「参勤交代の実態」とは?(写真: 氷姫 / PIXTA)

参勤交代は、江戸時代に幕府が行った代表的制度としてよく知られる。各大名は、1年ごとに江戸と自らの領地を往復するために、「大名行列」を構成し、藩の威厳を示す一方で、多大な出費を余儀なくされていた。
そんな様子は、今日の時代劇などでもよく取り上げられ、世間のイメージも定着しているものの、その「本当の実態」はあまり知られていない。
『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が「参勤交代の実態」を解説する。

オランダ商館の外国人も驚いた「大名行列」

元禄4(1691)年4月5日、長崎出島のオランダ商館長一行150人(荷駄隊を含む)は、東海道戸塚宿を西へと出発しました。恒例の江戸参府をはたし、将軍徳川綱吉との謁見を終えて帰途についたところでした。

そのうちのひとり、商館付医師として前年来日し、初めて江戸参府に随行したエンゲルベルト・ケンペル(1651〜1716、実はドイツ人)は、ヨーロッパとはまったく異なる文化をもつ、この東洋の小国に興味が尽きず、行く先々での見聞をこと細かく記録しています。

夜明け後の出発からまもなく、前方からこちらに向かう大きな集団が彼の目に止まりました。聞けば、それは徳川御三家のひとつ、紀州藩の大名行列で、ちょうど江戸への参勤の途中でした。

ところが、その大きな集団は「大名行列の先鋒隊」にすぎませんでした。やがて街道を進むと「さらなる大規模な集団」が新たにあらわれます。しかし、それも「行列の荷駄隊」にすぎませんでした。

ようやく昼近くになる頃、紀州藩第2代藩主、徳川光貞(1627〜1705)の駕籠を囲む「行列の本隊」とすれ違います。その「桁違いの規模と絢爛豪華さ」に、ケンペルらは圧倒されました。

延々と続く長い本隊の行列が通り過ぎ、ようやく最後尾の殿(しんがり)隊がケンペルら一行から遠ざかる頃には、辺りはもうすっかり夕方だったといいます。

江戸幕府の大名統制政策として、誰もがよく知る「参勤交代」。今回は、時代劇でもおなじみとなった、この制度の「ちょっと意外な実態」について解説します。

今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

Q1.参勤交代とは何ですか?

江戸時代に、徳川幕府が行った大名統制の一環で、諸大名が一定の時期を限って交互に江戸へ伺候し、もしくは領国に帰った義務制度です。

諸大名が江戸に伺候することを「参勤」、領国に戻ることを「交代」(ほかの大名の参勤と「交代」するという意味)といいました。

豊臣秀吉もすでに似た制度を行っていましたが、徳川の時代になり、元和元(1615)年に初めて武家諸法度に参勤作法が規定されたのち、寛永12(1635)年に3代将軍家光が発布した『武家諸法度寛永令』の第二条に参勤交代制が明記されました。

ただし、当初の対象は外様大名に限られており、寛永19(1642)年の改定で譜代大名にも適用されました。

原則1年ごと、ただし5年に1度の藩も

Q2.参勤交代は「どの時期に」行われたのですか?

外様大名は毎年4月、譜代大名は6月あるいは8月が主なシーズンです。

各大名はこの参勤交代を期に、江戸もしくはそれぞれの領地で1年を交互に過ごします。ただし、災禍(地震・大火などの災害、飢饉、反乱等)や、城・寺社・道路の改修といった普請工事、冠婚葬祭、病気など、幕府と自藩それぞれの諸事情により、参勤交代の時期が変更されたり、あるいは免除されるケースもありました。

Q3.参勤交代は全大名一律に1年ごとですか?

