大学入試に一石を投じたい、という念頭でシリーズで書いている続編です。

 前回は「国語」の試験について半分程度記しましたが、それを受ける形で「社会科は理科である」また「理科は社会科である」という本質を記したいと思います。

 先に、ビジネスマン読者念頭に応用編を記しておくなら、いわゆる「文科系」と言われる専門で、仮に抜きん出た仕事や業績を上げたいと思うなら、悪いことは言いません。コンピューターを適切に活用されることをお勧めします。

 物事には目的と手段があります。例えばビジネスのターゲットがあり、それを実現するストラテジーとタクティクス、つまり戦略戦術がある。

 一般に文系と見られ、コンピューターや数理が進出していない部分に最初に手をつけた人がおいしい部分を9割持っていきます。自分も狭い領域でその種の経験がありますので、大いにお勧めする次第です。

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人類史のなぞをコンピューターで解く

 例えば、歴史に表計算ソフトを適用する人がほとんどいなかった40年ほど前、中国の春秋戦国時代の研究者は、多くの国が独立て出していた「暦」がばらばらで、手を焼いていました。

 中国には「易姓革命」思想があり、自分たちの政権は天から命を受けているから、唯一正しい暦はこれである、として暦を制定していました。

 明治とか大正とか昭和とか平成といったような元号を魏も呂も呉も越も漢も秦も殷も宋も(時代や地域がばらばらですが)、ともかくあちらもこちらも勝手に暦を制定した。

 そして、わが歴史こそは正当であるぞよと主張していた。これは決して過去のものと笑えません。現代日本でも同じことに注意しましょう。

 ちゃんと来年、「天皇」の代替わりで「元号」を変えるというではないですか。

 中国四千年の歴史をほとんど唯一踏襲しているのが、私たちの国である現実を直視しながら、こういう問題を考えるべきと思います。

 さて、春秋戦国でも五胡十六国でも、中国は政権が並び立つと暦も勝手なものが並存します。未来の歴史学者は

 「中華民国107年 」=西暦(公元)2018年=「平成30年」(=大正107年)=北朝鮮「主体107年」

 といったことを「暗記」しなければならないかもしれません。ちなみに中華民国の民国紀元は「辛亥革命」(1911-12)に基づくもの。

 北朝鮮の主体元号は金日成(1912-94)の誕生日、日本の大正元号は明治天皇(1852-1912)の没年に由来して、全く根拠が異なりますが、結果的に偶然同じ数字になっている。

 こういうものが春秋戦国、百家争鳴して並び立ち、中国史の専門家は誰もこんなものを整理しようとは考えなかった。

 ところが日本の古代中国正統史論争研究者、平勢隆郎さん(1954-)は、古代の暦に含まれる日食・月食などの天体現象の記述を元に、今日で言えばきわめて単純な表計算ソフトウエアを用いた電子計算機演算で、孔子の生没年(553-B.C.-479 B.C.)を決定するなど、莫大な業績を挙げることに成功されました。

 平勢さんは元々私の大学の同僚に当たりますが、平勢さんに近い世代には古代バラモン教宗教儀礼の詳細を解明された永ノ尾信悟先生、古代ギリシャ詩の長短リズム韻律を解明された逸身喜一郎先生など 電子計算機を駆使され人類史的な大業績を挙げられた碩学が多々おられます。

 こうした方々には

* 昭和20年代の生まれで(年長の逸身さんが21年、一番お若い平勢さんが29年と思います)
* 大学紛争を経験した世代で
* その間オーソドックスなその専門の基礎を完璧に修められ、留学などもされますが
* 昭和40〜50年代、パーソナルコンピューターが普及し始めた直後から、これらを使って古代から永続する人類のなぞを解く という問題を的確に設定し
* 実際に人文科学数千年来の大問題(古代ヒンドゥの儀礼、古代ギリシャの詩、古代中国の歴史)を計算機を活用して解いた

 という共通項があります。

 こんなふうに書くと「人文社会にコンピューターを使うのがよい」とだけ言っているように誤解する人が出るかもしれませんが、そうではない。

 理科の問題にも歴史や地理の知見がフル活用されます。

地球史の履歴を資料発掘両面から明らかにする

 分かりやすいのは津波でしょう。2011年の東北大震災では発電所や防波堤の設計者から「想定外の津波」といった言葉が山のように聞かれましたが、そんなことは全然ありません。

