やってみて分かる翻訳の本当のつらさ。(写真はイメージ)


 中国に渡ってからの15年間、留学から起業に至るまでの道のりを振り返っている。

【前回の記事】「閑古鳥鳴く中国のクレープ屋、その致命的敗因とは?」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/51614)

 何も事業を決めないままに中国で会社を立ち上げ、シルバーアクセサリーの取引やクレープ作りに目を付けたものの、結局はうまく行かなかった。しかし、そんな絶望的な状況の中、ふと舞い込んできたある仕事の依頼が、僕たちの会社を軌道に乗せることになった。

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ようやく開店休業脱出、会社が本当にスタート

 貿易事業に失敗し、クレープ事業も頓挫し、会社を立ち上げたもののサービスも商品も決まらず、なんとなく時間が過ぎ、家内が航空会社で働いていた頃に貯めておいた貯金も底をつき始めた。

 気ばかり焦ってまったく解決策が思い浮かなくなり、いよいよ「日本に戻って職探しか・・・」とひとり諦めムードだった僕は、家内の「絶対もうかるアイデアを思いつくはず!」という楽観的かつ強気な意見に、「そうだね!」と答えていたものの、こっそり履歴書を書いてみたりしていた。

 ちょうどその頃、日本語学校で先生をしていた頃の元同僚の先生だった人(例の僕をだまくらかした社長ではない)から、「中国語を日本語に翻訳する仕事をお願いできないか」という連絡が来た。

 彼女は、日本語学校を退職した後、別の日系企業でマーケティングの仕事をしていた。毎日大量のプレゼン資料や調査資料を作成しており、それを必要に応じて中国語や日本語に翻訳する必要があった。

 しかし、当時はまだ日本企業も中国に進出し始めたばかりで、社内は常に人手不足。まして、マーケティングや市場調査の文章を中国語や日本語に翻訳できる人材となると、社内だけでなく社外でもそうそう見つけることができなかったのだ。

 そのとき彼女の頭に浮かんだのが、風の噂で会社を立ち上げたと聞いたものの、まったく浮上の気配がなく、奥さんと娘を連れてお弁当持参で近所の公園でピクニック三昧の僕だったのだ。

 とはいえ、僕も家内も、マーケティングや市場調査の資料の翻訳の経験は全くない。元同僚の女性にそのことを正直に話すと、「そこは心配ないよ。どんな言葉を使うか、どういうトーンの文章にするかは、全部こちらから指示するから。とにかく、大量の資料を毎日スピーディーに翻訳してくれて、意味がある程度理解できればOKだから」ということらしい。

 時間と暇はある。買ったものの活躍の場がなく埃をかぶっているパソコンも、出番を待っている。商売のアイデアを待っている家内も、そして毎日のミルクを待っている娘もいる。これはもう「できる、できない」ではなく、やるしかない。

「やります!」

と僕は元気よく答えた。こうして立ち上げた会社は、初めてお客様からお金をいただいて、サービスを提供することになった。起業から8カ月、辛くも無職を脱した僕だったが、本当に大変だったのはここからだった。

想像を超えて大量にやってくる資料の山

 契約や口座登録なども早々に済ませ、僕らの翻訳事業はスタートした。

 当時、元同僚の会社は、毎日、会議やプレゼンのために大量の資料が必要だった。1回の会議やプレゼンで使うスライドの枚数が、平均で50枚にも及ぶ。しかも、スライドの中は文字だらけ。

 そして、資料はこれだけとは限らない。その他にも、必要なさまざまな資料を翻訳しなければならない。これらを全て合わせると、1日に翻訳しなければならないスライドは、100枚以上になった。これを、2日ほどの期限で翻訳、校正、最終チェックをして提出するのである。これは、ちょっと僕の想像を超えていた。

 事前に「けっこう量が多いけど大丈夫?」とは聞かれてはいたが、そこで「量が多いなら嫌だ」と言えるわけもなく、笑顔で「大丈夫です!」と答えた手前、今さら断るのは会社の信用に関わる。

