福島県白河市の南湖公園。


 江戸幕府8代将軍、徳川吉宗が成立させた「公事方御定書」は、「更生」の概念をはじめて取り入れた画期的な法典だった。そして、さらに「更生」の面を進化させたのが、孫である老中の松平定信がつくった「人足寄場」という施設だった。

前回の記事:「手厚い“更生”施設、松平定信の『人足寄場』」

「定信は、吉宗の没後に生まれています。ですから祖父に直接会うことはなかったのですが、2人は同じ姿勢や思想を持っていたといえます。それは『庶民に寄り添う』ということです。実際、2人が同じ思いを抱いていたことが分かる“遊楽の地”があります。福島県白河市の南湖(なんこ)公園がそれです」

 そう話すのは、法律の歴史を研究する國學院大學法学部の高塩博(たかしお・ひろし)教授。南湖公園の成り立ちを紐解けば、時代を経て引き継がれた吉宗と定信の大切な思想が見えるという。江戸時代における法の歴史を追ってきた本連載の最終回として、法に変革を起こした2人の為政者が描いた理想を追う。

國學院大學法学部教授の高塩博氏。昭和23年(1948)生まれ。國學院大學大学院法学研究科修了。同大學日本文化研究所助教授・教授を経て、同大學法学部教授。日本法制史専攻。法学博士。法制史学会理事、法文化学会理事、公益財団法人 矯正協会理事。近年は江戸時代の刑事法制を中心に研究を進めている。主要著書に『』(汲古書院、平成16年)、『』(成文堂、平成25年)、『』論考篇・史料篇(汲古書院、平成29年)、など。


[JBpressの今日の記事(トップページ)へ]

福島の南湖に込められた「士民共楽」の思い

――吉宗と定信のつながりが分かるものとして、先生は南湖公園を挙げられました。いったいどういう意味でしょうか。

高塩 博 氏(以下、敬称略) 南湖公園の成り立ちを知れば、定信の姿勢が明らかに吉宗とつながっていることが分かるはずです。まずは、南湖公園の歴史を説明しましょう。

 南湖公園は、福島の白河藩主だった松平定信が、1801(享和元)年に完成させたものです。現在は公園制度に基づいて「南湖公園」と呼ばれていますが、当時は「南湖」という名称でした。この記事でも「南湖」と呼ぶことにします。なぜなら、定信の思想を理解する上で、その呼び名が重要になってくるからです。

 定信は、いくつかの目的を果たすために、南湖の開削作業にとりかかりました。目的の1つは田んぼの「灌漑用水の確保」、また1つは「操舟訓練や水練の場所の確保」などです。後者については、海から遠い地域ゆえの対策といえます。

 さらに、開削の際には労働力として白河藩領内の人々を雇いました。公共事業や福祉事業の面もあったと言えます。文字通り、複合的な役目を果たしました。

松平定信(まつだいら・さだのぶ):1758〜1829年。江戸時代の大名で、徳川吉宗の孫にあたる。白河藩主の養子となり、家督を継いで藩の財政を立て直し、老中となってからは、寛政の改革を行うなど、幕政を担った。


――非常に実用的な目的があったんですね。

高塩 とはいえ、南湖にはこれ以外に大切な役目がありました。それは「武士から庶民まで、誰でもが遊べる遊楽の地」にすることです。

 当時、江戸をはじめとして城下町の各地には「大名庭園」がいくつもありました。六義園や後楽園がその例です。しかし、庭園の「園」とは、他の地域と区別するために境界を設けて「囲う」という意味です。それですから、「庭園」は周りを垣根や塀で囲って境界を設けるのが普通です。ところが、南湖は垣根や塀で囲うことをしませんでした。大名庭園とはその思想が根本的に異なるのです。

――それが、先ほどおっしゃった呼び方につながるんですね。

高塩 はい。定信は境界を設けないことで「3つの垣根」を取り払いました。

 1つ目に取り払ったのが、身分の垣根です。当時の六義園や後楽園といった場所は、特権階級のみが入れる大名庭園でしたから、庶民はその中に入れなかったのです。しかしながら、定信は南湖という“遊楽の地”を造営して、士農工商すべての身分が立ち入って遊び楽しめる場所としました。つまり、定信は武士階級も一般庶民も分け隔てなく、共に楽しむことのできる場所をつくり出したのです。

 2つ目に取り払ったのは、自藩と他藩という所属の垣根です。南湖は白河藩の中にあります。白河は城下町であると同時に奥州街道の宿場でもありました。街道を旅する他藩の人々もまた南湖に遊んで疲れを癒やすことができたのです。

