近年の研究により、通説が覆られつつある織田信長

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織田信長は、1582年6月、家臣・明智光秀に急襲されて命を落とした――学校の教科書ではこう説明される。しかし、光秀の末裔が記した「本能寺の変」の謎を解く本が最近ベストセラーとなり、また、近年の研究から、信長は天下統一など目指していなかったとの説も唱えられるなど、信長をめぐる「謎」は今なお数多い。特に不明な点が多い信長の「最期」にまつわる4つの謎を、紐解いていく――。

※本稿は、『誰も書かなかった 日本史「その後」の謎大全』(KADOKAWA)を再編集したものです。

■信長の遺体はどこへ!? 本能寺の変の「その後」

1582年6月2日早朝。まだ夜が十分明けきっていない頃のこと、明智光秀率いる1万3000余の兵が本能寺を取り囲む。中には光秀が仕えた、かの織田信長が眠っていた。

謀反を起こされた信長は、光秀軍の急襲で周囲の者が次々倒れる中で行く末を悟ったのか、ひじにやり傷を負うと建物奥深くに移り、納戸入口を固く閉ざして割腹し、果てたのだった。

これは『信長公記』において描かれた信長の最期だが、この話には続きがある。実は、このあと信長の亡骸は光秀軍の必死の捜索にもかかわらず、発見されなかったのである。

では、信長の遺体はいったいどこへ行ってしまったのか? その手がかりの一つといえるのが、静岡県富士宮市に建つ西山本門寺である。地元に伝わる口伝によれば、境内の本堂奥の大柊の木の根本に信長の首を埋めたとされている。

本能寺の変発生の前日、寺では囲碁の対局が行われたが、碁を打った片方の人物は本因坊算砂といい、彼は囲碁棋士であると同時に日蓮宗の僧侶でもあった。その算砂が原志摩守宗安に指示して寺から信長の首級を持ち出し、西山本門寺へと運び出させたという。西山本門寺は日蓮の高弟・日興の法脈を継ぐ寺なので、算砂との結びつきも不自然なものではない。

ただし、信長の遺体の謎については異説もある。京都市上京区の阿弥陀寺には、信長をはじめ、息子・信忠、家臣・森蘭丸ら本能寺の変で死した面々の墓があるが、同寺の僧侶・清玉上人が本能寺から信長の遺骨を持ち出し、ここへ葬ったというのだ。

本能寺裏門から中へ侵入した清玉上人らは、織田方の武士が信長の遺体を火葬しようとしていたことから、それを見届け、本能寺の僧侶のふりをして遺骨を外へ運び出したという。

信長の菩提寺は京都市北区の総見院(信長の法名「総見院殿」から命名)だが、ここに信長の遺体はない。あるのは、遺体の代わりに焼いた木像の灰を埋葬した墓と供養塔である。

■信長の死後、安土城はどうなったのか?

信長により、1576年から3年の歳月をかけて築かれた安土城(滋賀県近江八幡市)。本格的な天守の建造はこの城が最初とされ、内外を豪華絢爛な装飾で彩られたことから、天下の名城の名を頂いた城であった。

安土城がこれほど有名なのは、そのはかなさにもよる。というのも、安土城は本能寺の変以後、謎の出火により焼失し、現在は石垣しか遺されていないのだ。それが、後世の人々の想像をかき立てているのかもしれない。

だが、安土城は焼失後ただちに廃城となったわけではなく、その後も織田家の居城としての役目を果たしていた。実は、火災によって焼けたのは主に本丸で、二の丸は焼けずに残った。そのため、二の丸を中心に城としての機能は残っていたのだ。一般的に「安土城は焼失して廃城となった」と捉えられているが、そうではなかったのである。

だが1584年、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が、尾張国の小牧・長久手を中心に戦闘を繰り広げると織田家の情勢はひっぱく。安土城は居城としての機能を失っていく。

そして翌年の閏8月、秀吉が関白に就任して天下人となると、秀吉の甥・秀次が八幡山に城を築き、安土城の城下町は移されることとなった。またこのとき、城内の建築物の一部も移築されたという。これにより、安土城の城としての機能は息の根を止められたのである。