 歴史を紐解けば、津波の記録は平安、鎌倉、室町・・・と各地に多数残ってい ます。

 また、そのように文字で記された以外にも、地球自身が記録を残している。それを明らかにする1つが「ボーリング調査」です。

 例えば東京大学理学部地球惑星システム科学講座・茅根研究室のようなエキスパートは、沿岸地域のボーリング調査を通じて、過去数千年に及ぶ堆積物の分析から「津波堆積物」を確実に同定し、どれくらいの頻度でその地域に津波がやって来たのか、残滓からはっきり確定させることができます。

 考古学のような分野には、文字で残された資料がありません。しかし、放射性同位元素である炭素14を用いることで年代測定が可能です。

 この原理を見つけたウィラード・リビーは1960年にノーベル化学賞を単独受賞していますが、現実の応用に関しては学習院大学理学部物理学科の木越邦彦先生(1917-2014) をはじめ、日本の研究者も長年にわたって多大な貢献をしています。

 物理測定による文字史料を超えたデータテイキングは炭素14だけにとどまらず、古代彫刻のX線などを用いた撮影、古代壁画の蛍光撮影などによる画像分析などが威力を発揮しています。

 例えば高松塚古墳やキトラ古墳の顔料分析からは、日本に絶対存在しないラピス・ラズリなどの鉱石原料から、飛鳥〜奈良時代の日本と中東、アッバース朝イスラムとの交易が明らかになりました。

 これらを率いたのは東京芸術大学学長も務めた日本画の平山郁夫さん(1930-2009)で、広島被爆者かつ、鉱物を酸化させて色を作る 日本画家として、物理測定の応用を徹底して推進されました。

 ちなみに芸術へのこうした応用は、美術だけではなく、音楽や演劇にも当然活用が可能です。

 古代ギリシャ円形劇場の音響や調光はボローニャ大学のアレッサンドロ・コッキ(1936-)らのグループが初めて物理測定で確定しました。

 さらにそれを推し進めたモデルを用いて長崎の木造教会群や浄土真宗の寺院建築、カトリックとプロテスタントの教会建築の儀礼と対象しながらの比較、ドイツのバイロイト祝祭劇場などのオペラハウスの上演を含むダイナミクスも、東京大学、神戸大学安藤四一(1939-)研究室、ボローニャ大学マッシモ・ガライ研究室らのチームが世界で初めて着手しています。

 物理測定と計算機システム双方からのアプローチで全く新しい知見を多数得ています。

 お気づきかもしれませんが、最後の方は私自身の仕事で、1999年に研究室を主宰して以降、芸大との科研費研究で「物理測定がいいですよ」と強く勧めて下さったのが平山さんでした。

 同僚であった平勢さんや永ノ尾さんのお仕事にも多くを教えていただきました。

 決して他の人がすでに先鞭をつけた二番煎じではない、新しく、かつ有為なテーマを内外の共同研究者たちと探し、見つけ、ターゲットを絞って実際にデータを取り、結果を出してきました。ここ20年ほどの取り組みに即して言うわけですが・・・。

 文科で未踏の問題は、理科の方法を使うと非常に有効ですし、理科で未解決な方法には文科の方法が極めて強力。

 文科でも理科でもない私たち芸術の仕事には、人知のあらゆる方法を、論理的に整合している限りは、いかようにも縦横に駆使して、求める答えを導くのが決定的に有効。

 こう記して、改めて入試の問題に戻りたいと思います。

小学校の社会科は大学なら工学部

 セクションのタイトルにしてしまいましたが、小学校で教える「社会科」の大半は、実は大学では「工学部」で教えていると言っていいと思います。

 「そんなことないだろう、政治経済みたいなものも工学部で教えるの?」

 というような質問を受けたことがかつてありました。それこそいいカモが引っかかったとばかりに「これは良い質問をいただきました」と、原子力工学科のカリキュラムにどれくらい法規に関する内容が重視されているか、といったことをお答えし始めたわけですが、質問した人はものの10秒で自分の死角に気づいた様子で、静かになってしまいました。

 中学、高校で「生物」とか「地理」とか「物理」とか「世界史」と分けているのがむしろ中途半端なわけです。

 小学生、あるいは大学レベルで現実社会に直結する部分では、5教科7科目という分類そのものがしばしば無意味、ないしは縦割りがマイナスに作用する場合も多く、そんなビニールハウス的な区分けで、値引きのない現実の問題には決して対処はできません。

