宮下洋一『安楽死を遂げるまで』(小学館)

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小さな集落で尊敬を集める「院長先生」が、患者を「安楽死」させたとして、殺人容疑で逮捕される。1996年に京北町(現・京都市右京区)で起きた事件は、全国に衝撃を与えた。なぜ院長は筋弛緩剤を投与したのか。ジャーナリストの宮下洋一氏が、元院長に会い、21年前の真意を聞いた――。(前編)

※本稿は、宮下洋一『安楽死を遂げるまで』(小学館)の第6章「殺人医師と呼ばれた者たち」を再編集したものです。

■「事件」に揺れた集落

パタパタパタパタパタ……。

住民たちは、空を見上げた。普段は静寂な町が騒々しい。テレビをつけると、地元の田園風景が上空から映し出されている。人口7400(当時)の深閑とした田舎町に、張りつめた空気が立ち込めたのは、1996年のことだった。

同年4月27日。国保京北病院(現・京都市立京北病院)の山中祥弘(78 ※年齢は取材時点)院長が、当時48歳の末期癌患者・多田昭則(仮名)に対し、筋弛緩剤を点滴の中に投与して死亡させた。1カ月後、院内の内部告発から警察が捜査に乗り出し、6月に事件が表面化して報道が過熱。その後、殺人容疑で書類送検されるが、翌年の12月12日、嫌疑不十分で不起訴処分が決まった。

京北町(現・京都市右京区)という小さな町で、あの時、一体何が起きたのか。それは、「安楽死」だったのか、不起訴処分は正しかったのか。そして何よりも、山中元院長を崇めてきた地元民は、この事件をどう捉えたのか。

■「教祖様のような存在でした」

2017年1月下旬。京都駅から国道162号線を約1時間、北へ――。私には未知の土地となる京北町に、慣れない右ハンドルの車を走らせた。雪が山間と集落を銀色に染めていた。海外在住が長く、土地勘があるはずもない私は、観光地とは別の京都を知るだけでも好奇心が湧いていた。

京北町は、1955年に、周山町と、細野、宇津、黒田、山国、弓削の1町5村の合併により誕生した。昔ながらの風情が残る静かな集落である。

この町の中心に静かに佇むのが京都市立京北病院だ。ベージュの壁で囲まれた、この病院は、京北町が2005年に京都市に編入合併され、右京区になるまで国保京北病院という名称だった。地元民は、地域医療を支えるこの病院こそ、町全体の健康を約束する場所と信じていた。そして、その中心を担ってきたのが、山中だった。ある40代男性は、山中のことを「教祖様のような存在でした」と語った。

この町に住む50代女性は、78年から18年間、院長を務めたベテラン医師を懐かしむように、こう話した。

「ええ先生やったね。町の人たちからも物腰の柔らかい先生で有名やった。私の父も何かある度に山中先生、山中先生て言うてはりましたよ」

しかし、私が当時の「事件」に触れると、突然、彼らは険しい目つきに変わり、返答を渋り始めた。悪口は言いたくない、というような態度に見えた。

病院に入り、受付の横にある椅子に腰掛けてみる。人気をまるで感じない。ここで、あの騒々しい事件が起きたことを想像するのは難しかった。しばらく座ったまま、私は、ここに来る3カ月前の一時帰国中に、山中と京都市内で会ったことを思い出していた。

■カルテは語る

山中は、事件の舞台となった京北病院を離れ、1999年から現在に至るまで、京都市左京区にある療養型病院で、医師を続けている

「わざわざ京都までお越しくださって、ありがとうございます。ささっ、こちらへどうぞ」

事件当時58歳だった山中はこの時、78歳。白髪で色白、グレーの背広に洒落た黒いネクタイをきちっと結んでいて、服装に気遣っている老紳士だった。

山中はインタビュー開始とともに、机の上に、1996年に起きた事件の証拠品ともなる『看護記録II』と題された患者のカルテを並べた。一度は京都府警本部から検察に送られたこのカルテは、彼が嫌疑不十分で不起訴になった末に返却された。

