昨年、2017年春のセンバツ決勝で戦いを終えた履正社(右奥)と優勝した大阪桐蔭(写真:岡沢克郎/アフロ)

春の甲子園、選抜高等学校野球大会が始まる。野球ファンにとってこの大会は「球春の訪れ」を告げる風物詩だ。今年のセンバツは第90回大会の記念大会ということもあり例年より4校多い36校が選出された。

最近は、米国のメディアも日本の高校野球に注目しているが、彼らがよく口にする疑問が「なぜこんな大きな大会が、年に2回もあるのか?」ということだ。

私たちは、春と夏に甲子園で高校野球があるのが当たり前になっているが、外部から見れば”多すぎる”ということになるかもしれない。なぜ、高校野球の甲子園大会は年に2回も行われるのか? その歴史を紐解けば「春の甲子園」の特殊な事情が浮かび上がってくる。

「手のひら返し」をした朝日新聞

話は明治末年にまでさかのぼる。

1911(明治44)年、世間を騒がした話題に「野球害毒論」があった。教育者である新渡戸稲造や、学習院院長乃木希典などが、学生たちが野球に夢中になることを懸念し、野球は心身に害毒をもたらすと主張したものだ。今読むと少し滑稽な感もあるが、この時期、日本野球は「一高時代」(旧制の第一高等学校)から「早慶時代」へと移行し、大学野球の人気はうなぎのぼりに高まっていた。


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勉学そっちのけで野球に夢中になる学生たちに眉をひそめる人も多かった。それだけにこの意見はセンセーショナルな反響を呼んだ。「野球害毒論」を連載した東京朝日新聞は部数を伸ばした。これに対し毎日新聞傘下の東京日日新聞は「野球擁護論」を展開し、華々しい論戦を展開した。

その4年後の1915(大正4)年、大阪朝日新聞は、第1回全国中等学校優勝野球大会を開催するのである。東京と大阪で編集体制は違っていたが、あれほど「青少年への野球の害毒」を唱えていた朝日新聞が一転、野球推進派に回ったのだ。この大会は、予想以上の好評を博し、参加校はまたたく間に増えて、夏の一大イベントになった。

毎日新聞は、中等学校野球の隆盛をじくじたる思いで眺めていた。毎日新聞は日本で初めてのマラソン大会を主宰するなど、新聞社のスポーツ事業のパイオニアを自負していた上に、野球擁護論を展開していたからだ。そして朝日の中等学校野球大会に遅れること9年の1924(大正13)年、もう1つの野球大会である「全国選抜中等学校野球大会」を大阪毎日新聞社の主催で始めるのだ。

新興チームの台頭によって全国大会への出場を阻まれるようになった和歌山中学など名門中等学校の関係者が、新たな全国大会の創設を毎日側に働きかけたのだ。

もともと朝日に対するライバル心で始めた大会だけに、この大会は、独自色をいろいろ打ち出していた。優秀選手の個人表彰、選手歓迎会の開催、国歌斉唱、国旗の掲揚、開会式のダイヤモンド一周なども、すべて毎日の大会が始めたものだ。

そして「独自色」の最たるものが、「選抜」だった。朝日の大会が全国で予選をするのに対し、毎日の大会は有識者からなる選考委員によって出場校が選出された。

学校、野球部の歴史
実力
前年度の成績 

当初の選考基準は上記の3つだった。前述したように、この大会は一発勝負の予選で新興チームに敗れた名門校の不満を背景に生まれた。だから「伝統」を最重要視したのだ。

1年目は愛知・名古屋の山本(のちの八事)球場で行われたが、2年目から朝日の大会と同じく、阪神甲子園球場で行われるようになる。以来「春の甲子園」は「夏の甲子園」とともに日本の野球ファンを沸かせる大会となった。

「春」「夏」2回の甲子園大会によって、野球は日本全国に普及した。日本内地だけでなく、当時、日本の植民地だった満州や朝鮮、台湾からも代表校が出場した。

一発勝負の予選を勝ち抜く「夏の甲子園」には、次々と新興チームが登場したが、選考委員が選抜する「春の甲子園」には、名門校が多く出る傾向が強かった。2つの大会にはそうしたカラーの違いがあった。

GHQにかけあって甲子園の接収を解除

終戦後、アメリカを中心とする連合国軍総司令部(GHQ)は、占領政策の一環として日本人に深く浸透している「野球」を利用することとした。早くも敗戦の年にプロや大学の野球の試合が行われ、翌1946年にはプロ野球のペナントレースと、夏の中等学校野球大会が再開した。この年、夏の大会は西宮球場(兵庫)での開催となった。

