2017年11月5日、米国の水爆実験で被ばくしたマグロ漁船「第五福竜丸」の建造70年記念特別企画で、あいさつする女優の吉永小百合さん(写真=時事通信フォト)

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吉永小百合は日本を代表する大女優ではあるが、名女優だといわれることはない。元「週刊現代」編集長の元木昌彦氏は、そう喝破する。ではサユリストと呼ばれるファンは、なぜ彼女を追いかけ続けるのか。「由緒正しいサユリスト」を自任する元木氏が解説する――。

■池上彰さんとの対談で語ったこと

吉永小百合は悲劇の女優である。

彼女の120本目の出演作品になる『北の桜守』(滝田洋二郎監督)を見ながら、何度も流れる涙をぬぐった。

映画に感動したのではない。凡庸な映画である。樺太で終戦を迎えた小百合たち一家が、ソ連軍の侵攻に追われて命からがら北海道・網走へとたどり着き、次男と2人で戦後を生き抜いていく物語である。

ソ連軍に怯(おび)える彼らの状況は劇中劇で暗示される。残念ながら、あの時代の樺太からの引揚者たちが味わった筆舌に尽くしがたい苦難と、そこで起きた悲惨な出来事を描くことには成功していない。

小百合は池上彰との対談(『PRESIDENT』3月19日号)で、「大変な悲劇だったので、実写で撮るのはちょっとつら過ぎるのではないか」、舞台という形で抽象的に描いたらどうかという案が出て、そうなったといっているが、あの時代を知る者がごくわずかになった現在、どのように描けば知らない者たちの心を揺り動かすかについて、もっと工夫があってほしかった。

■毎日1キロの水泳と100回の腹筋をこなす理由

冒頭、小百合たちが扮する江連家の庭にある一本の桜の木に花が咲き、夫の阿部寛と妻の小百合、2人の子どもがそれを見て喜ぶシーンがある。

だが、今のカメラは残酷なまでに微細なところまでを映し出す。化粧でごまかしても、弟とその孫たちとおバアちゃんにしか見えないのだが、むしろ実年齢に近い年になってからのほうが若く見える。

毎日、1キロを泳ぎ、高倉健に教えられた腹筋100回に加えて、最近ではジムで筋トレまでこなすというトレーニングのおかげで、40代の石田ゆり子真っ青の姿勢の良さや、肌の艶である。

小百合の息子を演じる堺雅人についていえば、どんな役をやっても、歩き方やしゃべり方が、彼の当たり役である半沢直樹になってしまうのがおかしい。

肩の力を抜いた小百合と、しゃっちょこばった堺。出番は少ないが佐藤浩市の存在感がダレそうになる後半を引き締めている。

■彼女ほど人に恵まれなかった女優は珍しい

私は映画を見ながら、ストーリーとは別に、吉永小百合という女優の幸薄かった73年の人生を振り返って、涙が止まらなかった。

彼女ほど、作品に恵まれず、監督に恵まれず、父母にも、恋人にも、亭主にも恵まれなかった女優は珍しいと思う。

120本もの作品に出ていながら、いまだに彼女の代表作は『キューポラのある街』(昭和37年公開・浦山桐郎監督、以下『キューポラ』)しかなく、もう一本挙げるとすれば『夢千代日記』(昭和56年)だろうが、これはNHKのテレビドラマである(映画化したが失敗だと思う)。

断っておくが私は由緒正しいサユリストである。生まれは彼女と同じ昭和20年(1945年)。彼女は3月の早生まれで、私は11月。敗戦の年だから生まれた子どもも少なく、同年の有名人は彼女の他にはタモリぐらいしかいない。

私が初めて小百合の声を聞いたのは、昭和32年に始まった『赤胴鈴之助』だった。ラジオに出たのは家が貧しかったからである。

父親は東大法学部卒業後、九州耐火煉瓦、外務省嘱託を経て、出版社「シネ・ロマンス社」を経営したが失敗。その後病を得て、働けなくなる。

彼女が『私が愛した映画たち』(集英社新書。以下『私が愛した』)で語っているように、「借金取りや差し押さえの税務署員が家の中に入ってきて」、家の中は火の車で、家計を助けるために新聞配達をすると母親に迫ったこともあったという。

ピアノの教師をしていた母親の収入だけが頼りだった。映画に出るようになり、食卓のおかずが増えたのがうれしかったそうだ。

■「両親のことはまだ自分の中で総括できていない」

やがて新興映画会社・日活に入社し、石原裕次郎や赤木圭一郎の相手役に抜擢され、浜田光夫と組んで『青い山脈』『泥だらけの純情』などの純愛路線で青春スターの地位を確立していく。