その少し黄ばんだカルテを覗き込んでみる。日付は、多田が亡くなる96年4月27日のページだ。午前6時半から、赤色のボールペンで書き出されている。

午前中の段階では、「呼名にてわずかに返答」「おはようと言う」などと記されているが、午後1時以降は、「呼名反応なし」と、容態の変化が窺われる。1時半を過ぎた頃から、「開眼しているも捷毛反射なし」「四肢冷感強い」「HR(著者注:心拍数)130代」で、「シリンジ(著者注:モルヒネ)3・5」と、いよいよ死に向かう人間の様子がメモに記されている。

午後2時には「シリンジ4・5」に増加、2時半には、「山中医師の指示」によって、抗痙攣剤「フェノバール」を1アンプル投与。2時50分には、「HR DOWN」、「R(呼吸)停止」、「永眠される」と書かれ、カルテの記録はここで終わっている。

このカルテを観察する限り、事件に繋がる痕跡は見当たらない。患者は、まるで自然死を迎えたかのようだ。無論、私はこの段階で、記入されている薬品名すべてを把握しているわけではない。この後の話から、カルテには、死を直接的に誘発した筋弛緩剤「レラキシン」の文字が書き込まれていない事実を知る。このことが当時、様々な憶測を招いた。

■三人称から二人称の死へ

地元土建会社で、ミキサー車の運転手をしていた多田は、臨終間際、凄まじい痙攣を起こした。その時、病室では、看護師たちに加え、多田の妻、娘二人、親戚が見守っていた。家族が泣き叫ぶ中、モルヒネを増量しても、痙攣を妨ぐことはできなかったという。そこで、山中が意を固め、看護師に指示を出した。

「レラキシンを持ってきて」

看護師は、院長の指示に疑問を募らせ、筋弛緩剤の投与を拒んだ。最終的に院長自ら点滴を打ったと報じられている。

1カ月後、内部告発という形で、事件が表沙汰になる。さらに、3カ月後には、筋弛緩剤の投与を拒んだ看護師を含む、京北病院に勤務していた30人の職員が「院長が復帰するなら、全員退職する」という主旨の要望書を、病院を管轄する京北町役場に提出した。

『週刊文春』(96年9月12日号)の取材に応じた当時の看護師長は、詰め所にいた右の看護師から筋弛緩剤のことを耳にしたという。看護師長の発言はこうだ。

<「エー、何でそんなもの使うんやろ」という疑問で頭が真っ白になりました。「レラキシンなんか打ったらすぐに呼吸が止まるのに、人工呼吸の準備もしてへん」とか、「山中院長を止めないといけない」という思いがよぎりましたが、頭がスムーズに回転せず、ただ呆然としていました>

また、看護師長は、レラキシンの使用とカルテとの関係について、次のように述べている。

<山中院長はあの時、レラキシンを使ったことを自分でカルテにも書かず、「看護記録にも書くな」と指示しました。安楽死を問うのであれば、堂々と記録すればいい。なぜ、記録できないようなことを私たち看護婦に指示したのかと思うと、不信感ばかりが残りました>

この報道の信憑性を問うために、私は、山中に「なぜカルテに筋弛緩剤を記入しなかったのか」と尋ねてみた。すると、マスコミは看護師の肩を持ったという考えを示した上で、机に置かれた『看護記録2』を指差した。

「僕は言ったんだけれど、彼女たちが書いてないだけです。だけど、彼女たちが書こうと思ったら、いくらでも書けた。みんなが知っていますから。詰め所ではっきり言ったんだ。内緒にしてくれとか言うのは一つもない」

■不起訴になった背景

ではなぜ、そのタイミングで投与したのか。筋弛緩剤は、用途次第で、患者を死に至らせることは、医師ならばみな知っているはずだ。投与しなければ、どうなっていたのか。この私の問いかけに対し、山中は、答えた。

