荒川区には銭湯が多い

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●温泉リゾート尾久

 大正から昭和にかけての荒川区は一種の温泉リゾート地だった。始まりは「寺の湯」。1914年(大正3年)に尾久・宮ノ前の碩運寺住職の松岡大機が、尾久村一帯の水が焼酎の製造に適すると考えて、衛生試験場に依頼して水質検査をしてもらったところ、ラジウムが含まれていることが判明したため、温泉を開くことにしたのである。その「寺の湯」が人気を得て、のちに新築され「不老閣」と名を変えた。その後、宮ノ前には保生館、大河亭、小泉園などの料亭付き温泉旅館が開業。尾久は温泉街のようになった。

 しかし、温泉と料理はあるが女性がいないということで、1922年、芸妓屋と料理屋からなる二業組合の指定を警視庁から受け、その後、待合茶屋も加えた三業地となった。

 その尾久三業地の旅館・満佐喜で二・二六事件と同じ1936年の5月20日に発生し、日本中の話題をさらったのが阿部定事件だった。芸者の女が惚れた男の局所を切って逃走したという事件である。男は死亡し、男の左大腿部には「定吉二人」、左腕に「定」という字を斬り、敷布にも「定吉二人きり」と血で書かれていたという極めて猟奇的な事件である。

 阿部定は神田の生まれ。少女時代に慶應義塾大学の学生に強姦されて以来、性の道に走るようになったという。吉蔵は中野区新井の三業地で料亭を経営する主人。阿部定が新井にいたときに知り合い、惚れ合った。尾久が三業地をつくるときに参考のために視察に行ったのが新井の三業地だったというのだから、話ができすぎだ。

●タクシーを乗りまわした阿部定
 
 ところで、この事件を映画化した大島渚の『愛のコリーダ』では、定と吉蔵は人力車で移動する。しかしこれは間違い。本当は2人はタクシーを乗り回していた。1936年当時はもう人力車は廃れており、「円タク」という1円で東京市内ならどこにでも行けるタクシーが普及していたのだ。

 統計によると、1886年、東京府内には4万4348人の車夫(人力車を引っ張る者)がいたが、1931年にはたった1358人に減っている。対して自動車の台数は全国で16年には1284台だったが、31年には6万2419台に増えている。ちょうど車夫の数と反比例しているのだ(齊藤俊彦『人力車の研究』三樹書房)。もちろん大島監督がそれを知らないはずはなく、それでも人力車を使ったのは、おそらく情緒を演出するためだったのだろう。

●遊園地と映画館
 
 また、荒川区の娯楽施設といえば、あらかわ遊園を忘れることはできない。ここは江戸時代には大きな武家屋敷であり、荒川の水を引き入れた池を中心とした回遊式汐入の庭園があったといわれている。それが明治時代に煉瓦工場となったが火事で焼失。工場の所有者だった広岡勘兵衛は有志数名とともに遊園の創設を企画し、王子電気軌道社長の金光庸夫の援助を得つつ、荒川遊園を開業した。

 また尾久には1922年に万歳館という映画館ができている。荒川区全体でも戦前、たくさんの映画館や寄席があったそうだ。増え続ける人口のために、娯楽への需要も拡大したのだろう。
映画館では1921年に第一金美館ができたのが最初らしい。付近は開館前まで田圃だったのが、開館後は一気に住宅地化したという。

 寄席については大正から昭和にかけて日暮里と三河島にそれぞれ5軒、南千住に4軒、尾久に3軒あった。商店主が店の2階を寄席にすることも多かった。映画館と寄席が隣接して建てられることも少なくなかった。その周りに射的場、碁会所、居酒屋、洋食屋が開業し、遊楽街が出現する地域もあったという。

 やはり1922年、尾久にはもうひとつ大きな施設ができた。東京野球倶楽部が現在の西尾久7丁目の1万5000坪の土地を借りてつくった野球場「尾久球場」である。経営は荒川遊園と同じ広岡勘兵衛や尾久の佐藤病院の院長らによるものだった(しばらくして経営難により閉鎖)。このように1922年ごろの尾久には、三業地、遊園地、映画館、野球場など、さまざまな娯楽施設が次々とできて栄えたのである。

●東京最初の「公益浴場」のひとつが荒川区にあった
 
 他方、貧しい人々も増えていた。荒川区の人口は1920年から30年にかけて12万人から28万人に急増した。なかでも増えたのが尾久地区であり、7500人ほどから7万5000人弱の10倍に増えたのである。急激な人口増加は住環境の悪化をもたらし、衛生・通風・保安の上で深刻な状況を生んだ。そのため、これらの地域で住宅環境の改善、失業者や貧困者に仕事を与えるさまざまな社会事業が始まった。

 すでに東京府社会事業協会は、荒川区内の各所に日用品廉売供給所、共同浴場、幼児保育所などを設置し始めていた。尾久ではないが、日暮里に細民地区改善のモデルとして1919年に「日暮里小住宅」を建設し、そのなかに託児所、公益質屋、共同の浴場と洗濯場をつくった。この託児所は日本女子大卒の女性、丸山千代が経営したものである。日本女子大学長の成瀬仁蔵はアメリカ留学を通して得たキリスト教聖心に支えられた社会事業に高い関心を示し、卒業生の組織である桜楓会の活動として託児所の創設を考案したのである。卒業生のなかから託児所の保育主任に選ばれたのが丸山だった。丸山は小石川、巣鴨町宮下に次いで、日暮里に3番目の託児所をつくったのである(日暮里小住宅は残念ながら現存しない)。

 浴場については、民間ではなく慈善団体が設置した公益浴場というものが当時はあり、たとえば1911年には、浅草の橋場町に、辛亥救済会による公益浴場が、大火事で罹災した人々のためにつくられている。日暮里の共同浴場も公益浴場のひとつであり、公益浴場としてはかなり古いもののひとつだといえる。その後、東京市の社会局が設置した公設浴場ができていった。まず月島2号地の公設住宅に附設して浴場をつくり、そのあと、深川の東京市営住宅に附設して古石場に浴場をつくったのだという(川端美季『近代日本の公衆浴場運動』法政大学出版局)。

 銭湯というと民間によるものばかりかと思っていたが、違うのだ。下町にはこうした公益浴場、公設浴場というものもあったのである。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)