神奈川県立病院機構が迷走を続けている。

 3月26日、土屋了介・前理事長が横浜地裁に解任処分の取り消しを求め、神奈川県を相手取った訴訟を提訴した。

 きっかけは、3月7日、黒岩祐治・神奈川県知事が、自らが三顧の礼で招いた土屋氏を解任したことだ。

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医療界では知らない人のいない有名人

 土屋氏は医療界では知らない人がいない有名人だ。

 1946年横浜で生まれ、70年に慶応大学医学部を卒業した。日本鋼管病院や防衛医大を経て、1979年に国立がんセンター中央病院(当時、現国立がん研究センター中央病院)に就職。肺外科医として腕を磨いた。

 手術が上手く、リーダーシップも兼ね備えていたため、大勢の若手医師が彼のもとに集った。鈴木健司・順天堂大学呼吸器外科教授など、その弟子は日本の肺がん外科をリードしている。

 2001年から05年まで、筆者も国立がんセンター中央病院に内科医として勤務したが、土屋副院長(当時)からは多くを学んだ。医師としての腕はもちろんだが、その胆力に舌を巻いたことを覚えている。

 東京のがん医療は国立がん研究センターとがん研有明病院の2強が鎬を削っている。多くの分野で国立がん研究センターはがん研有明病院の後塵を拝しているが、肺がんは違う。

 2014年度の肺がん手術数は、国立がん研究センター中央病院が472件で全国トップなのに対し、がん研有明病院は294件で全国6位だ。ちなみに前出の鈴木教授が率いる順天堂大学は340件で全国4位。土屋氏の遺産と言っても過言ではない。

 2006年、土屋氏は国立がんセンター中央病院の院長に就任。

 病院長としての職責以外に、2008年には、舛添要一厚労相(当時)が設置した「安心と希望の医療確保ビジョン」具体化に関する検討会のメンバーとして、医学部定員を増やしたり、2010年には、仙谷由人行政刷新担当大臣(当時)とともに国立がんセンターなど6つのナショナルセンターの独立行政法人化を主導した。

 国立がん研究センター退職後は、乞われて公益財団法人がん研究会の理事に就任。経営難に喘いでいたがん研有明病院を再生させた。そして、2014年、黒岩知事に三顧の礼で神奈川県立病院機構の理事長に迎えられた。

 功成り名を遂げた土屋氏が、格下の神奈川県立病院機構の理事長に就任したことに、多くの医療関係者は驚いた。土屋氏は「最後は生まれ故郷の神奈川に貢献したい」と語った。

独法の理事長を設置者が解任、史上初

 土屋氏は2018年3月末で、神奈川県立がんセンター理事長の任期が切れる予定だった。当初、黒岩知事は土屋氏を再任するつもりだった。なぜ、任期切れ直前の3月7日に解任しなければならなかったのだろう。

 地方独立行政法人(独法)の理事長を設置者が解任するのは史上初だ。医療政策が売りの黒岩知事が、土屋氏を解任すれば、メディアも報じ、自らの責任問題になるのは避けられない。来年、黒岩知事は再選を控える。常識では理解できない。

 土屋理事長に不法行為はなく、このことは神奈川県も認めている。

 独法に詳しい政府関係者は「地方独立法人法で、設置者が理事長を解任できるのは不法行為を冒したときなどに限定されており、黒岩知事の対応は異様」という。なぜ、こんなことになったのだろう。

 きっかけは、昨年8月、中山優子放射線治療科部長(当時、現国立がん研究センター放射線治療科医長)が退職したことだ。残り5人の医師のうち、3人が1月末までに退職した。

 神奈川県は調査委員会を立ち上げ、1月24日に結果を発表した。

 この中で中山医師らの主張を引用し、「退職医師らが退職を決意した最も大きな理由は、放射線治療科に長年勤務していた医師が外部機関に研修派遣され、退職に至った」と述べ、この事件を「コミュニケーション上の大きな問題」と認定した。

 さらに、「医師間のパワーハラスメント事案」があると指摘し、「病院機構の内部規程に則った対応がされていない」と土屋理事長(当時、以下同じ)の対応を批判した。

 この主張を聞くと、不適切な対応を繰り返す土屋氏を、神奈川県庁が懲らしめたように映る。ところが、実態は正反対だった。

改革派を良く思わない人たち

 私は、改革派の土屋理事長を引きずり降ろすため、中山部長や神奈川県立病院機構、神奈川県庁幹部が策動したのが真相だと思う。

 昨年12月8日の夜、首藤健治・神奈川県副知事が私のオフィスに訪ねて来た。首藤氏は灘中学・高校の剣道部の2年先輩で、37年のお付き合いだ。

 彼は「土屋先生は問題がある。このままではもたない。(土屋おろしに)自らの進退をかける」と言った。

 首藤副知事は元厚労省医系技官。舛添厚労大臣が設置した「安心と希望の医療確保ビジョン」具体化に関する検討会や、仙谷行政刷新担当大臣が主導したナショナルセンター独法化の事務局のメンバーで、土屋理事長と共に働いた。