子どもながら一家の大黒柱になった彼女だったが、映画スターとして花開いていく娘を見ていて、父親が、自分がマネージャーをやるといいだす。

父親は、松竹など他社への映画出演を認めてほしいと申し入れて(当時は五社協定があって他社には出られなかった)、会社側と衝突したりした。やがて娘との確執も始まり、彼女の恋愛や結婚にまで口を出すようになっていった。

小百合は『私が愛した』の中で、「両親のことはまだ自分の中で総括できていない」と語り、母親についても、「私は、母親と非常に特殊な親子関係だったと感じていたので、自分が子どもを持ったときにどういう母親になるかが、ちょっと怖かった」といっている。

彼女は男運のない女性である。『映画女優 吉永小百合』(大下英治著、朝日新聞出版)によれば、日本のジェームズ・ディーンといわれた赤木圭一郎は、小百合のことを強く愛していたという。

だが、撮影所で乗っていたゴーカートが壁にぶつかり、21歳の若さで死んでしまう。

純愛路線で共演してきた浜田光夫は、バーの客たちのけんかの巻き添えで右目を失明して、相手役ができなくなってしまう。あのまま2人のコンビが続いていれば、結婚しても不思議ではなかっただろう。

浜田の代役として『愛と死の記録』で共演した渡哲也とは結婚直前までいったことはつとに有名だ。両親に打ち明けたが大反対され、泣く泣く別れることになる。彼女が20代前半の頃であった。

■過労とストレスで声が出なくなったときに結婚

年間16本も主演映画に出て、睡眠時間3〜4時間でも、大学に入るための勉強を欠かさなかった頑張り屋の彼女だったが、私生活と超多忙な生活がたたって20歳を過ぎてから、ストレスで声が出なくなってしまう。

ここで、私が観た多くの彼女の映画の中で、忘れられない一本の作品について書いてみたい。

軟骨肉腫のために若い命を失ってしまう大島みち子と大学生・河野實とのはかなく悲しい恋を描いた『愛と死を見つめて』である。小百合19歳。東京オリンピック開催の日に封切られ、大ヒットとなった。

私は東京・中野の映画館で5回見た。最後は、当時出たばかりの小型の録音機を映画館に持ち込み、隠し録りをして、100回以上は聞いたと思う。

というのも、私は高校3年生で、これから受験勉強という二学期の始めに担任から結核だと告げられ(小学校入学時にも一度かかっている)、受験どころか、家から出られない境遇になってしまったからだ。

家をこっそり抜け出しては映画館の暗闇の中で、みち子の身の上と自分を重ね合わせ、声をかみ殺して泣いた。

その前に、大空眞弓・山本学でやったテレビドラマのほうが出来はよかったのかもしれないが、私の青春時代のほろ苦い思いが染みついた映画である。

過労とストレスで声が出なくなった小百合だったが、女優としても、女の子から大人の女性へと「脱皮」することができず、映画会社から声がかからなくなる。

そんな不遇の彼女を慰めてくれたのが、15歳年上でバツイチのテレビ・ディレクターだった。

■「真面目で初心だが、凡庸で幼稚」な女優

なぜ、そんなオヤジと結婚したのか。それを謎解きしてくれるような本がある。子役からマルチタレントになった中山千夏が書いた『クワルテット』(話の特集)である。

小百合の映画を何作か撮っている中平康監督の娘で、小百合とも親交のあった中平まみが、小百合に「これはあなたのことね」と聞いたら、彼女がむきになって否定したという。

内容は、美人の清純派女優が、20代後半になって以前ほど売れなくなってきた。そこで、彼女の熱烈なファンである作家と写真家、プロデューサーの3人が、彼女を年相応の女に仕立て上げようと、個人レッスンを始める。

「真面目で初心だが、凡庸で幼稚」な女優は3人のあの手この手のかいなく、変身に成功しないのだが、プロデューサーと恋仲になってしまう。

持て余した男が、彼女を映画の下見にヨーロッパへ行かせる。それに同行して、親切に彼女の愚痴を聞いてくれ、励ましてくれたテレビ・ディレクターと結婚してしまうのだ。

それを知った件(くだん)のプロデューサーは、こういう。

「いくぶんシャクではありますがね。仕方ないでしょう。バカな女には結婚がよく似合う」

モデルが小百合だと思って読むとすこぶる面白い。

■なぜ名作といわれる出演作が少ないのか

われわれサユリストたちは、結婚の報を聞いて紅涙(?)を絞った。わら人形を作って「早く離婚しろ」と五寸釘を打ち付けたやつもいた。

だがそのかいなく、今も亭主は健在だと聞く。この結婚が、唯一、小百合にプラスだったとすれば、年が離れていて、子どももいないために所帯臭くならなかったことだろう。

女優としての悲劇は、先ほども触れたように、彼女は多くの作品に出ているが、名作といわれるものが極めて少ない。

『男はつらいよ 柴又慕情』(山田洋二監督)は結婚直前のものだ(もう一本は結婚後だが、あまり感心しない)。小百合はいいが、主役は渥美清である。『動乱』(森谷司郎監督)も好きな作品だが、主演は高倉健である。

