この30年、平成の停滞・衰退をもたらしたものの正体とは(写真:Fujifotos/アフロ)

来年4月30日、今上天皇は退位され、「平成」が幕を閉じることになる。この30年間で何が変わり、何が変わらなかったのか? 中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家)、柴山桂太(京都大学大学院准教授)、施光恒(九州大学大学院准教授)の気鋭の論客4人が「つねに改革を叫び続けた時代」を徹底検証する。

改革という改革は全部失敗だった

中野剛志(以下、中野):今の日本を「衰退途上国」と呼ぶ人がいるようですが、言い得て妙ですね。

佐藤健志(以下、佐藤):平成が始まったのは1989年。今年は平成30年です。この30年間を振り返って一言でまとめるなら、「良くて停滞、悪ければ衰退」の時代だったのではないでしょうか。経済がこれだけ長期にわたり、停滞したか、あるいは衰退しているというのは、明治以降の日本では初めてのことでしょう。

特に戦後は、1950年の朝鮮特需を皮切りに、約40年にわたって経済発展が続いた。それが突然、ギアが反対に入ったかのごとく、ずるずる落ち始めたのです。なぜそうなったのかを理解せずに、日本再生がありうるとは思えません。平成の停滞・衰退をもたらしたものは何か、これはきわめて重要なテーマだと思います。

中野:同じ停滞でも、改革派の人たちが主張するように「政府や政治が何も手を打たなかったためにこうなってしまった」というなら、まだ救いようがある。しかし現実はそうではなかった。

冷戦終了後、あるいはバブル崩壊後に、「日本はこれから抜本的に変わらなければならない」ということは政治の世界でもメディアの世界でもうるさいほど言われてきた。自民党政権から非自民連立政権に交代した1993年頃から、改革ブームが始まった。橋本政権も、細川政権も、小泉政権も「明確なビジョンと意志をもって、日本という国のあり方を根本的に変えなければいけない」と言っていた。安倍政権もそうです。

その意味で平成とは、「つねに改革を叫び続けた時代」であったともいえます。「このままではいけない。何もやらず座して死を待つのではなく、世界の流れを分析して主体的に、抜本的に改革を行わねばならない」と言い合い、決断し、改革しようとした。

しかしその結果がこうだった。結局のところ、日本の停滞を打ち破ろうとして平成に行われた改革という改革は全部失敗だったわけです。

柴山桂太(以下、柴山):問題はその改革の中身ですね。

僕が大学に入学したのは1993年ですが、最初の頃に講義で読まされたのは、日本型経済システムや日本的経営を礼賛する本でした。製造業の分野で日本がアメリカを追い越したのは、日本の組織運営や長期的取引慣行が優れていたからだという話ばかりだったんです。

ところが1997年に大学院に入ったらすっかり様子が変わっていた。今度は比較制度分析の手法などを用いて、日本型システムを一気に改革しなければならないという話になっていた。

たかだか数年で、評価が正反対に変わって驚いた覚えがあります。終戦時に学生だった人たちが、戦前の教科書を塗りつぶさせられたのに近い体験を、僕たちの世代もしているわけです。


中野 剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学大学院工学研究科准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2005年に同大学院より博士号を取得。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『TPP亡国論』『世界を戦争に導くグローバリズム』(ともに集英社新書)、『国力論』(以文社)など(撮影:今井 康一)

中野:私も学生時代に柴山さんとまったく同じカルチャーショック、同じ違和感を持ちました。おそらく施さんも同じでしょうね。

佐藤:日本全体が「今のままではダメだ!」とばかり、改革路線へと鞍替えしたわけですね。確かに敗戦直後、「今までのわれわれは間違っていた。ナショナリズムや軍国主義など捨ててしまえ、これからは平和と民主主義だ!」という方向性が、あっさり既定路線になったのと似ています。

いわゆる「テンプレ(テンプレートの略。ひな形の意)」ですが、テンプレの問題点は、一度出来上がると、本当にそれでいいのかを考えてみることなく、みんなが乗ろうとすること。

自分で物を考えない人ほど乗りたがるし、乗ってしまった人ほど、ますます物を考えなくなる。そして、ますます物を考えなくなった結果として、いっそうテンプレにハマってゆく。思考停止の悪循環が生じるのです。

アメリカでは保守的な思想の新自由主義

佐藤:1990年代以降に進められた一連の改革の特徴を要約すれば、ずばり「日本社会のアメリカ化」となります。「既得権益をなくし、規制を緩和・撤廃したうえで、セーフティネットを外して自由競争を徹底させよう。それこそが活力ある繁栄をもたらすのだ!」という主張が、幅広い支持を得て、錦の御旗となった。つまりは新自由主義改革ですが、それがグローバル化礼賛と結びついて、国を大きく変えていった。

