国保京北病院(現・京都市立京北病院)の院長だった山中祥弘氏

写真拡大

小さな集落で尊敬を集める「院長先生」が、患者を「安楽死」させたとして、殺人容疑で逮捕される。1996年に京北町(現・京都市右京区)で起きた事件は、全国に衝撃を与えた。21年前、「殺人医師」と盛んに報じられた元院長は、現在も医師を続けている。ジャーナリストの宮下洋一氏が、当時の真意を聞いた――。(後編)

※本稿は、宮下洋一『安楽死を遂げるまで』(小学館)の第6章「殺人医師と呼ばれた者たち」を再編集したものです。

■「冷静だったらやっていない」

(前編から続く)ただ、一つ気になることがあった。彼の話を遮り、質問した。

先生は、「動揺」という言葉を繰り返していますが、冷静な判断だったら、あのような形の死にはなっていなかったと?

ベテラン医師は、その時、おそらく言うべきではない、いや、私としては言ってほしくない言葉をさらりと言った。

「うん、だから冷静だったらね、逆に何もしないかもしれない。何もしないのが一番良かったなと、今、思っています」

医師も人間だ。他人に同情したり、憤慨したりすることがあるだろう。しかし、後悔の念を抱くくらいなら、他人を安楽の世界に導かないほうがいい。私は、そう考えている。

そしてもう一つ、山中の言い分に解せない部分があった。欧米で行われている安楽死の条件の中には、必ず「本人の明確な意思」が、医師側に表示されていなくてはならない。そこでようやく「個人の死」が成立し、家族も納得するのである。

それなくして、医師が患者家族という二人称の世界に土足で侵入し、死を手助けすることがあってはならないと、私は思う。多田は、癌告知されていなかった。このことも、大きな欠陥だったのではないか。

山中は、癌告知について、「今でも、僕は(告知を)100%すればいいとは思っていません。すべき人にはする、すべきでない人にはしない」という哲学を持っている。もし彼がそう考えるのであれば、なおさら安楽死に繋がる行為をすべきでなかったと感じてしまう。

怒り肩の医師は、私の横に設置されていたホワイトボードの前に立ち、マジックペンを手に取った。彼は、ボードに一本の長い横線を書き、「これはつまり、限りなく安楽死に近い病死」と言って、「点」か「線」かの解説を具体的な図で説明し始めた。

「時間帯なんですよ。筋弛緩剤を点滴で入れたのは、亡くなる瞬間なんですよ。12時間以上、臨終の時間帯がずっと続いていましたから。痙攣が起こる前から、無呼吸が始まっていた。呼名反応なしで、脳幹反射といわれる捷毛反応がない。もう脳幹が完全に死んでいるわけですね。それが事故だと一過性で、また元に戻る場合だってあり得る。だけど、癌末期の人はね、まったく無理でリターンはないんです」

■死のラインを跨いでいた

臨終間近の多田は死んでいたも同然で、いずれ死ぬのであれば、苦しむ姿を家族に見てほしくない。ならば、筋弛緩剤を使って、早く楽にしてあげるべきだ、ということだろう。

右端の「生」から左端の「死」までを表す横線の間に「ミドルワールド」という縦線を引き、これは「臨死状態」を意味するとして、医師は説明を続けた。

「私が赴任した昭和43年(1968年)頃は、京北は僻地で、山林事故が相次ぎました。意識障害に陥り、これはもう危ないという患者を何度も手術した。さあ、どっちに行くかという時に、こちら(右)に戻る人も結構いるんです。だけど、癌末期の人は絶対こっち(左)しかないんです。マスコミの皆さんの一番の欠落部分は、どんな時間帯だったかなんです。(多田の場合は)死のラインを半分またいだ状態でした」

余命については、多くの専門家が言うように、医学的根拠がない。この臨死状態の「ミドルワールド」の中の判断は、山中の経験上の「勘」であるとしか言いようがない。

レラキシン投与が、多田の妻にとって、安楽死に繋がる行為との認識があったのかについては定かではない。人口7400の小さな町で、しかも90年代の日本で、安楽死とはいかなる行為であるのかを理解している人も少なかったはずだ。

事件が露見したのも、看護師たちの内部告発が原因だった。山中は、住民には「教祖様」と崇められる半面、病院内のスタッフに厳しい一面を見せることもあったと聞く。閉ざされた共同体内で募っていった山中への鬱憤は、思わぬ形で発露した。

この告発がなければ、その後も山中は、村人たちの「教祖様」であり続けたことだろう。不起訴となったものの、山中は、役場で閑職を強いられ、病院に隣接する保健センター長を務めた後、99年頃から、現在の病院に勤めるようになった。追われるように町を離れたことについて「それは寂しかったです。慕ってくれる人がたくさんいたのでね」と遠くを見つめた。

「死の現場で、ベテラン医師が絶えず冷静さを保てるかというと、そうじゃないんです。あなたが(海外で)見てこられた人々は、極めて冷静。それは法律が確立しているからできることなんでしょうけどね」

■山中の発言に生じる「不整合」

山中は、突然、安楽死容認国の制度を羨むようなことを口にした。しかしながら、スイスやオランダでも、本人の意思なしで死が遂げられることはあり得ない。

患者さんが意思表示できない時は、どんな解決策があるのでしょうか?

