データハウスの社長、鵜野義嗣さんに話を聞く(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第29回。

とがったタイトルの本ばかり

データハウス社から出版されている本を見てみると『悪の手引書』『危ない1号』『覚醒剤大百科』『人の殺され方』『銃器使用マニュアル』『コンピュータ悪のマニュアル』……などなどドギツイタイトルが並んでいる。

これだけとがったタイトルの本を作っているということは「好きな人だけ買えばいい」という採算度外視のスタイルなのかな? と感じる人もいるかもしれない。


ヒット企画のアイデアはどのように作られたのだろうか?(筆者撮影)


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だが実際には、数十万部を売り切った本が何冊もある。小さい出版社としてはかなり頑張っている数字だ。

ヒット企画のアイデアはどのように作られたのだろうか? データハウスの社長、鵜野義嗣さんに幼少期からの話を聞いた。

鵜野社長は滋賀県の琵琶湖のそばに生まれた。家業は琵琶湖の鮎を佃煮にしている佃煮屋だった。そこで高校まで過ごした。

「子どもの頃はいかにも昭和30年代の田舎の子どもって感じでしたよ。琵琶湖にもぐってウナギ突いて焼いて食べたり、ヘビを捕まえて皮をむいて遊んだり、木に登って枝にぶら下がって枝を折り、クリの実をとって、そのまま谷に落ちたりもしてました」

昭和30年代の小学校低学年時代では、今でいう学級崩壊のような状態で、授業中勝手に抜け出していく子どももいた。ただみんな悪意はなく無邪気な感じだったという。そんな中、鵜野社長は勉強ができるほうだった。

「考えればできる科目は得意でしたね、算数は習わなくてもわかりました。絵や習字も上手でした。でも英語だけは絶対勉強しなかったですね。努力して勉強する気にはなれなかったですね。いまだにまったくできません」

大学受験ではその英語がネックになった。英語がゼロ点に近いので、他教科ができれば入れると考え、日本大学法学部に入学した。

「虐げられてる人を助けたい」という思いがあった

「将来は弁護士になろうと思ってました。虐げられてる人を助けたい。弱いものの味方になって、決して強いものに負けたくない。これらの心情は、実は今も基本精神として持ってるんですよ」

在学中、鵜野社長は弁護士資格を取ろうと思っていたのだが、当時の日本大学は、日大闘争の真っただ中だった。

いろいろあって大学卒業後は、知り合った東京大学の人たちなどの仲間で集まり“現代の世界を研究する研究所”を作った。そこでは生活のために学生向けの教材を請け負って製作していた。

「小学校1年から高校3年までの、教材を作ってました。僕もテキストを書いてましたね」

鵜野社長は35歳の時に、新たに出版社を作ろうと思い立ち、スタッフの1人とともに会社を辞めた。

そしてデータハウス社を作った。データハウスという名前は「思想ではなく、データを世に出そう」という社長の思いからつけられた。

「本を出すからには真っ向からやろうって思いました。だけどカネはありません。最初に出す本は絶対に話題にしなければならないから、ずいぶん悩みましたね」

そして社長が1冊目に選んだ題材は政治家・田中角栄だった。ロッキード事件の判決が出るのに合わせる形での出版になった。

作っている人が見える本

教材は作っていたが、商業出版においては素人だった。

「まずは10年分くらいの田中角栄が載った雑誌の記事をコピーして集めてきて、内容ごとに段ボールに仕分けしました。何箱にもなりましたね。その資料をテーマ毎に仕分けて見出しをつけ、学生などに執筆してもらい、自分が手直ししました。

レイアウトもやり方がわからないから、レイアウト用紙に直接のりで文字を貼っていく。マジックで直接説明を書いたり、写植がちょっと剥がれていても気にしなかったり、とにかく手作りで自由に本を作りました」

文字組みを間違えたページは、全部社長がページをハサミで切って、貼り直して仕上げた。それだけで4日間の徹夜仕事になった。


どうやったらいいかわからない状態からあがいて作った『田中角栄 最新データ集』(筆者撮影)

