本記事は、電通総研 カウンセル兼フェロー/電通デジタル 客員エグゼクティブコンサルタント/アタラ合同会社 フェロー/zonari合同会社 代表執行役社長、有園雄一氏による寄稿コラムとなります。

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私はこの1月からカウンセル兼フェローとして、電通総研の仕事を手伝っている。電通総研は、研究テーマのひとつに「メディアの信頼性と社会的役割」を掲げている。

メディアの信頼性を論じる際に主に課題になるのが、情報の正確性と公平性(偏向性)だ。情報の正確性については、以前のDIGIDAY記事「幽体離脱して考える、事実とフェイクの錯綜するキュビズム:フェイクニュースとは何か?」で少しだけ触れた。今日は、情報の公平性(偏向性)について書いてみたい。

朝日新聞は「反権力ごっこ」なのか?



私は中学時代に新聞配達をしていた。配っていたのは、地元紙の南日本新聞。そして、一部の家庭向けに、朝日新聞だった。たしか80戸ほどの家庭に配っていて、その9割は南日本新聞、1割ほどの家庭に朝日新聞を配っていた。

配達が終わると、余っている押し紙の新聞を持ち帰り、南日本新聞と朝日新聞を読み較べるのが当時の日課になっていた。それぞれの記事を1年間ほどスクラップしていた。

読み比べてすぐに、中学生の私でも分かることがあった。それは、朝日新聞の方が難しいのだ。「やっぱり、一流の全国紙、クオリティペーパー、朝日新聞はすごい」と素直に思った。ちなみに、読売新聞なども読み比べてみたが、やはり朝日新聞の方が難しいと思った。近所の大人たちのほとんどが南日本新聞を読んでいるのに、中学生の自分が朝日新聞を読んでいる。少しだけ誇らしく思った。

当時の朝日新聞は、本多勝一氏や筑紫哲也氏などスター記者を輩出、日本の言論界をリードしていた。私は、大学も筑紫哲也氏と同じ大学同じ学部学科を選んだ。朝日新聞的リベラルこそ正義だと思う自分がいた。

ただ、正直に言うと、朝日新聞的リベラルや、なんでも反権力というスタンスに疑問を持つようになった。大学生のとき、毎日新聞で2年ほどアルバイトをしたのがきっかけで、朝日・毎日・読売・日経・ファイナンシャルタイムズの5紙を同時に購読し読み較べていた。その結果、良いものは良い、悪いものは悪いと是々非々で論じるべきだ、そういうジャーナリズムが健全だ、と思うようになった。

そして、いまはもう、朝日新聞を購読してはいない。たとえば、『朝日新聞がなくなる日 - “反権力ごっこ”とフェイクニュース』という本がある。この本のタイトルをみて、共感する自分もいるし、複雑な心境になる。

メディアとは、ジャーナリズムとは、常になんでも反権力で、一方的な視点でモノゴトを報じればいいのか。反権力というひとつの視点、ひとつの立ち位置に、公平性はあるのだろうか。反権力に偏りすぎて、読者は辟易しているのではないか。そんな思いがある。

客観的事実はない



1987年「朝まで生テレビ!」がはじまった。当時、自分は高校生で、左派と右派の論客が激しくバトルする番組に驚き、熱中した。テレビに向かって「何言ってんだ!」とヤジを飛ばしたり、大島渚監督の「バカヤロー!」発言に拍手を送っていた。私と同世代には、そんな人、多いんじゃないだろうか?

「朝まで生テレビ!」といえば、田原総一朗氏。彼は、「いわゆる客観的事実というのは、厳密にいうとないのだ」(『ぼくだけの取材ノート』p235〜236)と書いている。

一般に、テレビは新聞や雑誌よりも客観的な報道、客観的な事実を伝える媒体だとされている。(中略)だが、これは大きな誤りである。たとえば、1970年の前後、全国の大学で、いわゆる学園紛争の嵐が吹き荒れた。学生たちと機動隊とが随所で衝突し、ガス弾と石つぶて、火炎壜を主兵器にした市街戦がいたるところで展開された。ところで、その衝突の取材で、取材するカメラが学生のデモ隊側にいたとする。となると、カメラに向かってくるのは機動隊だ。ガス弾がカメラに向かって連発される。装甲車が、カメラに向かって放水する。完全武装した機動隊が、カメラに向かって突っ込んでくる。こうした映像を見る視聴者たちの目には、機動隊のやり方は乱暴すぎる、こわい、横暴だ、と映り、これでは学生たちがかわいそうだという同情論が多くなるはずである。(p236〜237)


テレビカメラが学生の側にいると、「客観的」に見て、機動隊という国家権力が「悪に」見える。

では、その逆に、カメラが機動隊のうしろにいると、どうなるのか?

