先日「前編」として ユダヤ・キリスト教徒から優秀な人材が輩出する背景と思われる一部について触れました。

 そこで触れなかった、より本質的な部分を今回は記したいと思います。どうしていま、こんな話を書こうと思ったかという動機についても記したいと思います。

 それは、若い人にとっての「生きがい」が見出しにくい日本社会になっているように思うからです。

 若い人たちの人生のヒントになれば何よりと思いながら、私なりに考える「ユダヤ・キリスト教」の本質をお伝えしましょう。

 すなわち「ユダヤ教」「キリスト教」における信仰とは何なのか?

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アナタハ、カミヲ-、信ジマスカ〜?

 よく、テレビなどで戯画化されて描かれる場合があるように思うのですが、仮に道端で「あなたは神を信じますか?」と外人宣教師に問われても、

 「神様ねぇ・・・」

 と困ってしまう日本人が大半なのではないでしょうか。あるいは、積極的にそんなものは信じないという無神論的な傾向も、決して低くはない気がします。

 そのくせ、困ったときは神頼み、葬式があれば仏教で、クリスマスにはプレゼント。あれこれ折衷しながら何となく雑信心無信仰で生きている・・・。

 それがよく見えるように思うのは、現代世界の「自殺」の傾向です。

 世界で一番自殺者が多い国はスリランカです。10万人あたり35人以上が自ら命を絶っています。ついでリトアニア(32人/人口10万)南米英連邦のガイアナ(29人/人口10万)モンゴル、韓国(28人/人口10万)・・・。

 日本はベルギーやロシアなどと並んで、自殺率が10万人あたり約20人、世界約20位の高率で自殺する「好自殺国家」に属します。

 韓国は日本の1.5倍も自殺している。ちなみに北朝鮮ですら(15.3人/人口10万)と日本の75%程度にとどまり、韓国と比較すると統計上は半分程度しか自殺していないことになります。

 ただし、全世界平均は(約10人/人口10万)となり、北朝鮮はまだ「好自殺国家」に属することになる。これは中国の自殺率が(10人/人口10万)インドが(8人/人口10万)など、人口分の重みも重なっているのかもしれません。

 しかし、私たちは「日本が、中国と比較してすら。約2倍も自殺率が高い社会である」ことを、まじめに認識しておいてよいように思います。

 これに対してバハマ(1.7人/人口10万)ジャマイカ(1.3人)グレナダ(0.5人)バルバドス(0.4人)などのカリブ海諸国、あるいはパキスタン(2.1人)エジプト(2.6人)シリア(2.7人)アラブ首長国連邦(2.9人)といったイスラム諸国などは、日本の10分の1〜20分の1、ほとんど自殺者がいないところが少なくない。

 イスラム主要国は軒並み(3人/人口10万)程度、ギリシャ(4.3人)メキシコ(5人)イスラエル(5.5人)ブラジル(6.3人)イタリア(8人)などから分かるように、ユダヤ教、キリスト教カトリック、イスラム教の根強い地域は有為に自殺率が低いのです。

 まあイスラム教は明確に自殺を禁じているので、ある意味当然なのかもしれません。

 もちろん、聖書など無関係にアジアや中東に低自殺地域が点在していますし、これらすべての「啓典の民」すなわちユダヤ・キリスト・イスラム教のロジックだけで片づけるつもりはありません。

 ベルギーやポーランドなど、カトリックが根強い国でも、高度福祉国家や旧共産圏の自殺率は高いですし、ドイツや英国など、欧州中央部でプロテスタントが強い地域にも自殺者は存在します。

 ただし、日本と比較すれば6割、4割とはっきりと少ない。ドイツやオランダは世界平均より上ですが、英国はカトリック大国のスペインなどと並んで平均を下回っている。

 ゆりかごから墓場までの社会保障は、高度福祉で知られる北欧より自殺率を低く抑えているのでしょうか・・・。

 ラテン・アメリカはカトリック、中東はユダヤ教とイスラム教、エジプトはスンニー派、イランはシーア派・・・と、何にしろ強固な啓典信仰のある地域で自殺率は低い。これは紛れもない事実と言っていいでしょう。

 ではなぜ「信仰が篤い地域では、自殺率が低い」のか?

 宗教が禁じているから? 信仰があるから??

信仰とは「契約」の感覚である

 基本的に啓典宗教、つまりユダヤ=キリスト教、イスラム教は、信仰とは神との契約である、と言って大きく外れないと思います。

 それは「旧約聖書」「新約聖書」という名前にも如実に現れている。念のため「旧」や「新」ではありませんよ。古い「契約」を旧約といい、新しいのを「新約」というのです。

 信仰が神との契約である、というとき、それを、何か約束事とかルールのように考えると、ちょっとピントが外れます。現代日本人に分かりやすいよう、これをルソーなどの「社会契約説」を媒介として説明してみましょう。

 いま、読者のあなたが日本人だとしましょう。日本で生まれ、日本の役所に届出がなされて、日本国民として戸籍に記載されれば、あなたには「基本的人権」が生まれながらにすでに付与されている。

