性差別と過度な学歴主義の融合によって最強の葛藤がもたらされている(写真:mizoula/iStock)

東大には東大女子が入れないサークルがある

「インカレのテニスサークルの男子たちは、私たち東大女子のことが見えていないふりをします」

いまに始まったことではない。30代の東大OGも証言する。

「1年生のサークル選びのとき、東大の女子が入れない東大のテニスサークルがあることを知って、『何それ? どういうしくみ?』みたいな(笑)。そもそもそんなルールがまかり通っていること自体に驚きました」

東大には、東大の女子学生が入ることのできないサークルが多数存在する。有名なのは、テニスサークルだ。東大男子が入れるテニスサークルは主なものだけでも20以上あるのに、その中で東大女子を受け入れているのは実質的に2つしかないと言われている。

2016年3月、東大は副学長名義で差別的なサークル勧誘を見直すようにと文書を出した。しかしかつて東大のテニスサークルに所属していた40代の男性はこう説明する。

「東大にはそもそも女子が少なく、サークルの中での男女比率を同等にしようと思うと、すべてのテニスサークルに女子が行き渡りません。だから外部から女子を招くしかありません」

しかし単なる数合わせなら、東大女子を締め出す必要はないはずだ。

「女子大女子と東大女子をいっしょにすると、そこにはやっぱり温度差が生まれやすい。また、たくさんあるサークルにただでさえ少ない東大女子がばらけてしまうと、東大女子同士の横のつながりが広がりにくくなります。それで必然的に棲み分けが進んだのではないでしょうか」

だとすれば、大学が発した文書は、学生への無茶ぶりともいえる。そして実際、いまもサークル活動の実態はなんら変わっていない。

東大は「2020年までに学生の女性比率30%」を掲げている。だが、2017年5月1日時点での学部学生における女性の割合は、19.4%。京都大学の女子学生比率は22.4%、一橋大学は28.3%、東京工業大学は13.1%、東京外国語大学は65.6%、慶應義塾大学は35.5%、早稲田大学は37.8%である。

世界のトップ大学と言われるハーバード、イェール、プリンストン、スタンフォード、ケンブリッジ、オックスフォードの学部学生の男女比はほぼ半々。理系のイメージが強いマサチューセッツ工科大学でさえ、女子学生が約46%を占めている。

1982年5月1日時点での学部学生の女性比率は約7%だったというから、この35年間で3倍近くに増えたという見方はできる。しかし実は2003年には18%、2005年には19%をすでに超えており、それ以降はほぼ横ばい状態なのだ。「2割の壁」が越えられない。

そこで2016年11月、東大は一人暮らしの女子学生向けに月額3万円の家賃を補助する制度を導入することを発表した。

これに対しては、男子志願者に対する逆差別ではないかという批判も噴出した。そこだけを見ればたしかに不平等だ。しかし問題はそこだけではないのである。

「東大女子」の四字熟語が奏でる不協和音

拙著『ルポ東大女子』を書くために、多くの東大女子をインタビューし、本音に迫った。以下、一部を抜粋する。

「早稲田、慶應あたりのひとたちに対しては、勝手にこっちが気を遣っちゃうことはあります。もしかしてこの中に東大を不合格になっていまでもそれを引きずっているひとがいたらどうしようと。完全に余計なお世話だとは思うんですけど」

東大女子の多くは、合コンなどで大学名をごまかしたことがあると証言する。実際に「東大」に対してコンプレックスを抱いているひとが、学生に限らず一定数いることは間違いないだろう。一方で、東大女子の側がそれを気にしすぎるという部分もなきにしもあらず。そこに見えない壁ができる。

「東大の授業の中でも、女子が大きな声で発言するとあまりいい顔をされません。空気を読んで『わかんない』って顔をすることがあります。男子に対しては論破しないように気をつけています。東大に来ているような男子はプライドがすごく高いので(笑)。バカだと思われているほうが東大の中でもうまくいく気がします」

東大の教室の中ですら、そんなことにまで気を遣わなければならないとは驚きだ。

「東大に入ること自体にはすごく能力も必要だし、みんな、熱意をもって入ってくるんですが、同時に、女子なのに東大に入ってしまってこれから先大丈夫かなっていう漠然とした不安もあると思います。インターネットを見ても怖いことばかり書いてあるし……。『結婚できない』とか『学歴で逆差別を受ける』とか、特に大学を出てからが怖い」

偏差値ヒエラルキーの最高峰にあり、生き馬の目を抜く競争社会に生きるという選択から専業主婦になるという選択までを視野に入れられる「東大女子」。もし彼女たちが、それでもなんらかの葛藤や生きづらさを抱えているのなら、それはそのまま世の中の矛盾の象徴ではないか。

大学名と性別が結びついた有名な言葉としては「慶應ボーイ」「ワセジョ(早稲田の女子)」がある。しかし「東大女子」という四字熟語がことさら意味深に見えるのは、「東大」という言葉がもつ「競争」のイメージと、「女子」という言葉がもつ「ケア」のイメージが、私たちの無意識の中で不協和音を奏でるからだ。

「競争」とは、資本主義社会における稼得力競争である。世間からスポットライトを浴びるための競争といってもいい。「ケア」とは、家事全般そして育児・介護など生物としての普遍的営みのことである。通常それ自体がスポットライトを浴びることは少ない。

不協和音を大きくしているのが、私たちの心の中にある無意識の偏見であることは言うまでもない。「競争」と「ケア」をまるで水と油のように相反するものだととらえ、しかも「ケア」を「競争」よりも下に見る偏見だ。

「男性の育休率」よりも「東大の女子率」

高度成長期からバブル景気の時期くらいまでの昭和型成長社会において、過度な競争社会を勝ち抜くためには、「高い偏差値」と「専業主婦」が必要だった。そのために受験競争が過熱し、女性は家に入ることを社会的に強要された。

しかし昭和型成長社会は終わった。それからだいぶ時間は経ってしまったが、ようやくいま、「働き方改革」と「大学入試改革」が同時に議論されているのは偶然ではない。「働き方改革」とは要するに、「専業主婦に頼らないで社会を回す方法を考えよう」ということだ。「大学入試改革」とは要するに、「偏差値の差に対する過敏症を治そう」ということだ。


実はこれらは「社会構造改革」という巨大な車の両輪である。「働き方改革」の成功なくして「大学入試改革」の成功はないし、「大学入試改革」の成功なくして「働き方改革」の成功もない。そのことが、東大女子の視点に立つことによって見えてきたのである。

東大女子とはまさに2つの車輪をつなぐ車軸の真上に立っているひとたちだ。彼女たちがバランスを失って転がり落ちることがあれば、それは車の両輪がまっすぐに進んでいない証拠。能力も選択肢もある東大女子が、納得のいくライフコースを選択できなかったら、ほかに誰が納得のいく人生など実現できるだろうか。そのような社会で多様な働き方も暮らし方も生まれるはずがない。

東大女子の同窓会組織「さつき会」が1989年に編んだ書籍『東大卒の女性』に、1950年代のエピソードとして、次のような一節がある。

私がその頃から、男女差別がどうなどと悲憤慷慨すると、先生(新聞部の顧問だった中屋健一氏)は、「君、東大に女子学生が半分にならないと日本は変わらないよ。しかし、いずれそういう時代が来るだろう」と言ったんです。

慧眼である。そういう時代にしていかなければならない。

どうにでもごまかしようのある「男性の育休率」などという数値目標を掲げるよりも、「東大の女子率」を社会構造変化の指標として掲げたほうがいいのではないかと、半分冗談半分本気で、私は思う。