そうして『田中角栄 最新データ集』は完成した。この本は、それほど売れなかったが、以後データ集をシリーズ化してコンスタントに売れた。

社長はこの本が受けた理由は「作っている人が見える本」だったからではないか?と考える。

「こういう手作りな本はなかったから、読者が面白がってくれたんじゃないかな? プロが楽して作った本は、見た目がきれいだけど面白くないんですよ。読みたくならないですね。

素人がどうやったらいいかわからない状態からあがいて作った、かっこよくない本のほうが絶対面白いんですよ」

3冊目に作ったのは『悪の手引書』という本だった。殺人の方法、ちかんのやり方、などが解説されたマニュアル本だった。

「これも膨大な量の資料を集めて、手作りで作りました。犯罪白書の面白版ですね。今見ると小学生が作ったようなレイアウトです。三塚博自民党政調会長が国会で取り上げてくれてドッと売れました。累計20万部くらいは売れたんじゃないかな?」

その後、同じルーチンで『恋の教科書―女のコ攻略の手引書』など出したが、『悪の手引書』がいちばん売れた代表作になった。

この後、たくさん売れた本の類似本を出して、徐々に売れなくなっていく、というパターンを繰り返すことになる。

「続編が本編より新鮮なわけがないんです。どうしても1冊目が売れますよね。自信のあるネタを惜しみなく出すから。続けるうちに、どうしてもつまらなくなるし、売れなくなるんだけど、水脈が枯れるまで出してしまう。ビジネスとしては絶対ダメだってわかってるんですけどね(笑)」

芸能本でヒット作に恵まれるものの…

その後は芸能系の本を作りはじめた。

吉本興業のオフィシャルで出した『吉本興業商品カタログ』ではダウンタウンが期待のホープとして紹介されていた。


スキャンダルを含んだ内容で、飛ぶように売れた『洋子へ―長門裕之の愛の落書集』(筆者撮影)

そして、長門裕之のインタビューを基に作った『洋子へ―長門裕之の愛の落書集』が発売される。スキャンダルを含んだ内容で、この本が発売されると、全局のワイドショーが2週間連続で取り上げた。

「飛ぶように売れましたね。1カ月で40万部は売れたんじゃないかな。その後は芸能本を片っ端から出して、やっぱり最後は全然売れなくなりました」

そして次に出したのが『悪い医者』に始まる、業界の裏側を暴露するシリーズだった。

医者にインタビューをして、悪い医者の手口や見抜き方を解説した。

このシリーズも、悪い不動産屋、悪い先生、悪い葬儀屋などさまざまな派生の本が作られた。

また『ヤブ医者の見分け方!!』は、若手の医師グループが医者の実際を説明し、テレビでも取り上げられて5万部ほど売れた。

1993年、社長がテレビを見ていると『磯野家の謎―「サザエさん」に隠された69の驚き』(飛鳥新社)が紹介されていた。

これはいい企画だな、と思った社長はその場でライターに電話をした。

「ライターさんには超特急で2週間で書いてもらって、1カ月半で本を出しました」

タイトルはより直接的に『サザエさんの秘密』にした。もくろみどおりよく売れた。

2冊目は『ドラえもんの秘密』を出した。こちらは数を作りすぎたため、半分が返品されてしまった。

「データハウスとしての儲けはゼロでしたね。それでも売れてはいますから、どんどん出していきました」

『ドラゴンボールの秘密』『スラムダンクの秘密』『らんま1/2の秘密』『ゲゲゲの鬼太郎の秘密』『幽遊白書の秘密』などなど気づけば、100冊を超えていた。

そんな景気のよかった1995年。1人の編集者、ライターがデータハウスに企画の持ち込みにやってきた。青山正明さんである。

ドラッグやカルト・ムービーなどをテーマにした露悪的な作品が人気のカリスマ的編集者、ライターだった。

「秘密本で余裕のある時期だったので、だったらこっちに来たら(データハウスの社員になったら)と声をかけました」

そして青山さんは、データハウスの社員になった。

鬼畜系ブームを巻き起こして異例の大ヒット

そしてドラッグ、変態、フリークスなどをテーマにした『危ない1号』を作り、サブカル界としては異例の大ヒットになった。


データハウス内に存在した編集部「東京公司」が編集・製作した鬼畜系ムック『危ない1号』(筆者撮影)