「その辺が曖昧なんですよ。曖昧だから、限りなく安楽死に近い病死という形になると思います」

検察が不起訴とした背景には、筋弛緩剤が実際に死に繋がったのか否かを調べた、京都大学の鑑定書がある。鑑定では、投与した致死薬が、多田の息の根を止めたのかは断定できなかった。山中も、当時、覚悟を決めた態度で、検察に挑んでいたことを主張した。

「死が、司法の世界では点であって、その点が(法の枠組みの中で)許されないのであれば、起訴してくださって結構ですと言ったところ、検事さんが鑑定では因果関係が分からないと言ってたんです。そこで検事さんは、起訴すべきでない事例と捉えたんだと思います。我々は、生物学的死であっても、こういう患者さんの場合は、もう線で考えるんです」

この「点」と「線」については、後述する。改めて、山中に、一体どのような思いで、筋弛緩剤の投与を決断したのかを聞いた。その瞬時の思いに、私はむしろ関心を抱いた。

「あの時、なぜ筋弛緩剤がひらめいたかというと、いかに早く患者を穏やかな表情にしてあげられるか、ということに尽きます。死は寸前にある。だけど、1秒でも2秒でも、死を早められるなら(そうしたい)……。それが安楽死になり得るという思いはありました」

山中は、淡々と語っていた。

■地域医療は家族医療

そもそも、モルヒネの大量投入の後、抗痙攣剤を打っていたなら、自然にやって来るはずの死を待てば良かったのではないだろうか。だが、看護師の反対を押し切ってでも、彼はレラキシンの投与を決め、多田の死期を早める行動を選んだ。臨終間際の多田を囲む妻の叫びや、泣きじゃくる娘たちの存在が、彼を動揺させたという。

「あんたもう十分頑張ったじゃないの。もう頑張らんでええんよ!」

多田の妻は、病床で夫の顔を見つめ、そう語りかけたという。その横で、娘たちは、父親の手を握りしめていた。「地域医療というのは、僕にとって家族医療」と話す山中は、この光景を見て、「彼個人の動揺」を和らげる必要性に駆られたのだろう。

「死は、個人の自由という考えがあるのは分かります。だけど、個人だけのものではない。家族のものでもあります。その死に対して強い関係を持つ人たちはやはり家族でしょう。家族の表情というのを、僕らは絶えず大事にします。その時に絶叫があったんですね。これに僕の心が動揺しました。それで三人称の死から、二人称の死になったのです」

つまり、山中自らも医師ではなく、家族の領域に入ったと言いたいのだ。それは地域医療の最前線を担った医師にしか分からない領域なのか。多田は、地元土建会社で働いていた。医師と患者の関係以前に同じ共同体の住人同士という交流を持っていた。

「彼は若い頃、喧嘩っ早くてね。僕が当直の時、血を流している彼の顔の傷をよく縫ったりした。彼とはまさに20年来の友達でした」

私は長年、欧米で暮らしているが、彼の言うところの「死は個人だけのものではない」という日本社会独特の考え方に、私の日本人的なる部分が共感を示した。海外一年間の取材を通して、数々の「個人の死」を目にしながら、「家族は悲しまないのか」という同情にも似た疑念が頭にあったからだ。(後編に続く)

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宮下洋一(みやした・よういち)
ジャーナリスト
1976年、長野県生まれ。18歳で単身アメリカに渡り、ウエスト・バージニア州立大学外国語学部を卒業。その後、スペイン・バルセロナ大学大学院で国際論修士、同大学院コロンビア・ジャーナリズム・スクールで、ジャーナリズム修士。フランス語、スペイン語、英語、ポルトガル語、カタラン語を話す。フランスやスペインを拠点としながら世界各地を取材。主な著書に、小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞した『卵子探しています 世界の不妊・生殖医療現場を訪ねて』など。

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(ジャーナリスト 宮下 洋一)