私が、彼にさりげなく訊くと、答えはこうだった。

「家族との相談がまず大事になってきます。それは、患者さん本人にとって一番大事な分身といいますかね。血縁のない妻であっても分身だと思うし、子供たちはまさに分身です」

多田の妻や娘たちの了解があれば、安楽死があっても良いという意味合いになるが、そもそも患者の多田本人に癌の告知さえなされていなかった。生前、多田が家族と死について、話し合っているはずはない。その意味からも、山中の発言には、不整合が生じてしまう。

その一方で、私個人としては、この血縁的な考えに必ずしも反対はしない。「個人の死」を時には尊重することもある私だが、彼の言う「分身」という考え方にも共感できる。

「私は、亡くなっていく人たちに、『あなたはちょっと早く旅立つけど、我々もやがて旅立つ存在なんだ』と言うのです。その苦しむ姿を見たり、家族に見せたりするのは、ヒューマニスティックではないと思いますね」

この考え方は、スイスやオランダのようである。残される家族に苦しむ姿を見せないためにも、安楽死を認めることが望ましいという論理だ。私は、こうした考え方を、諸外国で学んできたが、山中は、どこでこうした思考に辿り着いたのか。単純に感情論で話しているのではなさそうだった。

■原爆で親類を亡くした

実は、広島県庄原市出身の山中は、二人の兄を病気で失っていた。

「1番目の兄貴は戦後、食料事情の悪い東京で、医大に通っていましたが、そこで病気で亡くなりました。2番目の兄貴は、明治大学へ行っていまして、やがて病気で亡くなりました。親父のすぐ上の姉が原爆で亡くなったこともよく覚えています」

若い頃、彼らが長く苦しむ姿を目の当たりにしてきた。だからこそ、彼は、人間の生死に対し、思いが強いのかもしれない。また、彼には髄膜炎の後遺症で障害を抱える次男がいる。こうした存在も医師としての人生を歩む上でなにがしかの影響を与えたのだろう。

山中の価値観に納得させられる部分があったことは確かだ。地域医療を一手に担った「教祖様」が、この町の住民から慕われるのも理解できる気がした。彼の辞任後、地元住民以外にも、日本全国や海外からの支援者ら約10万人が、院長復帰を求める活動に署名した。

先生はなぜ、今になって、私の取材を承諾されたのですか?

私が、そう最後の質問をしたのは、事件以降、「マスコミの怖さを知っていますから、誰にも話していません」と口にしていたからだ。

すると、「実はねぇ」と呟き、こう語った。

「今日、私が宮下さんに会おうと思ったのは、ちょうど私の親父が死んだ年齢だったからなんです。いつ死ぬかも分からない。以前のマスコミとは違う人であれば、話をしておきたいと思ったんです」

■それから3カ月後

インタビューから3カ月後、実際に京北町を訪れ、住民の声を拾ってみた。スーパーでの買い物を終えて出てきた50代の男性は、こう語る。

「ここだけの話やけど、私も、当時、おばあさんの体調が悪うて、先生に(安楽死を)お願いしますて考えたことがあります。ほんまに面倒見がええ先生やった。もともとは無医村やったので、助けてもらった方はぎょうさんいると思いますよ。うちの坊主が魚の骨をつっかえた時、取ってもろたんも山中先生やったしね」

同年代の別の女性もこう言う。

「小学校の時やったかな、私も先生に盲腸の手術をしてもろてるんですわ。子供も世話になってるし。頼りがいのある先生やったさかいね、あんなことになると思ってへんかったですね。メディアが騒ぎ過ぎやわ。私は、もう看護婦さんが嫌やったね」

住民全員が、元院長に恩赦を与えているようだった。「誰かも分からんあんたに、先生の話なんかできるか!」とか、「その話は勘弁してください」と冷たい言葉を返す人々もいた。だが、私は、個人的にこうした共同体、あるいは村社会が嫌ではない。その理由は、村社会よりも個の社会を貫く欧米諸国の殺伐とした空気を、長年、肌で感じてきたからだ。

車を降りて、少し頭を冷やしてみる。

この小さな共同体内には、暗黙のルールが存在している。人間付き合いにしても冠婚葬祭にしても、きっと目に見えない掟があるのだろう。おそらく安楽死にしても、そうした何かが適用されたに違いない。そんな彼らに、よそ者の私が口を挟んでいいものか……。

京北町では、医師と看護師の対立によって、それが顕在化した。しかし、目に見えないだけで、日本の他の場所でも、類似の事例が発生していたのかもしれない。

みぞれが細雪に変わりゆく景色を眺めながら、そんなことをつらつらと思っていた。

----------

宮下洋一(みやした・よういち)
ジャーナリスト
1976年、長野県生まれ。18歳で単身アメリカに渡り、ウエスト・バージニア州立大学外国語学部を卒業。その後、スペイン・バルセロナ大学大学院で国際論修士、同大学院コロンビア・ジャーナリズム・スクールで、ジャーナリズム修士。フランス語、スペイン語、英語、ポルトガル語、カタラン語を話す。フランスやスペインを拠点としながら世界各地を取材。主な著書に、小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞した『卵子探しています 世界の不妊・生殖医療現場を訪ねて』など。

----------

(ジャーナリスト 宮下 洋一)