施光恒(以下、施):1993年に出た小沢一郎の『日本改造計画』の冒頭に、グランドキャニオンのエピソードが出てきます。「アメリカのグランドキャニオンは、あれだけ切り立った崖なのにさくがない。日本だったらおそらくさくだらけになっているだろう。日本人は自律性がないからお上に頼り、規制を張り巡らせてもらっている。これからはさくを取り払って規制もなくし、日本人一人ひとりが自分の頭で考えなくてはいけない」という話です。まだ私が学生だった頃ですが、この手の話は当時あちこちで耳にした記憶があります。

中野:新自由主義改革そのものは1980年代の(マーガレット・)サッチャー、(ロナルド・)レーガンがはしりで、日本では中曽根政権の時代に始まっていますね。ただ1980年代の新自由主義は、日本経済の規模が大きくなってきて、「経済大国として国際的なポジションをどう考えていくのか」といった議論の中で論じられていた。それが1990年代になってバブルが崩壊すると、「日本は新自由主義的な考え方がないからダメなんだ」というような自虐型になっていった。

佐藤:1990年代以降の日本では、「旧態依然の日本的なるもの」が否定の対象となりましたが、逆に肯定の対象、目指すべきゴールとして打ち出されたのが、「アメリカ的なるもの」であり、新自由主義でした。

ところが新自由主義は、アメリカではむしろ保守的な思想なんですね。しかも戦後日本では、親米こそ保守のテンプレ。こうして「保守」と呼ばれる勢力が、妙にアメリカ至上主義となって、「日本的なるもの」を否定するというパラドックスが生じます。

佐藤:のみならず、アメリカにおける保守主義は「反政府・反国家」の側面まで持っている。あの国で銃規制が進まないのも、根底にはこれがあります。


佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家、作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。戯曲『ブロークン・ジャパニーズ』(1989年)で文化庁舞台芸術創作奨励特別賞を受賞。『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(文藝春秋、1992年)以来、作劇術の観点から時代や社会を分析する独自の評論活動を展開。主な著書に『未来喪失』(東洋経済経済新報社)、『夢見られた近代』(NTT出版)、『震災ゴジラ! 戦後は破局へと回帰する』(VNC)、『右の売国、左の亡国』(アスペクト)など(写真:佐藤 健志)

身の安全を政府に頼ってばかりいると、権力による抑圧に抵抗できず、自由が失われるおそれがある。だから独立の理念たる自由を守るためにも武装せよ、という次第。実際、「Free Men Bear Arms」(自由は武器を持ってこそ)なんてスローガンまであるくらいです。

日本は刀狩りに始まり、明治初期の廃刀令、敗戦直後の銃砲等所持禁止令(現・銃砲刀剣類所持等取締法)など、一般の人々の武装を規制してきた歴史がありますから、新自由主義者といえども武装の自由までは主張しません。

とはいえ問題は、「反政府・反国家」の発想自体は、いわゆる戦後民主主義の理念とも相性がよく、ゆえにわが国で受け入れられやすいこと。こうしてアメリカにかぶれた改革主義型の保守勢力は、愛国心やナショナリズムの必要性をうたいつつ、個人主義を前面に出して、日本的なるものを否定せよと主張することになった。

集団主義の否定と個人主義への思いこみ

中野:新自由主義と一口で言っても、実はヨーロッパとアメリカで違う。むしろ国ごとに、その国なりの新自由主義の文脈があるという気がします。アメリカ的新自由主義、イギリス的新自由主義、いろいろあると思うのですが、その中で、1990年代以降の日本的新自由主義は「日本的なるものの否定」という意味合いが強かった。

:そうなると「では日本的なるものとは何か」という議論になってきますね。

中野:それについて私の考えを言わせてもらうと、多くの人の頭の中にある「日本的なるもの」とは「日本は集団主義の国である」というものだったと感じます。集団主義の日本と対峙するのがアメリカ的な個人主義であり、つまり日本的新自由主義とは個人主義を意味していた。

:「新たなイノベーションのために、日本にも個人主義が必要である。自律的個人からなる社会へと日本を改革していかなければならない」という主張は今でもしばしば目にします。