しかし、甲子園球場は占領軍に接収され、なかなか使用許可が下りなかった。このとき、GHQを説得したのが大阪毎日新聞代表取締役編集局長の本田親男だった。本田は社会部記者として第3回大会から「春の甲子園」の観戦記を書いてきた。本田らの尽力によってGHQの民生部門トップだった経済科学局長のマーカット少将は接収解除を認めた。マーカットはノンプロでプレーしたこともある大の野球好きだったという。これも幸運だったと言えるだろう。

マーカットは、本田らに1つの疑問を呈した。

「なぜ、大きな全国大会を年に2回も開催するのか?夏の1回だけでいいのではないか?」

今も外国のジャーナリストが発する疑問と同じ質問だ。

春の大会を運営してきた毎日新聞の本田親男は、予選からトーナメントの「夏の甲子園」と、選考委員会が選抜する「春の甲子園」の違いを力説し、マーカットの理解を得たという。

1947年3月31日、6年ぶりに甲子園で中等学校野球大会が開かれた。本田は後に毎日新聞社社長、会長を歴任するが、マーカットの後押しもあって讀賣新聞の正力松太郎とともにプロ野球の2リーグ分立にも尽力。毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)を創設するなど、野球界にも大きな功績があった。

こうした経緯もあって、戦後も「春の甲子園」は、戦後も「夏の甲子園」とは異なる独自色を打ち出していた。

戦後は、秋の地方大会が全国で定着し、この成績が「春の甲子園」の選考基準として重要視されるようになった。

しかし、主催者はあくまで「選抜」であることにこだわっていた。

現在の選考は、まず高野連が選考委員を選出する。選考委員は、エリア別に出場候補校を持ち寄り、この中から出場校を決定する。

選考の基準は、前年の秋季大会での成績。都道府県大会で好成績を挙げ、各地方大会に進出して、ここでも勝ち抜けば選考される可能性が高くなる。

高野連、選考委員は「地方大会でベスト4に入ったら当確」のようなガイドラインは出さない。「当確」と決まった学校が、その後の試合で出場メンバーを落とすなど、手を抜くことを恐れてのことだ。事実、地方大会でベスト4に勝ち残った学校が、準決勝で大敗したために選出されなかったこともある。

成績が同程度の学校が並び立った場合は、勝敗以外の要素が考慮される。野球部の調査が行われ、部員が部外者に礼儀正しく挨拶をしたか、宿舎でスリッパをきれいに整頓していたかが選考の参考になることもあるという。

賛否が分かれる”21世紀枠”

2001年からは「21世紀枠」が設けられた。これは、部員不足、天災、施設面での困難を乗り越えた学校、他校の模範となるマナーを実践した学校などを評価して、特別枠で選出するものだ。

秋季の都道府県大会で8強以上(参加校数が多い都道府県は16強以上)に入った学校から、各都道府県が1校を推薦する。これを地区ごとに9校に絞り、さらにその中から3校を選出するものだ。選考が難航した場合は、より甲子園出場から遠ざかっている学校が選出される。

2003年には、明治神宮野球大会で優勝した地区の出場校が一枠増やされる「神宮枠」が設けられた。今のセンバツ高校野球は、一般選考28校、「21世紀枠」3校、「神宮枠」1校の32校によって争われている。ざっくり言えば、「21世紀枠」は、選抜高校野球の創設の原点に立ち戻ったものと言えよう(今年は記念大会のため一般選考32校)。

「勝敗」だけでなく「高校生らしさ」や「高校野球にふさわしい品格」などの徳目を加味し、トーナメントを上り詰める「夏の甲子園」とは違う、という部分を強調したわけだ。しかし「21世紀枠」は必ずしも評判が良いとは言えない。

「うちの学校に負けた高校が、頭が良いというだけで候補に選ばれている」「名門校はちょっと強いとすぐに候補になる」「特定の地域の学校ばかり選ばれる」・・・・・・。

選考された学校に問題があるわけではない。それなりに選ばれる根拠はあるし、その学校に個性や努力の跡がみられるのは間違いない。

しかし、客観的な基準がないために、選出されなかった高校にはどうしてもわだかまりが残る。また、21世紀枠で甲子園に出場した学校も、一般枠で出場した学校とは違う色眼鏡で見られがちなのも事実だ。

情報が限られていた昔とは異なり、今はネットで学校の情報や世間の噂、秋季大会など試合の情報もオンタイムで入手できる。一般の人でも「この選考はおかしいのではないか」と批判ができる時代だ。実力以外の理由で選出された学校に対して微妙な空気が流れるのは仕方がないともいえるのだ。

そうしたもやもやが一気に噴出したのが、2010年3月22日の第82回選抜高校野球2日目第一試合、開星高校(島根県)と、21世紀枠で選ばれた向陽高校(和歌山県)の試合だった。