 「当たり前だ」と思われるかもしれません。でもタリバンの支配地域とか、北朝鮮のような社会では、あなたが享受している基本的人権は尊重されません。

 私たち、日本国憲法のもとで国籍・戸籍を持つものは、当然のこととして基本的人権のすべてを有する・・・こういう法文化の考え方は「天賦人権説」と呼ばれることがあります。

 この「天」を「神」と言い換えれば、社会契約説の大本である契約宗教としてのキリスト教の本質にすぐ行き当たれます。

 私たちは基本的人権を付与されているし、また法に記された禁忌、社会的な道徳ルールなどを遵守します。これらが「文字」で記されるようになった最初は、旧約聖書「出エジプト記」20節近辺にあると考えていいと思います。

 かいつまんで具体的に引用してみましょう。出エジプト記によると神様は預言者モーセに言われました。

1 あなたは私のほかに、何ものをも神としてはなりません。

2 あなたは自分のために、偶像を造ってはなりません(中略)それにひれ伏したり、それに仕えてはなりません。私を愛し、私の戒めを守るものには、恵みを施しますから、千代まで続くでしょう。

3 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはなりません。さもないと罰します。

4 日曜日を聖なる日として、仕事を休みなさい。

5 あなたの父と母を敬いなさい。これは、あなたの神から賜わる地で、あなたが長く生きる知恵です。

6 あなたは殺してはなりません。

7 あなたは正規の婚姻関係以外に、性的な関係をもってはいけません。

8 あなたは人のもの盗んではなりません。

9 あなたは同じ信仰を持つ共同体の仲間について、法廷で偽証してはなりません。

10 あなたは、同じ信仰をもつ共同体の仲間の持ち物をむさぼってはなりません。隣人の妻や使用人、家畜、すべての所有物を勝手にむさぼってはいけません。

 最初の4つは神様が出てきますが、後の6つ、つまり「父母を敬え」「殺すな」「犯すな」「盗むな」「うそをついて人を陥れるな」「横領するな」などというのは、21世紀の今日でも、大半の社会で成立する、ごくごく当たり前の社会ルールです。

 そこで、子供の頃からこうしたルールを叩き込まれ、それを守ることが反射神経となっている人が「神と契約した人」であり「信仰を持つ人」ということになる。

 上に引いたルールは、ご存知の方も多いでしょう。「モーゼの十戒」と呼ばれるもので、こうした道徳ルールを身体と感覚に叩き込んで生きているのがユダヤ教徒であり、キリスト教徒、またイスラム教徒ということになる。

 ガイジンに「アーナターハー、カーミヲー」と問われるよりは、はるかに常識的で当たり前の感じをもっていただければ、キリスト教社会の道徳律に一歩近づいたかと思います。

「契約せし者」は召命に生きる

 さて、ここからが中心部分なのですが、現代日本人は普通、6歳になれば小学校に入り、中学を卒業すれば、働くなり高校に行くなりし、学校を卒業すれば大半は就職しようとし、仮にに働いている会社が倒産などすれば、次の就職口を探す・・・といった行動をとるでしょう。

 最初から何もしない、左団扇で寝て暮らすという人は、ほとんどいない。

 仕事の上で、ごく普通に日常茶飯事として問題が発生することがあります。そういうときには、さてどうしたものか、と考えをめぐらす。当たり前のことです。

 自分たちは日本人で、これこれの基本的な権利は保障されている。同時に納税などの義務も負っている。その中で、日々どのように生活するかを私たちは考える。

 その中で、生きる希望を失ったとき、人は鬱病に罹患したりもし、その発作の一形態として自殺がある、と私は考えています。

 大半の自殺は病気の結果であって、健常者が突然発作的に犯すような行動ではない・・・。

 この40年来、身の回りで一定以上の数、自殺する人を送ってきましたが、そのすべてがある時期以降に兆候が出、ついに、というパターンで、シグナルが出てきたら「病気」と思うのが、堅実な判断だと思います。

 借金苦とか、役所で受けた耐え難い経験でトラウマを負って・・・というのも、その後休職してしまいといった欝の状態があって、決行に至ってしまう。そういう大本を作ることは、道義的に大変な罪と思います。

 むろん、それ以外にも、自殺特攻とか、戦場で捉えられ、今後助かる見込みがなく、拷問だけが待っている状態とか、いわゆる尊厳死など、様々なケースがあるのは間違いありませんが、人口に占める割合としてはそんなに膨大な数には決してならない。

 大半は欝と組にして考える方が妥当な解釈と対策が立てられます。

 人は絶望すると、そしてそこに合理的な方法を一切見失うと、無力感のどん底で欝に陥りやすくなる。

 その症状の延長に「自死」という行動が突発的に発生する・・・。

 この生理自体は人間すべてに共通するもので、特定の宗教とか信仰の有無といったことは、元来無関係と考えるべきだと思います。

 では、ユダヤ教徒やキリスト教徒、イスラム教徒はなぜ「自殺者が少ない」のか?

 「十戒」が殺人を禁止しているから、自分自身をも殺さないのでしょうか。いや、そんな理屈を超えてもっと現実的な背景が、「啓典と自殺」の間には存在し、ここでもキーとなるのは「契約」です。

 ここで紙幅がつきました。その答えは、続稿に記します。

筆者:伊東 乾