 その実力は熟知しており、携帯電話やメールでやりとりできる仲だ。

 彼の口ぶりから、神奈川県立病院機構の幹部からいろいろな情報が入っているのが分かった。彼らの言い分をすべて真に受けていたわけではないだろう。

 一方、土屋理事長とは話していなかった。その気になれば、すぐに携帯電話で話せる間柄なのに、あえて連絡を取らなかったのだろう。

 首藤氏と黒岩知事は灘高の同窓。黒岩知事は筆者に「首藤を副知事にするのは大変だった」と語ったことがある。

 現在、首藤氏は末席の副知事。神奈川県立病院機構の副理事長は神奈川県庁OBで、上席の副知事とは親密だ。首藤氏は神奈川県庁の幹部と土屋理事長の板挟みにあったのだろう。

 そして、前者を取った。

経歴詐称で本来は資格のない部長

 首藤副知事が誰に気を遣って、このような対応を取ったのかは、私にでも容易に想像がついた。

 彼にとって、県民の健康のためとか、行政としての正しさより、県庁内の人間関係が優先されたのだろう。

 調査委員会が立ち上がる前から、私に「土屋先生を解任するけど、表だって批判しないでくれ」という主旨の説明に来るくらいだから、私は県の調査を「結論ありき」の茶番と感じた。

 神奈川県は、このことを突かれたくなかったようだ。せこい対応を繰り返した。例えば、1月29日、この問題を県議会で取り上げる予定で、土屋理事長を参考人に招致したが、当日になって招致はキャンセルされた。

 質問に立った小川くにこ県議(自民党)は「(退職した中山)医師のわがままではないか。県民視点で指導してくれたのなら、それは正しいことではないか」と批判した。

 彼女が批判した理由は、中山医師が「先進医療」である重粒子線治療の施設認定を受けるための申請書に、経歴を「改竄」していたからだ。未熟な医師に、高度医療をやられてては、患者はたまったものではない。

 厚労省は施設責任者には1年間の療養の経験が必要という条件をつけているが、3か月しか実務経験がない中山医師は、外部機関での客員研究員の期間を含めて2年と記入していた。

 この点を指摘された中山医師は「当該外部機関に確認したうえで記載した」と説明した。大川院長は当時、「自分も(この記載は)まずいと思った」と周囲に述べているが、「虚偽」のまま書類を厚労省に提出し、神奈川県も問題視しなかった。

 こんな理屈は通用しない。確認すべきは厚労省に対してで、共同申請者である「当該外部機関」ではないし、客員研究員の期間を臨床経験に加えていいのなら、最近、話題の専門医制度の議論など不要だ。

 私は経歴を詐称する人物は信用しない。ほかにも嘘をついている可能性が高いからだ。

無資格者による診療で困るのは県民

 中山医師は、県立病院機構が開設した重粒子線治療センターの責任者になりたかったのだろうが、無資格者に治療されては、患者はたまらない。群馬大学の腹腔鏡手術のように未熟な医師が高度医療をやれば、患者が被害を蒙る。

 2014年に神奈川県立病院機構の理事長に就任し、この事実を知った土屋氏は、外部から有資格者である野宮琢磨医師を招聘し、重粒子線治療科の部長に任命した。

 そして、中山医師が資格を取れるように、放射線総合医学研究所での研修を命じた。

 我が国のがん医療は、厚労省と国立がん研究センターが二人三脚で進めてきた。国立がん研究センターのトップだった土屋理事長は、このあたりの仕組みや運用を熟知している。

 がん行政に関する経験に関しては、神奈川県立病院機構の幹部や神奈川県庁の職員とはレベルが違う。土屋理事長の判断は妥当なものだ。

 土屋理事長が指示して、この件を厚労省の神奈川県事務所に問い合わせたところ、「研究員の2年間は粒子線治療の療養に専従した期間には該当しない」との回答があったという。

 誰がみても問題は明らかだ。ところが、神奈川県立病院機構の他の幹部、さらに黒岩祐治知事は詭弁を弄し続けた。

 問題は、これだけではない。招聘された野宮医師は、中山部長からパワハラを受けていたことを調査委員会に資料ととともに提出したが、調査委員会はこのことを無視した。

 余談だが、野宮医師は土屋理事長の解任を知り、2月末日に退職した。

 この件については、中山医師、野宮医師に言い分があるだろう。神奈川県は調査に乗り出した以上、双方の言い分をきっちりと聞くべきだ。結論ありきのお手盛りではいけない。

 実は、神奈川県の問題はこれだけでない。

着実に評判を上げていたが・・・

 そもそも地方独立行政法人に対して、神奈川県は一般指揮監督する権限がない。自治体と独法の関係は、地方独立行政法人法に明記されており、神奈川県立病院機構から頼まれてもいないのに、パワハラの調査をするなど、神奈川県にはできない。

