インディアンウェルズでツアー初優勝の歓喜に浸った、その数時間後……。次の戦地マイアミに向け旅立つ直前に、まるでご褒美のような吉報が、彼女のもとへと飛び込んできた。

 マイアミ・オープンの初戦の相手が、セリーナ・ウィリアムズ(アメリカ)に決まった――。


試合後に握手する大坂なおみ(左)とセリーナ・ウィリアムズ(右)

 そのとき、彼女は飛び上がらんばかりに喜んで、周囲の人たちを驚かせたという。

 母親に電話をかけ、「マイアミで誰と戦うと思う? セリーナよ!」と興奮の面持ちで報告した。そんな彼女の姿に「衝撃を受けた」のは、ほかでもないコーチのサーシャ・バジンである。

 セリーナのヒッティングパートナーを8年務めたかつての”相棒”は、「セリーナと対戦すると知って、こんなに喜ぶ人を見たのは初めてだよ! 彼女だけでなく、母親までも興奮している。『どうなっているんだ、この人たちは!?』って」と苦笑する。

「普通の選手はうなだれるところ。僕だって、セリーナが相手と知って『大変なことになったな』と思ったのに……」

 そんな周囲の心労をよそに、大坂なおみは、ただただ興奮と感激の最中にいた。

「夢が叶った!」

 セリーナとの対戦を知ったとき、それが何にも増して彼女の心を占めた想いだった。

 マイアミのセンターコートは8度の優勝を誇る「セリーナの城」で、観客の大半は彼女の信奉者だ。漆黒のウェアに身を包んだセリーナがコートに姿を現すと、一斉に大歓声が湧き上がった。

 試合開始前にネットを挟み向き合ったときには、軽くジャンプする大坂の前で、セリーナはまるで威嚇(いかく)するようにラケットを四方に振り回す。両者、肩を並べての記念撮影は、セリーナが一瞬で踵(きびす)を返してベースラインに向かったため、1秒にも満たずに打ち切られた。

 ウォームアップが終わり、主審の「タイム」のコールとともに大音量の音楽が止まると、セリーナがサーブを打つべく、ベースラインに立ち構える。その瞬間、コート上の空気がピンと切れそうなほどに張り詰めた。

 ゆったりとラケットを振りかざしたセリーナは、快音響かせサーブを打ち下ろすと、浮いた返球をすかさずバックで叩き込む。このゲームでセリーナは、大坂にまともにボールを打たせることなく4ポイント連取し、貫禄のスタートを切った。

 試合の立ち上がりで「ものすごく緊張していた」ことを、後に大坂は打ち明ける。

 ラケットで受け止めた打球の衝撃に「転びそう」になりながら、「ワーオ! これがセリーナのショットなんだ!」と、密かに感激も覚えていた。最初の3ゲームは、どこか夢心地のなかで過ぎていく。

 それでもブレークの危機をしのぎ、結果的に自分のゲームをキープしたことが、この試合最初の小さな……しかし、最終的に大きな変化を生むターニングポイントとなる。

 打ち合いでセリーナを左右に振り回す大坂に、気負いも気後れの気配もない。サーブの速度計に表示される数字も徐々に上がり、常時115マイル(約185キロ)を示すようになっていた。ゲームカウントが3-3になったとき、セリーナの姉のビーナスが客席を駆け下り、コートサイドの関係者席に飛び込んだ。そのビーナスも見守る眼の前で、大坂は直後の第7ゲームをブレークする。さらにはゲームカウント5-3からふたたびブレークした大坂が、セリーナから第1セットを奪い去った。

 セットを落とした事実を受け止め、表情を変えず淡々と第2セットのコートに向かうセリーナだが、その背中からは静かな怒りの感情が登り立つようだった。

 自分の背を追う者に負けるわけにはいかないという女王のプライドと、「憧れのセリーナに自分を認めてもらいたい」という挑戦者の無垢な情熱が正面からぶつかりあったのが、大坂サーブの第3ゲーム。30-30の場面で、大坂の119マイル(約191.5キロ)のサーブを鋭く打ち返したセリーナは、この日最初の「カモン!」の叫び声を上げた。

 大歓声に包まれるアリーナに、集中力と眼光を増すセリーナ。しかし、この窮状にあって大坂は、ほかからはうかがい知れぬ、ふたつのことを考えていた。

 ひとつは、「セリーナに『カモン』と言わせた」ことへの喜び。「カモン」の叫びは、セリーナが必死であることの証(あかし)。本気のセリーナが、目の前にいる……。その事実に胸を高鳴らせながら、大坂はさらに、こう考えた。

「こんなピンチのとき、セリーナなら、どんなプレーをするだろうか?」

 そして、彼女は118マイル(約190キロ)のサーブを叩き込み、ブレークポイントをしのいでみせた。

 続くポイントでは、100マイル(約161キロ)のスライスサーブをコーナーギリギリに放つ。完全に読みの逆をつかれたか、セリーナは「あっ……」と声を漏らし、自分から逃げるように切れていくボールを、ただ見送ることしかできなかった。

 ゲームポイントでも大坂は、103マイル(約166キロ)のサーブをピンポイントでセンターに打つ。快音を響かせた打球は、必死に伸ばしたセリーナのラケットの先をかすめ、後方のフェンスに跳ね返った。

 このときセリーナは、彼女がこれまで倒してきた者たちの失望を、自ら味わっただろうか……? 続くゲームでセリーナはダブルフォールトを犯し、自ら危機を招きこむ。その機を見逃さぬ大坂は、ロブなどの多彩な技でセリーナを翻弄しはじめた。

 心技体――あらゆる面でセリーナを上回った挑戦者がこのゲームをブレークしたとき、事実上の勝敗は決する。

 その分岐点から10分後……。セリーナのショットが大きくラインを割ったとき、大坂はガッツポーズも笑顔も見せることなく、足早にネットに駆け寄り、いつも以上に深く頭を下げた。

 胸に去来した想いは、「試合が終わってしまったことの寂しさ」だったという。握手とともにセリーナに声をかけられたときには、「頭が真っ白」になった。ひとつ確かなこと……それは、セリーナが「グッドジョブ」と言ってくれたことだった。

 試合後、セリーナはファンのサインの求めに応じ、歓声に手を振りコートを去ると、そのまま車に乗り込み会場を後にした。後に発表された声明文には、「ナオミはすばらしいプレーをし、私はその試合からも多くを学ぶことができた」と記されていた。

 試合終了の約1時間後、会見室で報道陣の質問に応える大坂は、種々の想いが入り交じる胸中を、言葉で表すのに苦労していた。

 ただ、自らの胸のうちを探りながらポツリポツリと絞り出した「試合が終わったときに、セリーナに私が何者だかを知っていてほしかった」の言葉に、彼女がこの試合に求めたすべてが込められているようだった。

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