、学生諸君の結構多くに共有されている像なのではないか。

 あくまでこれは、すでに皆さんの3倍近く生きてしまい、皆さんが生まれる前から大学で教えてもきた1人のおっさんの、経験に基づく予想です。

 「そんなことはない!」と、これを裏切ってくれる人が多いことを、本当は心から切望しているのです。

すべて逆手に取ってみる

 いままで挙げた4つのポイントを、少し違う表現で記してみましょう。

1 18歳以降、周りの学力が低下の一方と思って外れない
2 大半の若者は「強く学びたいこと」を持っていない

3 可能性だけはたくさん残るモラトリアムが好き
4 プロとしてこれで勝負しようという覚悟がない

 こういう同世代集団が、4年後の就職活動で限られた社員の席を求めて、椅子取りゲームで就活にいそしむという構図が見えてこないでしょうか?

 その結果、40社、50社と受けたけれど連戦連敗で・・・という話も耳にするわけです。

 これって、どうなのでしょう?

 マッチポンプというか、わざわざ原因を自分で作って、レミングの群れが袋小路に迷い込むようなことになってはいないでしょうか?

 つまり、就活でわけの分からないことにならないようにするには、上の4つを、一つひとつ「正反対」にしていけば、何かの力になるかもしれません。逆手に取って構えれば、多くの道具は武器にもなります。

1b 18歳以降のこの先、1つでいいから本当に力を伸ばすものを作ってごらん
2b どの領域でもいいから専門領域に昼も夜も熱中する経験を持ってごらん

3b 能力のビームを絞って身につける「必殺技」を1つでいいから獲得してごらん
4b これを任せられたら自分はプロという領域の最初の1つを身につけてごらん

 保証してあげますが、上記4つのすべてをクリアした人材なら、エントリーシートの束をもって右往左往するようなことはまずなく、早期内定ののち「ほかには行かない」との念書を取られる見込みが高いと思います。

 上の4つの中で、特に注意してほしいのは4番目です。つまりこれを任せたら自分はプロという領域の最初の1つという部分が大事です。

 別段、そこに骨をうずめて一生その蛸壺で暮らせと言っているわけではない。そのブランチで、世の中に通用する最低限一通りのことができるようになるのが、大事だと思うのです。

 皆さんは、プロになるのは何年も長い修行が必要なんて思っているかもしれません。もちろん、一生をかけて磨いていくような部分もある。

 しかし、限られた領域、それも新しい分野であれば、若い人が集中して実につけた3か月〜半年分ほどの経験を、中年以上の管理職が凌駕するのは、実は困難だという現実を皆さんはおいおい知ることになるでしょう。

 どんな領域でも、ビジネスでも、生産現場でも、はたまた大学研究機関でも物事はめまぐるしく動いており、新しい莫大な情報・知識が日々もたらされている。

 中年以上の管理職が、そのすべてを深く理解するなどということは、不可能だということを理解しておくといいでしょう。

 では、新しくやって来た知識をキチンとモノにするにはどうしたらいいか。その答えは、伝統的な大学のカリキュラム構成を見れば、自ずと見えてきます。

 大学1〜2年生で教える「教養課程」は、その後、どの専門領域に進むにしても、共通の基礎、つまり共通の入り口になっている。

 ここをきちんとしておけば、実はそこから学び直してマスターできない専門はまずありません。

 逆に言うと「専門が難しい」というのは、その専門に進むための基礎、階段で言えば最初の2〜3段が欠けているために、進めなくなってしまうというのが現実です。

 多くの学生は「自分の可能性を閉じたくない」と言うけれど、現実には教養課程という「あらゆる専門に道が開かれた万能の基礎」を重視せず、社会勉強と称してアルバイトに精を出したり、高校卒業時より下がった実力のまま、無闇矢鱈と就活で右往左往したりする・・・。

 1人の大学人として、私は、これがまともな大学の利用法、活用法だとは到底思えないのです。

 新入生諸君には「教養課程」で教わる様々な内容から、できるだけ異なった複数の分野に「好きなもの」を見つけて、おのおの3か月間集中することを勧めます。

 皆は知らないかもしれないけれど大学の1年というのは、実は半年、もっと言うと、3か月間1学期があり、3か月休みがあり・・・というサイクルが繰り返される。

 最初の2年間、4つの学期に、一つずつ「コレ」というものを「マイブーム」にして「ハマってごらん」とお勧めしておきましょう。

 この際、同じような中身ではなく、できるだけ違う分野、例えば歴史と統計とコンピュータープログラミングと体育実技、といったような「専門の入り口までかじった」程度の経験をしておくと、その後の人生は大きく変わるように思います。

 教養課程で教わる内容を十分修めた人は、駆け出しの「教養人」と言っていいと思います。「教養人」になっておくと、後々「専門人」になったとき「タコツボ」にハマるリスクが激減します。

 困ったとき、一度袋小路から駒を後戻りさせて、共通のスタートラインである「教養の明るみ」のもとから、改めて次の活路を見出すことができるからです。

 現実には「専門人」にならない若い人が増えているのが、日本社会の大きな問題なのですが、ここではまず「感度のいい教養人」を目指して、最初の2年を「大学人としてエンジョイ」してほしいと思います。

 有機化学の白川英樹先生は「大学の構成要素は3つ、教員、事務員と学生で、学生がいなかったらそれは研究所、大学ではない」とおっしゃいました。

 皆さんご自身が「大学人」として、まず、柔軟でしなやかな「教養」を身につけるべくエンジョイすることです。楽しかったことは忘れません。

 嘘だと思ったら、嫌々詰め込んだ受験勉強がどれくらい残っているか、自分で確認してみるといい。半年後にはすべて忘れていますよ。

 そこから、本当の意味で、複数の専門に可能性が開かれた、次世代の知性を自ら育ててほしいと思います。

 もちろん、私の言うことなど気にせず、4月1日ですから、エイプリル・フールの冗談と思ってもらってもかまいません。各人各様の未来が開ければ、それが何よりです。

 皆さんの新しい生活に、エールを送ります。お粗末さまでした(笑)。

筆者:伊東 乾