 権限と責任は表裏一体だ。権限がないのに介入すれば、失敗しても誰も責任を問われないことになる。

 一方、神奈川県立病院機構の幹部は、問題が起こっても、神奈川県のせいにする。この結果、無責任体制が出来上がる。

 神奈川県立病院機構の設置者である黒岩知事がやるべきは、患者視点に立って、土屋体制を評価することだ。土屋体制の4年間で神奈川県立病院機構がどう変わったか、ファクトに基づいて議論すべきだ。

 土屋体制で、神奈川県立病院機構はどう変わったか。まずは現業が強化された。医業収益は、平成25年度の364億円から平成28年度には433億円に増加(19%増)。人件費の医業収益に対する割合は62%から58%に低下した。

 イメージも変わった。多くの医療関係者は「神奈川県立病院機構は不祥事が多い」という印象を抱いていた。

 2010年以降だけでも、「乳がん手術で女性意識不明 神奈川県立がんセンターの医師二人書類送検(2011年1月12日、NHKニュース)」、「病院に7240万円賠償命令 搬送患者死亡 「検査で救命可能」(2012年1月20日、東京新聞)、「賠償訴訟:MRSA感染の障害で賠償命令 県立病院に地裁(2012年5月26日毎日新聞)」という感じだ。

 土屋理事長赴任直後にも、「重症患者に輸血ミス、神奈川の県立病院、容器取り違え(2104年4月25日、日本経済新聞)」という報道があったが、それ以降、医療過誤報道はない。

 研究面も強化された。米国医学図書館のデータベース「PUBMED」を用いて、神奈川県立病院機構傘下の5つの施設から発表された論文(共著を含む)は、2013年度148報から2017年は334報に増加していた(125%増)。

現場の躍進の半面、収益は急速に悪化

 これは土屋理事長が東京大学医科学研究所ヒトゲノム研究センター長の宮野悟教授などを招き、臨床研究体制を強化したからだ。元からいた幹部職員の生産性が高まったわけではない。

 その証左に経歴改竄が指摘された中山部長が2017年に発表した英文論文は、共著も含めてわずかに4報だ。土屋理事長の退陣を黒岩知事に求めた大川伸一・がんセンター病院長は8報。宮野教授の45報とは比べものにならない。

 宮野教授は、土屋理事長の解任を知り、辞表を提出した。

 土屋体制下で、現場が躍進したのは議論の余地がない。ところが、この間、神奈川県立病院機構の経営は急速に悪化した。

 それは身の丈に合わないハコモノ投資を繰り返したからだ。

 2013年にはがんセンター、2014年には精神医療センターが新病院を開院した。2015年12月には、120億円を費やした重粒子線施設が稼働した。いずれも、土屋理事長就任前に決まっていたことだ。

 固定資産は、土屋理事長が赴任する前年の2013年度は727億円だったが、2016年度末には844億円に増加した。この結果、減価償却費は40億円から53億円、赤字は19億円から22億円に増え、現預金は70億円から50億円に減った。

 有利子負債は428億円から540億円に増加、固定比率は498%から702%へと上昇。自己資本比率は12%の「借金漬け」になってしまった。

 赤字の穴埋めに、神奈川県立病院機構には巨額の税金が注入されている。例えば、神奈川県から受け取っている運営費交付金104億円だ。

 これは総合大学である横浜市大(107億円)、山形大(113億円)、鳥取大(108億円)、島根大(107億円)が全学で受け取る金額と同レベルだ。

 このような構造で誰が利益を得ているかは、皆さん、お分かりになるだろう。少なくとも納税者である県民ではない。

阪神タイガースに似たぬるま湯体質

 私は、神奈川県立病院機構は、かつての阪神タイガースに似ていると思う。

 監督・選手がぬるま湯体質でも、熱烈なファンがいるので、球団経営は安定している。近鉄のように消滅する心配はない。

 そこに、野村克也監督や星野仙一監督を髣髴させる強力なリーダーが来て、「真面目にやれ。もっと働け」と言い出したから、古株の選手が親会社、OBと一緒になって追い出したというのが実情ではなかろうか。

 神奈川県立病院機構の幹部のレベルがあまりに低すぎて、土屋理事長の「指導」についてこれなかっただけだ。

 大川院長は「土屋理事長がいるから医者がこない」、黒岩知事は「(土屋理事長が降格した)大川氏を院長に戻せ。そうでないと解任する」と主張した。こんな子供みたいなことをよく言うものだ。

 この事件は、土屋理事長と黒岩知事・神奈川県立病院機構幹部の泥仕合ではない。それぞれの実績を冷静に評価すれば、結論は自ずから明らかだ。

 ところが、マスコミはもちろん、地元紙は県民が考えるための事実を提示してこなかった。

 神奈川県立病院機構を育てるのは、神奈川県民だ。土屋理事長を解任したことが本当によかったか、県民の皆さんに是非、考えていただきたい。本稿が、少しでもお役に立てば幸いだ。

筆者:上昌広