 3つ目に取り払ったのは、時間の垣根です。南湖には「月待山」「月見浦」「有明崎」という景勝地があります。この名にあるように、24時間いつでも自由に遊ぶことができたのです。

 こうして、定信は身分や所属、時間にとらわれず誰もが遊べる行楽地をつくりました。その理念を「士民共楽」と表現しています。武士階級と庶民階級とが共に楽しむという意味です。

 そして、ここで出てくるのが吉宗とのつながりです。実は、吉宗が行楽地として整備した飛鳥山(現在の飛鳥山公園、東京都北区)は、南湖と同じように「3つの垣根」を取り払っていたのです。

――ということは、飛鳥山の理念に共感した定信が、それを参考に南湖をつくったと。

高塩 そうですね。吉宗は武士階級だけでなく、農工商の人々も、また全国各地から江戸にやってきた人々も、ともに楽しめる「衆楽」の地として飛鳥山をつくりました。飛鳥山は桜の名所として整備され、庶民と武士が同じ場所で花見をしていたのです。

 ただ、服装や髷の形などを見れば、どうしても身分が分かってしまいますよね。そこで、桜や紅葉の季節などには仮面を被り、身分を気にせず、どんちゃん騒ぎをして日頃の憂さを晴らすこともあったようです。その様子は、当時の錦絵などにも描かれています。

 定信はこうした吉宗の思想に感銘を受け、その手法を取り入れて南湖をつくったのでした。ですから、定信は「飛鳥山の花を見て」と題する次のような和歌を詠んでいます。

「おほかたの花をのどかに見る人も 御代のめぐみは知るや知らずや」
 

上座と下座がない、不思議な茶室「共楽亭」

――垣根を取るという概念から、2人のつながりが分かりました。

高塩 そのほかにも、定信が飛鳥山から取り入れたものがあります。「名所づくり」の手法です。

 飛鳥山では、最も高い場所に「飛鳥山碑」という石碑を建てて、その由来を記して後世に伝えました。また、景色の良い12カ所に典雅な名称を与え、これを漢詩と和歌に詠み込んで見どころをこしらえています。

 南湖でも、その手法を採用しています。南湖の由来を記した「南湖開鑿碑(かいさくひ)」を建て、「南湖十七景」という17の名所をつくりました。この十七景は大名・公家・学者によって和歌と漢詩に詠まれています。吉宗の用いた名所づくりの手法を、定信も継承しているのが分かります。

 さらに、南湖の中でも、特に定信の姿勢や思想が色濃く出ている場所があります。それが「共楽亭」という茶室です。

南湖公園内にある「共楽亭」。


――どういうことでしょうか。

高塩 定信は、南湖の中でもきわめて眺望の良い場所を選び、共楽亭という茶室をつくりました。通常、茶室には上座と下座があり、身分によって座る場所が決まります。しかし、共楽亭は上座下座が分からない造りになっています。上座下座があれば、結局は身分を気にしてしまいますから。

 共楽亭という名前からも分かる通り、この茶室にこそ、定信の思いが強く反映されています。定信は共楽亭を十七景のうちの第二景に位置づけて、自らが和歌に詠んでいます(第一景は、南湖そのものが「関の湖」という和名で和歌に詠まれている)。以下に紹介しましょう。

「山水の高きひきき(低き)も隔てなく 共に楽しき円居(まどい)すらしも」
 

 この和歌にこそ、定信の「士民共楽」の思いが表現されているといえます。

――定信自身が詠んでいることからも、思いの強さが分かりますね。

高塩 さらにもうひとつ、南湖開鑿碑の碑文から分かる大切な思想があります。それは「太平無事」という思想です。これは「士民共楽」と並んで重要な概念です。

 碑文は、定信の家臣で、藩校立教館の教授(現在の学長)である広瀬蒙斎(ひろせ・もうさい)の選んだものです。その中に次の一節があります。

「田に漕(そそ)ぎ民を肥し、衆とともに舟を泛(うか)べ 以て太平無事を娯(たのし)むべきなり」
 

 つまり、平和で穏やかな時代であればこそ、落ち着いて心行くまで楽しむことができるという意味です。紛争や飢饉、そして流行病などがなく、世の中が「太平無事」であればこそ、「士民共楽」を望むことができる。定信は、この2つを大切にし、その思いを南湖に表現したのでしょう。その発端が、吉宗の飛鳥山にあったのです。

庶民に寄り添う。吉宗の姿勢が表れた「医学書」

――それにしても、定信や吉宗は、なぜ身分の制約がない行楽地をつくったのでしょうか。身分制をなくしたいという目的があったのでしょうか。

徳川吉宗(とくがわ・よしむね):1684〜1751年。江戸幕府の第8代将軍。和歌山藩徳川家の第2代藩主光貞の四男。1705〜1716年まで和歌山藩の藩主を務めた後、1716〜1745年まで江戸幕府の将軍となる。享保の改革を推し進め、財政を復興。また、新田開発の推進や目安箱の設置といった政策も行った。