柴山:個人主義に対する偏った思い込みがあるように思います。「個人主義だからイノベーションが起こり、経済が成長する」というのは本当なのか。

この発想のルーツはたぶん、ミルトン・フリードマンでしょう。フリードマンは『資本主義と自由』の中で、「ヨーロッパが世界に先駆けて発展できたのは、個人主義があったからだ」という主張をしています。(レオナルド・)ダ・ヴィンチにせよ誰にせよ、ヨーロッパの偉人たちはみな個の自由を追求し、その上に偉大な文化を作り上げた。アジアにはそれがなかったという趣旨のことを述べています。

しかし現実はそう単純ではない。個人主義があったから文明が発展したわけではなくて、経済が発展したから個人主義的な文化が花開いたんです。豊かになると意識が変化して、「自分は個人としての自由を持っている」という観念が出てきますから。

では発展は何によって起きたのかと考えると、実際は多くの要因があったわけです。最近の経済史研究では、ヨーロッパの経済発展を地理的な要因や近代国家形成の観点から説明するものが増えている。文化の面でもイスラーム圏からの影響など、さまざまな条件が重なって発展が起きたのであって、「個人主義的な思想や体制があれば経済が発展する」というほど単純ではないんです。

佐藤:「アジアは集団主義的なため、自覚的な主体性を持った個人が存在せず、文明として遅れている」という考え方は、ヨーロッパにも日本にも根強くありました。たとえば1950年代、増村保造という映画監督が、「日本映画初の本当の戦後派」として評判になります。しかるに増村さん、イタリアに留学していたこともあって、徹底した西洋至上主義者なんですよ。発言を2つ、ご紹介しましょう。

「ヨーロッパの空気を吸ってみて、はじめて『人間』というものを知ったような気がする。ヒューマニズムの伝統がない日本では、人間とは美しく豊かで力強いものだなどとは、観念的には諒解できても、実感として体得できない」(1958年)

「(映画『卍』で描きたかったのは)アジア的暗黒の滑稽さと、ヨーロッパ的肉体崇拝の明晰さである。(中略)何を言うよりもまず、ギリシア以来の論理と客観性を愛したかったのである」(1964年。表記を一部変更)

これが正しければ、増村保造さんご自身も、日本社会で生きている以上、アジア的暗黒の産物にすぎず、本当のところ「人間」ではありません。しかしまあ、その点は脇に置きましょう。

左派はなぜ新自由主義を受け入れたのか

中野:日本では1990年代以降の経済停滞に対して、本来であれば福祉国家を志向し、新自由主義に対して反発すべきリベラル、左翼までが、逆に新自由主義的改革に賛同してしまうという現象が生じた。この傾向はヨーロッパでも多少みられはしましたが、特に日本の新自由主義において顕著な特徴ではないかと思います。


柴山 桂太(しばやま けいた)/京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。専門は経済思想。1974年、東京都生まれ。主な著書にグローバル化の終焉を予見した『静かなる大恐慌』(集英社新書)、エマニュエル・トッドらとの共著『グローバリズムが世界を滅ぼす』(文春新書)など多数(撮影:佐藤 雄治)

柴山:おっしゃるとおり、反対どころか完全に補完勢力になっていましたね。

中野:左翼がなぜ政府内の改革派の補完勢力となり、新自由主義的改革に賛成したのか。私の解釈は、それは新自由主義が左翼の好きな、「日本的なるもの、すなわち集団主義の破壊」であるから、というものです。

佐藤:日本の野党は伝統的に「小さな政府」志向です。明治政府は富国強兵を国家目標に掲げましたが、政府主導で産業化や軍事力の整備を進めるとなると、国民の税負担が重くなりやすい。これに対して野党は、帝国議会が開かれるようになった直後から、「政費節減・民力休養」を公約に掲げて反対しました。歳出カットによってプライマリーバランスを改善し、減税をやれという話です。

戦後になっても、たとえば1965年に佐藤栄作内閣が初の赤字国債を出したとき、野党第一党だった社会党(現・社民党)は「赤字国債は戦争への道」と反対しています。いわゆる「昭和の戦争」の際、政府は国債を大量に発行しましたが、その経験がトラウマになったのか、「政府負債の増加=戦争(準備)」と決めてかかっているんですね。佐藤内閣にしてみれば、1964年の東京オリンピックが終わった反動で生じた不況を、何とかしたかっただけなんですが。

佐藤:有名なマルクス経済学者の大内兵衛さんまで、「この不況は、放っておいたほうが資本主義は健全になる」という旨の発言をし、赤字国債発行絶対反対を表明されたとのこと。どうも日本では、マルクス経済学すら市場原理主義に通じているらしい。これぞ「マルゆう」、マル経が言うな(笑)。