 例えば土木工学や建築学科であれば、設計施工のエンジニアリングと同じ程度には、安全施工などの法規や経済性などの観点もきちんと把握しなければ、公共工事など大規模な現場でまともな仕事ができるわけがありません。

 いや、きちんと把握したうえで、法規に違反した軽量の鉄骨でごまかすとか、設計ミスで合致しない部分の鉄材を削ってごまかしたところ、新幹線のシャーシにガタが行ったとか・・・。もういちいち言う必要はないでしょう。

 高校で理科が得意というか好き、社会は嫌いだったから工学部に行きました、なんて話は本来的にはあり得ないわけです。

 大は天体規模の現象、地球温暖化などから小は原子電子レベルの相互作用、ナノデバイスの特性まで、理科で社会に関わらないものなど土台から考えれば1つもないわけです。

 それでも「抽象的な数学は?」「素粒子理論は?」あるいは「インド哲学は??」というように、浮世と隔絶した専門領域を言いたがる人が時折あります。

 しかし、ブロックチェーンなど昨今の暗号応用、セキュリティ・テクノロジーなど、法規や経済性と近接する先端に、従来は応用と距離があった抽象的な数理が続々と応用されているのは、すでに広く報道もされているとおりです。

 今日のAIブームの大半の基礎は素粒子の理論や実験で大量に大学院研究者を輩出した冷戦期、これらの基礎を学んだうえ、冷戦終結後のIT革命シフトで活性化した情報産業にこれらの人材が流れることで開拓され、成立しています。

 ベイズ統計を核とするこうした角度からの交通整理は、もう少ししたらシリーズで平易に展開するつもりです。

 「文理融合」、もっと言えば、文学部でインド哲学の教室を教授として主宰するのでも、予算管理やプロジェクト提案、人事から経理まで、ありとあらゆる浮世の財務の山と決して無縁ではいられないわけで、つまるところ、5教科7科目の分離などというのは、素っ頓狂な錯覚でしかない。

 もしあなたが、あまり好きでない科目があるとしたら、それは「成績が悪かった」とか、逆に「簡単すぎてつまらなかった」とか、「担当した教師が嫌いだった」とか、何であれ、その教科の本質と無関係なところで、印象に基づいて半歩引いてしまっているだけのことで、不運な錯覚と言わざるを得ません。

 声を大にして主張したいのは「文理融合」なんてアホみたいなものだ、ということです。

 つまり、本質的に文理が分離していると思っている人が「ユーゴーさせましょう」とかけ声だけは大きいけれど、本質的にはそんなこと全然思っていないところで、この種の囃し言葉ばかりが横行するのですから。

 未来を牽引する若い世代には 5教科7科目、どれ1つとして嫌いな科目がないのが大前提の出発点とあえて強調しておきましょう。

 というのは、何であれ、本腰を入れて取り組めば、それが「5教科7科目」という一塊であるのだから。

 メーカーに入って海外の工場で責任者を務める、と考えるなら、現場のテクニカルな問題を雇用や労使交渉からお客さんとのビジネス交渉まで、基本英語など外国語ベースでやらなければならないのです。

 国語算数理科社会英語あたりの中に、大きく1つドカンと「わて、これあきまへんのや」という穴が開いていたら、使い物になるわけがないのです。

 日本人は英語を話すものだと思っていないから、大学入試が終わると、1〜2割の例外を除いて大半の学生は英語能力が急速に落ちていくし、大学2年生に1年次で履修したはずの第2外国語で会話してみよ、と振ると、9割の確率でどうにもなりません。

 少なくとも東京大学教養学部でこの20年ほど学生を無作為に捉まえて訊ねてみたところ、日本人学生は完敗です。

 また、留学生の場合ほぼ10割の確率で、1年履修した外国語で何か返事が返ってくる。そりゃそうです、彼ら彼女らにとっては日本語だって外国語なんですから。

 これ、全部、本質的には能力の問題ではないと思います。日本人学生は先入観でまじめに勉強しない、第2外国語なんてこんなもの、とどこかで高を括っているからそれ以上伸びない。怠けであり、さぼりでしかないと看破しています。

 その証拠に、本当に在外駐在員などになり、必死になると、それなりにおっさんおばさんが現地語でやるようになるではないですか。勉強なんてそんなものです。

 やや話が散ったように見えるかもしれませんが、理科は社会であり社会は理科であるくらいに考えるとちょうどいい。

 それを「ロジック」の観点から整理するのは、今回は紙幅が尽きました、続きの稿で触れることといたしましょう。

筆者:伊東 乾