高塩 決して、身分制のない平等な社会を目指していたわけではないと思います。身分制が現に存在するという前提でさまざまな政策を遂行したのではないでしょうか。ですが、武士階級だけでなく、すべての身分が楽しめるように、幸せを感じられるようにという考えがあったのだと推測します。

 それを吉宗が大いに試み、そして実践し、定信が時代を経て踏襲し、発展させたといえるでしょう。

――特に飛鳥山については、最初につくった分だけ困難もあったと思います。吉宗をそこまで突き動かしたものは、何だったのでしょうか。

高塩 一言で述べるのは難しいのですが、吉宗の考えを探る上でヒントになる書物があります。それが「普救類方(ふきゅうるいほう)」という医学書です。あまねく救うために処方(治療法)を分類した、という趣旨の書名です。

 これは、1729(享保14)年に出版されたもので、吉宗が幕府の医師に命じて編纂させた医学書です。全12冊からなります。前編では「口舌の部」「頭の部」など、身体の部位ごとに症状を列記し、その処置方法や有効な薬草などをある限り記しています。

 後編では、症状ごとに分類して、同じく処置法を載せています。第十二冊では、薬効のある植物を絵で示し、文章で解説を加えています。まさに現代版の「家庭の医学」といえるのではないでしょうか。私は、江戸時代に実際に使用していた「普救類方」を持っていますが、これが印刷されたのは1800年の少し前です。ですから最初の出版からは70年近くの年月が経っています。「普及類方」は人々の間で長期間に渡り使われていたのです。つまり、ロングセラーの書なのですね。

 また、本に書き込まれた情報から、持ち主は「奥州弘前藩」の人物であったことが判明します。現在の青森県ですから、この本が全国に行き渡ったことを想像させます。

――さまざまな病気の症状を分類して書物にまとめるのは、相当な苦労だったはずですよね。

高塩氏所有の「普救類方」。


高塩 そこに吉宗の姿勢が表れていると思うのです。当時、こういったものを一から分類して体系化するのがどれだけ大変な作業だったか。仮に、吉宗がこの書物をつくらなくても、為政者として批判されることはなかったはずです。

 それでも、吉宗は事業として「普救類方」をつくりました。そして、庶民が買えるように安価な値段で販売させました。実際、私の持っている本は手垢で汚れており、持ち主が頻繁に使っていたことが分かります。

 これを見るだけでも、吉宗がいかに人々の暮らしに寄り添い、親身に考えていたかが分かります。飛鳥山を造営した動機も、そういった吉宗の姿勢が根底にあるのではないでしょうか。

――そして、その姿勢や思想を継承したのが定信だったと。

高塩 はい。吉宗にしても定信にしても、身分制社会という制約の中で人々の幸せを追求したといえるでしょう。2人が直接にやりとりしたことはありませんが、定信は、確実に吉宗の理念を受け継いでいたのではないでしょうか。公事方御定書と人足寄場の関係からも、それは分かります。

――この連載を通して、江戸時代に生まれた公事方御定書という法律と、人足寄場という施設が、時代の中で受け継がれながら連続的に発展したものだと分かりました。直接のつながりはないのですが、その深層では、過去の一つひとつがきっかけとなって、連綿と進歩していったわけですね。

高塩 それは現代法を見る上でも同じです。明治時代以降に西洋法が入り、現代法の基盤となりました。それは確かですが、だからといって“それ以前”の日本法の歴史が明治時代において断絶した訳ではありません。西洋法導入の“後”だけを見るのでは本質は捉えられません。たとえば公事方御定書は、現代法と直結はしないとはいえ、やはり日本法の発達の一翼を担っているのは確かなことです。

 公事方御定書と人足寄場にしても、そして飛鳥山と南湖にしても、一見しただけではその連続性を見いだすことはできませんが、実は大いに連続性を持っているのです。その連続性を掘り起こすことで、歴史の真相が見えてくるのではないでしょうか。

――今や私たちにとって、犯罪者が更生を目的に刑罰を受けるのは“当たり前”ですが、歴史をたどることで、その成り立ちや意味、本来あるべき姿を考えられるはずです。ただし、表面的な歴史を見て「西洋から入ったもの」とだけ考えてしまえば、それ以前にあった“兆し”や水面下の“流れ”が見えないかもしれません。そういった「歴史の見方」という意味でも、参考になるお話だったと思います。

筆者:有井 太郎