 こうして、僕と家内の戦いは始まった。来る日も来る日も翻訳。ご飯とトイレとシャワーと睡眠以外の時間は、全て翻訳作業。今まで眠っていたパソコンも叩き起こされたようにフル稼働で、この翻訳を始めて1年経った頃には、キーボードの主要なアルファベットが全てかすれて消えていた。

 今までピクニックの日々だった娘との時間もほとんど取れなくなり、夫婦フル稼働で仕方なく、家内のお母さんに娘の面倒をみてもらった。僕は今でも、家内のお母さんには感謝で頭が上がらない。

 会社として、初めて依頼を受けて仕事をしているという無常の喜びは感じながらも、このとてつもなく過酷な作業に、人様からお金をいただくことの大変さを身を持って知った。

 何より一番辛いのは、寝られないこと。もともと睡眠時間が長い僕にとっては、これが何よりもこたえた。次々に資料が飛んでくる。納期は迫っている。でも翻訳できるのは僕一人。家内に中国語のニュアンスの説明を受けながら、ひたすら翻訳。3日で2時間の睡眠。睡眠不足になると顔色は白から青へ、そして最後には緑色っぽくなることを、このとき発見した。

 労働環境はブラックそのもの。これを今、社員にやってもらおうとは絶対に思わない。自分が立ち上げた会社で、他に誰もおらず、かつ後がないからできたことだと今でも思う。

パソコンから焦げ臭い香り、データが吹っ飛ぶ

 こんな大変な日々も、すごいもので、慣れてくると普通に思えてしまう。何より、立ち上げた会社でようやく発注が来た仕事なので、絶対に失敗するわけにはいかない。その一心で毎日翻訳をこなす。

 そして、ものごとは慣れてきたときが一番危ない。悲鳴を上げたのは中国語辞典状態の家内でも、翻訳マシーン状態の僕でもなく、耐久テストのように酷使されたパソコンだった。

 時刻は午前3時20分。15年以上経った今でも、あのときに感じた吐き気を忘れたことはない。48枚あるスライドの43枚目を翻訳中、家内の中国語の説明を意識朦朧になりながら聞きつつ、翻訳文を入力しようとした瞬間。指が滑って何か別のキーを押したそのとき、スライド作成ソフトが強制終了してしまった。

 当時のスライド作成ソフトに、自動保存のような便利な機能はなかった(あったのかもしれないが、僕は使いこなせていなかった)。吐き気と嫌な汗で、恐る恐るファイルを立ち上げてみると、案の定ここまで翻訳した内容が全て消えていた。そして、漂う焦げ臭い香り。

 このとき思ったのは、故障したパソコンや仕事の納期のことではなく、今、目の前にいる人間中国語辞典の家内にめちゃくちゃ怒られるのが嫌だな、ということだった。

 だが、人間あまりにショックだと怒れないものらしい。2人で冷静に「仕方ない、もう一回!」ということで、翻訳を再スタートすることになった。

 予備で置いてあったポンコツ中国語パソコンに、なんとか日本語入力ソフトをインストールして、納期の5分前に送信を完了した。近所のおじいちゃんやおばあちゃんたちが早朝太極拳を始める、朝の6時55分だった。

 それ以来、僕はパソコンをとても大切に扱うようになった。機械だから壊れるときは壊れるし、逆に乱暴に扱っても長持ちすることもある。けれど、なんだか粗略に扱うと、あのときのようにまた仕返しされるのではないかと思えて、今でも心の中ではパソコン様と呼ぶようにしている。

 とはいえ、このパソコンを酷使した過酷な翻訳サービスは、次の新しいサービスの種を生み出すことになるのだから、苦労は無駄ではなかったのである。

 その話はまた次に。

(つづく)

◎これまでの連載はこちら。

筆者:宮田 将士