戦後日本で左翼とか革新とか言われた人たちにとって、国家とは「悪しき権力」であり、抗議・抵抗・打倒の対象でした。それに対して保守がナショナリズムを唱え、日本的なるものを擁護する、この図式が長らく存在していたわけです。ところが平成に入ったら保守の側が「これからは新自由主義とグローバリズムだ。国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去った!」と、ナショナリズムをぶん投げるようなことを言い出した。

おまけに左翼はずっと、国連中心主義的なコスモポリタニズムという形で、政治主導型のグローバリズムを唱えてきています。保守のグローバリズムは経済主導型なので、そこはちょっと違うんですが、「日本(あるいは国家)の否定」に関しては変わらない。

左翼が新自由主義的改革に抵抗できないのも、そう考えれば当然の帰結でしょう。ただし見方を変えれば、これは保守が「左傾化」し、国家否定で相手側と足並みをそろえたということでもある。昨今の日本が本当に「保守化」「右傾化」しているかは、率直に言って疑わしいのです。

ストーリーとしての「1940年体制論」

柴山:左派が新自由主義を受け入れるにあたっては、野口悠紀雄氏が唱えた「1940年体制」という概念の存在が大きかったと感じます。あれは1995年に発表されていますね。


施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院准教授。1971年福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士課程(M.Phil)修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)など(写真:施 光恒)

:野口氏の1940年体制論では、「いわゆる日本型経営と言われるもの、それは実は戦争準備のために作られた統制経済の延長であった」というとらえ方をしていました。その後、「総力戦体制論」といった議論が出てきて、「日本型経営などこれまでの経済成長を導いてきた日本的な特色は軍国主義につながる集団主義であり、前近代的な体制である」と色付けされてしまった。

確かにそれにより、本来であれば新自由主義に対抗すべき左派の人たちが立場を変えてしまった印象があります。左派が、新自由主義の側に立ち、日本型経営や日本型資本主義を集団主義的経済システムだとしてたたき始めたんですね。

中野:1990年代後半から不況が深刻化すると、右も左も1940年体制論に飛びついた。それは野口氏の1940年体制論が、明治以来ずっと日本人を支配してきたストーリーに見事に合致していたからでしょう。

:そのストーリーとは、「集団主義的な体制こそがつねに日本が敗れる原因なのだ」ということですね。


中野:そうです。「日本は翼賛体制を採ったことで戦争に突き進み、敗れた」と考える。実際には、世界大戦は総力戦ですから、戦争に勝った国々でも集団主義的な体制だったのですが、そういう議論にはならず、日本固有の集団主義が悪いから戦争に負けたということになる。

そして、戦後は経済で頑張ってきたけれども、平成不況でそれもダメになった。そのとき「これは第二の敗戦だ」と言われるわけです。それは「第二の敗戦という以上は、その原因は当然、第一の敗戦と同じはずだ」という発想になる。つまり「集団主義的な1940年体制が戦後の日本を支配していた。だから日本は負けたのだ」ということになるわけです。

柴山:第一次オイルショック後の1975年あたりもそうでしたね。あの当時も「第二の敗戦だ」と言われ、「それまで高度成長を主導してきた総合商社などの企業の体制が、かつての日本軍と同じような集団主義的なものであって、それが第二の敗戦の原因ではないか」という議論が出てきています。

中野:それだけ日本人の頭には「日本が負けたのは集団主義的だから」というストーリーが深く刷り込まれているということですね。

平成が経済の転換点となったもう1つの要因

柴山:平成が経済の転換点となった要因をもう1つ挙げると、これは世代論になってしまうんですが、平成期になって、経営者も政治家もサラリーマン化したことがあると感じます。1989年あたりまでは戦前生まれの世代が社会の中心にいた。1989年つまり昭和64年(平成元年)には、終戦の年である昭和20年に生まれた人が44歳だった。平成は戦前世代が徐々に社会の第一線から退き、戦後第一世代に代わっていった時代なんです。

戦前生まれと戦後世代の違いはやはりあって、インタビューして話を聞いてもかなり違う。戦前生まれの経営者は良くも悪くも頑固で骨がある。状況適応的ではなく、自分で考えて自分で決める、そのために勉強もよくしている。それが下の世代になると、だんだんサラリーマン化していく印象があります。

平成には政治の世界でも田舎育ちの保守政治家が消えていき、都会生まれの比較的高学歴で個人主義的な価値観をもった人たちが政治の中心になっていった。おそらく官僚も学者の世界でもそうだったでしょう。社会のリーダーが戦前の文化の中で育ち、焼け跡からの復興でたたき上げられてきた世代から、戦後の都会の空気の中で育った人たちに交代したことが、時代の潮目が変わる大きな要因ではなかったかと感じます。