向陽高校は戦前、海草中学という名で夏の甲子園2連覇を果たした強豪だったが、1965年以来甲子園では勝ち星がなかった。戦前の予想は開星高校有利とされたが、ふたを開けてみると2-1で向陽の勝ちだった。

“21世紀枠の学校に負けたのは末代までの恥”

45年ぶりの向陽の甲子園の勝利にオールドファンは盛り上がったが、試合後の公式会見で開星高校の野々村直通監督は


甲子園で指揮を執っていた野々村監督(当時)(写真:野々村直通氏提供)

「21世紀枠の学校に負けたのは末代までの恥、腹を切りたい」

と発言したと報じられた。翌日には、開星高校の校長が向陽高校を訪れ、謝罪をする騒ぎとなった。高野連はこの発言を問題視し「事実確認をしたい」と述べた。

この稿を書くに当たり、今は教育評論家、画家になっている野々村直通氏に改めて話を聞いた。

「21世紀枠の学校と初戦に当たったことで、周囲からは”ラッキーだね””あまり点を取りすぎないように”などと言われました。でも、私自身は、向陽は決して侮れないと思っていました。私の予想通り向陽の藤田達也投手は冷静で素晴らしい投球をした。うちは、向陽の3安打を上回る6安打を打ちながら、攻略できなかった。

頑張ってきた生徒たちを勝たせてやれなかった。これは私の責任だ。試合後は、申し訳ないという思いで胸がいっぱいになっていました。甲子園では負けた高校の監督も4分間、NHKのインタビューを受けなければなりませんが、私は言葉が出なかった。アナウンサーにいろいろ聞かれましたが、最後に絞り出すようにして言った” 末代までの恥、腹を切りたい”が拾われて、大きなニュースになってしまったのです」

野々村氏は、すぐに謝罪したが、引責辞任せざるを得なくなった。

学校には非難の声が殺到した。しかし、この発言の直後から「野々村監督の発言は、いきすぎだが、その気持ちはわからないでもない」という声もあった。

野々村氏は、教え子や父兄などの復帰嘆願運動もあって、2011年4月に再度監督に就任。この年の夏の甲子園に出場したのを手土産に、翌年3月、定年退職した。学校側は定年延長を提示して引き留めたが、野々村氏には未練はなかった。

向陽との試合に出た野々村氏の教え子のうち、2年生エースだった白根尚貴はソフトバンクを経てDeNAで外野手としてプレーしている。3年生で一番三塁手だった糸原健斗は、今年、阪神の正遊撃手の座をうかがっている。

事件から8年が経って、野々村氏は述懐する。

「私は、勝敗だけではなく、頑張っている高校を評価するセンバツの考え方には賛同していたのです。2003年に隠岐高校(島根県)が21世紀枠で出場した時には、手放しで喜んで監督にお祝いの電話をしたくらいです。でも、”21世紀枠”というレッテルをはられるとお互いに意識してしまう。21世紀枠の学校だって、県大会のベスト8以上なのだから極端に弱いはずはない。実力以外の要素だけで選ばれたように見られては、彼らだって気の毒だと思うのです」

熱血監督として知られた野々村氏だが、その言葉の端々からは、人を思いやる包容力のある人柄がにじみ出ていた。


現在野々村氏は教育評論家兼画家として活動をしている(写真:野々村直通氏提供)

「21世紀枠」は、「夏の甲子園との差別化」のために設けられた。2010年からは「春」の後援に朝日新聞社が、「夏」の後援に毎日新聞社がつくことになり、春夏両大会は朝日、毎日の共催に近い形になっているが、それでも年2回全国大会をするには独自性が必要と考えているのだろう。

「21世紀枠」の考え方は、「勝敗以外の要素も考慮する」という、「春の甲子園」のもともとの考え方と同じである。「屋上屋を重ねる」感があるのは否めない。なまじ「21世紀枠」というネーミングがあるために、異質な基準で選ばれた高校が半人前のように出場しているような捉えられ方をされ、無用なわだかまりを生んでいる。こうした選考の仕方こそ、「春の甲子園の妙味だ」という意見もあるにはあるが、なんでもオープンになる今の時代にそぐわなくなっているという見方もできる。

新たなコンセプトを打ち出してはどうだろうか

このほかに、1998年にはセンバツは「応援団賞」も創設している。あくまで独自色を出そうとしているが、春と秋に甲子園で全国大会をすることの必然性を明確にしたいのであれば、新たなコンセプトで全く違う大会にしてはどうか。

例えばトーナメント戦ではなく、リーグ戦での開催、公立高校だけの大会の併設、2校以上の高校による「連合チーム」の大会を併設も考えられる。

「勝利至上主義」「エリート主義」とは一線を画した大会、未来へ向けた思い切った改革に舵を切ってはどうだろうか? そうした取り組みこそが「21世紀の甲子園」へのプレゼンテーションになると筆者は考えている。