女優は子役、少女から大人の女へと自然に変わっていくものだが、彼女は父親の様な男と結婚したため、その機会を逃がしてしまったのだ。

五木寛之原作の『青春の門 筑豊編』では、荒くれの炭坑夫たちの中で子供を育てるたくましい女を演じた。自慰シーンはあるが裸になるのは拒否した。

同じような苦労をした女優に日本映画史を代表する田中絹代がいる。14歳で松竹に入社して清純派スターとして松竹の看板女優となった。小津安二郎、五所平之助、溝口健二、成瀬巳喜男、清水宏、木下惠介ら大物監督に重用され約260本の作品に出演したが、年を重ね、それまでのイメージを拭い去ることに苦労した。

主演作を新聞の映画評で「老醜」とまで酷評され、脇役を演じることが多くなったが、演技派へと脱皮した。木下恵介監督『楢山節考』(1958年)では自分の歯を4本抜いて鬼気迫る老婆を演じ、キネマ旬報賞女優賞を受賞した。

小百合は『私が愛した』の中で、田中の女優としてのすごさを知ってはいるが、「私は、田中さんみたいに自分の歯を抜いて年を取った役をやるようなことはできない」と語っている。

■「結局、ずっと、基本はアマチュアなんですね」

だが、彼女も清純派スターから女優への踊り場でもがき苦しんだ。

2人の夫を殺し、戦後、唯1人の女死刑囚として処刑された女を演じた『天国の駅 HEAVEN STATION』(1984年)は、彼女にしては珍しいSEXシーンのある映画で、「日本アカデミー賞最優秀主演女優賞」を受賞しているが、残念ながら、ここでも女の業の激しさを十二分に演じ切れてはいない。

『愛と死をみつめて』で共演した笠智衆が好きだといっている。「笠さんのように、せりふがなくても、たとえ背中だけでもいろんなことが表現できるような俳優に究極的にはなりたい、と思っているんです」

笠が小津安二郎の代表作『東京物語』で15歳年上の東山千栄子と見事な夫婦役を演じたのは49歳の時である。

だが、彼女は日本を代表する大女優ではあるが、名女優だといわれることはない。岸恵子のように、多くの男のうわさを振りまきながら華やかに生きる女優にもなれない。田中絹代の半生を描いた『映画女優』を小百合が演じた年に、原節子は引退している。

『キューポラ』のように貧しくてもたくましく生きる女性や、今回の映画ように、耐え忍ぶ日本の女の理想像を演じることはできても、これがあの小百合かと観る者を仰天させるような役はやって来なかったし、これからもやらないであろう。

彼女は『八月の鯨』をやってみたいといっている。アメリカの小さな島で暮らす老姉妹の夏の日々を淡々と描いた傑作だが、撮影当時、リリアン・ギッシュは93歳、ベティ・デイヴィスは79歳だった。

だが、小百合に、自分の老いと醜さを画面に晒(さら)すことができるのだろうか。

彼女自らがいっているように、「結局、ずっと、基本はアマチュアなんですね。仕事をしているうちに、映画がものすごく好きになって、いい意味では一つ一つの作品で新鮮に仕事をやれているんですが、悪い意味で言えば、なんかアマチュアだなあと自分でも思うところが結構あるんです」

偉大なるアマチュアが悪いとはいわないが、彼女の渾身の鬼気迫る演技を見てみたいと思うのは、無いものねだりなのだろうか。

■いまだアイドルから脱せない「悲劇の大女優」

『北の桜守』を見ていて、こう考えた。

彼女はどこかの時点で、自分は、田中絹代にも原節子にも岸恵子にもなれなかったが、死ぬまで十代の若さと美しさを保ち続け、清純派スターとして一生を終えた女優として名を遺(のこ)そう、そう心に決めたのではないだろうか。

そうでなければ、あのようにハードなトレーニングを日々続けられないはずだと思う。

いまだアイドルから脱することができない「悲劇の大女優」の姿は、戦後の日本がたどってきた「大人になれない国」と二重写しになり、なおさら哀れを誘うのである。

だが、それを逆から見れば、私の様な老いさらばえ後期高齢者間近のオールド・サユリストにとって、これ以上ない贈り物なのである。

映画館に入ってスクリーンの彼女を見つめれば、いつでも青春時代の自分に戻ることができる。

80代、90代になっても青春スターでいられる稀有な女優なのだ。願わくば、モンペや割烹着ではなく、セーラー服で画面の中を走り回ってほしいものだ。『キューポラ』の石黒ジュンのように。

(ジャーナリスト 元木 昌彦 写真=時事通信フォト)