基本的には1年ごとに参勤と交代を繰り返しますが、例外も存在しました。たとえば、御三家の水戸藩と、老中など幕府の要職に就いた大名は、基本的に江戸定府(じょうふ・江戸に常駐)でした。

また、関東の譜代大名はおよそ半年ごとの短いスパンでの参勤交代だったほか、対馬藩の宗氏は「3年に1度」、蝦夷地(北海道)の松前氏は「5年に1度」の参勤など、遠隔地の一部大名には特別な配慮もありました。

参勤交代の厳格なルールは広範囲に及びます。

4000人の大行列も

Q4.対象は大名のみですか?

いいえ。大名(=1万石以上)でないにもかかわらず、幕府から「大名に準じた家格」を与えられたごく一部の旗本(=1万石未満)も、参勤交代を行なっていました。

それから、これは厳密には参勤交代ではありませんが、冒頭で紹介した長崎出島のオランダ商館長も、毎年1月中旬から3月にかけて江戸に参府し、将軍に拝謁しています。

Q5.もし、参勤をサボったり遅れると、どうなりますか?

もちろん、それらは厳禁とされ、処罰の対象です。たとえば、元和9(1623)年に、福井藩主の松平忠直(1595〜1650)は幕命によって隠居のうえ豊後(大分県)に流されますが、その理由のひとつは「参勤を怠った」ためです。

さらに、寛永13(1636)年には盛岡藩主の南部重直(1606〜1664)が予定の到着に10日ほど遅れてしまい、およそ2年江戸で蟄居させられています。

とはいえ、藩主が旅行中に病気になったり、川留めで遅れが出るケースは多々あり、こうした不測の事態では、幕府へすみやかに報告さえすれば、お咎めはありませんでした。

Q6.行列は何人で構成されていたのですか?

大名の石高によって異なります。享保6(1721)年の規定によれば、「20万石以上で約450人程度」で、「10万石で約240人」「5万石で約170人」「1万石で約50人」と決められていました。

とはいえ、「加賀百万石」で知られる前田家では、5代藩主綱紀のときに最大「4000人」の行列となるなど、実際の数はそれよりも膨大に膨れ上がりました。

行列がより大がかりになっていくのには、理由がありました。

Q7.なぜそんなに大人数が必要だったのですか?

大名たちが威厳を競い合った結果ですが、「人数を増やさざるを得ない事情」もありました。上記の規定された人数以外に、上級家臣の家来や、さまざまな人足なども必要だったのです。

たとえば、藩主の乗る駕籠は大きく、上記の前田家の例では担ぎ手は14人も必要で、その交替要員も同数以上に必要でした。また、乗り換え(召替)用の別駕籠、高齢者や上級藩士、医師、夜勤番明けの藩士が乗る駕籠もあるため、その分の担ぎ手もいります。

さらに、道中での現金払いに対応するため用意された大量の鋳造貨(小払銭)、行列が夜道を歩く際に必要な松明・提灯、雨天用の合羽、休憩時のお弁当や軽食・お茶を運ぶ人、軍馬・荷馬の世話人(口取)など、膨大な荷物の運搬を担当する人たちは、上記の人数には入っていませんでした。

このような事情から、必然的に行列の人数は肥大化する傾向にあったのです。

殿様もときには歩いた

Q8.常にあの「下にィ〜」の掛け声とペースで行進していたのですか?

いいえ、ずっとではありません。そもそも、「下にィ〜」の掛け声が許されたのは、徳川氏の一門である御三家などに限られました。

また、列を整えて足並みを揃えたあのお馴染みの光景を「行列を建てる」と言いますが、この間は進むペースがだいぶ落ちてしまいます。そのため、行列を建てるのは、大きな宿場や要衝の宿場、城下や関所など「限られた場所のみ」でした。

Q9. 藩主は駕籠に乗ったきりですか?

そうでもなかったようです。いくら日頃から乗り慣れているとはいえ、さすがに駕籠に乗りっぱなしの長距離移動はキツいこともあり、ときには藩主も駕籠から降りて道中を歩くこともありました。

福井藩主、松平慶永(春嶽、1828〜1890)は、まだ10代の若者だった弘化2(1845)年の参勤で、その道中の大半を自らの足で歩き、各地のグルメや名所見物を楽しんだことを、記録に残しています。

参勤交代の意外な実態には、ほかにもこんなものがあります。

土下座の義務なし、行列を横切るのはNG

Q10.庶民は行列をどう見ていたのですか?