『危ない1号』の執筆者の中には、町山智浩さん、平山夢明さん、吉田豪さん、などなど現在も活躍している人がたくさんいる。

「『危ない1号』は10万部くらい売れたんじゃないかな? 続刊もそれなりに売れました。ただ彼は1年に1冊しか本を作らないんだよね(笑)。めったに会社にも来ないし……。『企画頑張ります!!』ってキラキラした目で言ってくるんだけど3日も続かない。気力が尽きちゃうんでしょうね。

うちに来た段階で燃え尽きていたのかもしれないな、と思います」

青山さんはデータハウスの社員時代、薬物使用で逮捕されるなど問題も多かったが、社長から見ると

「かわいらしい、すがすがしい青年だった」

という。

『危ない1号』は1999年に発売された第4巻をもって終わった。そして2001年、青山さんは自宅で亡くなった。

「『危ない』系の本は今は絶対ダメですね。『危ない』のに興味を持つのは、経済的に余裕がある時なんですよ。どうやって食っていくか大変な時代に、『危ない』とかそんなことは言ってられない。こういう“すねた本”がうけるのって実は貴族文化なんですよ」

2000年代に入り、世の中は徐々にコンピュータ時代になっていった。そこで出した『コンピュータ悪のマニュアル』はオタク層に受けて10万部のヒットになった。

第2弾はCDをセットにして販売し、これも10万部売れた。

2008年くらいから、再び秘密本が売れはじめた。そしてコンピュータ系の本もよい成績を出していた。

そんな折、2011年東日本大震災が起きた。

一気にすべての本が売れなくなった。

「さっきの話の続きのようになるけど、やっぱり生活に余裕がないと本は買わないですよね。水やインスタントラーメンも買えないのに、誰が本を買うかって話です。生命を保つことで精いっぱいなんですね。

地震以降、世の中が無駄遣いはしないという流れになって、売れてた本も全部売れなくなりましたね」

震災後はかなり厳しかったが、その後も出版を続け立ち直っている。

現在では30年以上、毎年発行している、東京大学理科三類に合格した約40人の入学生にインタビューをして作った『東大理III 合格の秘訣』、大企業や大学でセキュリティの基本図書として使われている『ハッカーの学校』シリーズなどが好調だ。

思い入れはないほうがいい

最後に30年以上にわたりさまざまな本を作ってきた鵜野社長に「売れる本の作り方」を聞いた。

「本はなにより企画がいちばん大事ですね。でも

『僕はこれが作りたいんだ!!』

というような思い入れはないほうがいいです。好き好みのせいで発想が制約されてしまい、企画が狭くなりがちです。

『この企画がいちばんうまくいくんじゃないか?』

という考え方をしたほうがいいと思います。むしろ興味のないジャンルのほうが、内容にこだわりがなく、売れることだけにこだわるので、うまくいくことがありますね。

慣れによる思い込みや惰性はよくありません。つねに新鮮な気持ちで必死に向かうことが大事です」

思い入れがないほうがよい、とは目からウロコの意見だった。どうしても好きな物をこだわって作った本のほうがいい気がする人が多いだろう。

「あとタイトルですが、作者がタイトルを決めると思い入れが強くてダメな場合が多いですね。『内容に拘束されたタイトル』じゃなくて『手に取りたくなるタイトル』をつけないといけません。ちょっと身もふたもないくらいわかりやすいタイトルのほうが読者には受けると思いますよ。

これは絶対じゃないんだけど、タイトルも内容もネガティブなものより、ポジティブなもののほうが受けると思います。ネガティブなものにひたれるのは、豊かな時代のぜいたくです。大半の人が、未来に幸福が見えない時代ですから、みんな楽しそうな本のほうが読みたいでしょ? 『こうして損をした』ってタイトルの本より『こうすれば儲かる!!』のほうが読みたいですよね?

これからの時代は本当に出版に限らず、個人や小さな会社は生きて残るのが大変だと思います。ヒット本が出るチャンスはあると思いますけど、コンスタントに出版活動を続けるのは難しいでしょうね。

その中で自分に何ができるか? とにかくたくましく能天気に、したたかに生きるしかないな、と思ってます。

これからも、その時にやりたいこと、その時に自分ができることを思い切り楽しみながらやっていきます」

そう語る鵜野社長は本当に根っからポジティブな人だった。