平成に入り、安土城は20年計画で発掘作業や整備事業が続けられてきたが、いまだその全貌は明らかにされていない。

■千利休変身説も!? 明智光秀「その後」の謎

一般的に伝わる明智光秀の最期は、山崎の戦い(1582年)で秀吉軍に大敗を喫したのち、居城の坂本城へ向かう途中、小栗栖(現・京都市伏見区)の竹やぶで土民に襲われ致命傷を負い、自刃したとするものだが、この通説のほか、彼の後日談にはさまざまな謎が存在する。

有名なところでは、光秀が山崎の戦いのあとも生き延び、天海僧正ないし千利休に姿を変えたとする説。天海は江戸初期の天台宗の僧侶で、徳川家康の帰依を受けた人物だが、その前半生は未詳で、推測される生年が光秀と近いことからそのように語られるようになった。

また、光秀の位牌や木像などが納められているのは慈眼寺(京都市右京区)だが、天海の諡(死者に贈る名)こそ「慈眼大師」なのだ。前半生が詳らかでないにもかかわらず家康が帰依したことも、天海の正体が光秀だからこそつじつまが合うとされる。

一方、千利休説はどうか。利休もまた、その生涯に謎の部分が多い人物で、光秀に茶の心得があったことや、光秀の没年(1582年)と利休が歴史上に登場する年(1585年)が近いことなどが、「光秀=利休」であることの証であるとされている。

さらに、光秀の最期を知る上で重要なのが、岐阜県山県市中洞にある光秀の墓。同地の白山神社に建つ「桔梗塚」がそれだ。中洞の伝承によれば、小栗栖で死んだのは光秀の影武者・荒木山城守行信で、光秀は荒深又五郎(小五郎とも)と名を変え、落ち延びたという。

■信長に献上された黒人「弥助」の謎

史料に記されている範囲において有名な異人の一人に「弥助」という人物がいる。彼こそ、織田信長がはじめて対面した黒人で、時は1581年2月のことであった。

この人物に関する逸話で有名なのが、信長の驚きぶりだ。肌の色が黒いということをどうしても納得できなかった信長は、上半身の衣服を脱がせて入念に洗うよう指示した。だが、洗ったことで肌の色が変わるわけはなく、いっそう肌が黒く見えたことから、そこで信長はようやく黒人の存在を信じることができたという。そして、その黒人は信長により「弥助」と名付けられ、戦にも同行している。

ではその後、黒人の弥助はどうなったのだろうか。実は、信長が討たれた本能寺の変のとき、弥助も上洛していた。つまり、信長のすぐ側にいたのである。また、急襲されたときの弥助の行動は不明ながらも、信長自刃後、信長の長男・信忠がたてこもる二条御所に駆けつけ、明智の軍隊と戦ったようだ。

イエズス会宣教師のある報告書によれば、「(明智の)家臣はこの黒奴(くろやっこ=弥助)をいかに処分すべきか明智に尋ねたところ、黒奴は動物で何も知らず、また日本人でない故これを殺さず、インドのパードレの聖堂に置けといった」とあることから、弥助は明智軍との戦闘において殺されることはなく、教会に預けられたことが読み取れる。この「黒奴は動物」という記述は、まさに人種差別もいいところだが、当時の日本人の理解ではその程度しか持ち得なかったのだろう。

その後、弥助がどうなったのかは不明だが、日本にとどまらず、宣教師などに連れられ船に乗って国外へ出た可能性も捨て切れないようだ。

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雑学総研(ざつがくそうけん)
珍談奇談の類から、学術的に検証された知識まで、種々雑多な話題をわかりやすい形で世に発表する集団。江戸時代に編まれた『耳袋』のごとく、はたまた松浦静山の『甲子夜話』のごとく、あらゆるジャンルを網羅すべく日々情報収集に取り組む傍ら、最近ではテレビ番組とのコラボレーションも行なった。

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(雑学総研)