時代劇では、行列に向かってひれ伏してやり過ごす庶民の姿が描かれますが、実際のところ「土下座」は必ずしも義務ではなく、御三家など以外には適用されませんでした。

先の「下にィ〜」の掛け声は、「土下座しなさい」という意味なのです。その他の大名の場合は、道をよければ構いませんでした。ただし、行列を横切ることは厳禁でした。

行列が建てられると、藩主の駕籠の側につき従う藩士(髭奴・ひげやっこ)が、派手に飾られた特別な長槍を豪快に振ったり投げたりする軽業(奴踊り)のパフォーマンスを披露し、沿道の人々を楽しませるなど、「エンターテインメント」的要素も含まれていました。

Q11. 道中の移動ペースはのんびりですか?

いいえ、まったく逆の「強行軍」です。前述の福井藩の例で見ると、東海道が使われた場合は1日平均約9.4里、中山道使用の場合は約9.8里、つまり、「1日あたり40キロ程度の移動」となります。

朝の出発はだいたい午前5時から6時、途中昼食や小休止をはさみながらも「約10時間」を踏破し、夕方5時頃に宿泊先の本陣に入りました。

もちろん、支障がない限り休日などなく、それぞれ割り当ての荷を負っての行軍ですから、実際は相当ハードです。

Q12.行列は男ばかりだったのですか?

基本的に、行列は男性によって構成されていました。

しかし、藩主の身の回りの世話を行う女性たち(侍女)も参勤交代にともない任地に赴く必要があったことから、彼女らは藩主の通行の数日前か後に、行列とは別個に出立しました。これは、体力的問題(連日40km歩行)を配慮しての措置でしょう。

一方で、変わった同行者もいました。久留米藩主、有馬則維(1674〜1738)は、ペットとして飼っていた将軍拝領の「犬」を、行列に連れていました。

「積年の反幕思想の底流」になった可能性も

参勤交代の制度が制定された目的は、江戸に往復させることで大名たちに高額な費用を負わせることでした。各藩の財政を圧迫することを意図していたわけです。実際、たとえば松江藩では、参勤交代にかかる費用が年間藩財政の3分の1にも達していました。

このように、この制度は江戸時代を通して連綿と維持されてきましたが、その間、享保7(1722)年の8代将軍吉宗のときには、幕府のほうが財政が逼迫するようになります。

その財政再建を目的に、各大名に石高1万石につき100石の米の上納を命じ、その代わりに参勤交代の在府年限を半年、在国を1年半に定める制度緩和が実施されたこともありました。

ただし、財政再建のめどが立った8年後にこの制度は元に戻され、参勤交代制が抜本的に見直されたのは幕末期の文久2(1862)年でした。


当時、将軍後見職だった徳川慶喜、そして前述の前福井藩主で政事総裁職の松平慶永らの主導のもと、制度が大幅に緩和されて、参勤は3年に1度、江戸在府も約100日に短縮となりました。それだけ、この制度に対する各藩の反発が強かったのです。

しかし、急激に弱体化する幕府には、緩和されたこの制度を維持する統制力もなく、やがて倒幕運動に敗れた幕府は、ついに滅亡のときを迎えます。本来、「幕藩体制を強化するための象徴」だった参勤交代制度が、「積年の反幕思想の底流」となっていった可能性があります。

参勤交代のように、「時代劇や映画などで何気なく見知っている事柄」でも、歴史を学んでその詳細を知れば、このように「新しい発見」や「気づき」はたくさんあります。また、普段見るドラマのストーリーも、より楽しめるようになります。

ぜひ最新の日本史を学び直すことで「歴史の知識と教養」を増やし、「歴史をより深く楽しむ目」を養ってください。