カメラに向かって、ヘルメット、覆面姿の、いかにもものものしい学生たちが、さかんに石を投げる。火炎壜を投げる。そして機動隊がひるむと見るや、カメラに向かって襲いかかってくる。こうなると、文字通り過激派暴力集団だ。(p237)


カメラの立ち位置やフレームの作り方によって、テレビの報道内容は、その意味が大きく変わる。

おそらく、田原氏は正しい。すべての人間が異なる固有の視点を持っている。主体(個人)によって立ち位置は変わる。誰が取材するかによってカメラの位置は変化する。カメラをどこにおき、どのような視点でその「事実」を切り取るか、それは千差万別になる。

個人の視点が報道の視点となり、その限界になるのだ。主観を離れて、できる限り、客観を心掛ける。しかし、我々は、主体から離れて完全な客体(他人)になることはできない。つまり、客観報道は存在し得ない訳だ。

この限界のある主観(個人の視点)を超越することはできないものか? 田原氏にとっての「朝まで生テレビ!」とは、この限界に挑む戦いだったのではないか。さまざまな論客と議論することで、多角的相対的に意見の違いを浮き彫りにしていた。

テレビ局や新聞・雑誌社などに所属するジャーナリストは、その会社の組織的な論調、意見の方向性、あるいは、ブランドなどに束縛されて、完全に自由なスタンスで言論することはできない。それに対して、組織に属さないフリーのジャーナリストである田原氏は、そのフリーであるからこその矜持や存在意義を考えたときに、あの「朝まで生テレビ!」のようなスタイルに自然に流れ着いたのではないか、と感じている。

アインシュタインは、相対性で限界を超えていった



相対性理論で名高いアインシュタインは、次のように、書いている。

For the present we shall assume the ‘truth’ of the geometrical propositions, then at a later stage (in the general Theory of Relativity) we shall see that this ‘truth’ is limited, and we shall consider the extent of its limitation.(『Relativity: The Special and the General Theory』)


ユークリッド幾何学の命題を当面は「真実(truth)」と仮定する。しかし、一般相対性理論でその「真実(truth)」の限界を提示し、その限界の及ぶ範囲を超えていく。意訳すると、こんな感じだろう。

私たちは、既存のメディアの限界を超える、新たな方法論や理論が必要なのではないか。おそらく、それは、より相対的で多角的な視点を導入することだ。人間は無意識に自分を中心に据えて世界を観察する。それが自然だからだ。努力なしで、相対的多角的な視点を導入することは難しい。直感的には、天動説が正しい、そして、まさか地球(自分)が中心ではなかったとは思わない。

田原総一朗氏は、カメラで撮ること、それをテレビで表現することの限界を示した。アインシュタインは、ユークリッド幾何学の限界を見抜き、相対性理論によって時間と空間の「真実(truth)」を明らかにしようとした。

主観の限界を超越するために



相対性理論は、絶対時間・絶対空間が存在せず、時空は相対的な存在だとした。ニュートン力学的な世界、つまり、自分を中心において絶対的な時間と空間が存在するという我々の常識、を揺さぶった。

田原氏が言うように、いわゆる客観報道というものが、厳密には存在しないとすれば、メディアが公平性を担保するには、主観の限界を認識し自己中心的な視点を一旦離れ、多角的相対的に世界を観察するよう努力をするしかないと思う。

ところで、主観の限界を超えていく前衛的な芸術家がいる。草間彌生氏だ。

「離人症の症状を参照しながら、草間の創作活動の原動力を、自分という意識=「こと」が、外界の現実として存在する自分=「もの」と遊離する苦痛、そしてそれをもう一度同化する必死の作業としての創作活動について論じている。(中略)現代社会における、自己の存在の不安は、実は実存的な不安として社会に共有されているものであり、そのため草間の表現は共感と普遍性を獲得したといえるかもしれない。」(『クサマトリックス/草間彌生』p82)

自分という意識=「こと」が、外界の現実として存在する自分=「もの」と遊離する。自分という意識=「こと」とは、主観のことだ。それが実存の物理的な自分=「もの」から離れていくとき、何が自分自身なのか疑いが生じ、絶対的な主観があるのかどうか、分からなくなる。

そして、それをもう一度、同化し、新たに結合する。草間彌生氏のスタイルだ。

主観の限界を超越するには、その主観を絶対視している自分を疑う必要がある。草間彌生氏の創作物が共感と普遍性を獲得するのは、主観の限界を、一旦、超越しているからだ。絶対的な主観に縛られて独り善がりにならない。その離人症の立ち位置が、普遍的な創作力の原動力になっている。

記者や報道関係者の、主観(主体)を遊離し、再度、新たに結合する。そこに、共感と普遍性を獲得できるヒントがある。草間彌生氏のスタイルから感じることだ。

離人症的に自分という意識から遊離し、さまざまな視点を取り込んだあとに、再度、新たに結合することで、共感と普遍性を獲得できるのではないか。共感と普遍性は、メディアの信頼性にも寄与するはずである。

Written by 有園雄一
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