Photo by Yoshihisa Wada

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30代半ばで街金から2億の借金

 出退勤の記録管理は、今はカードによる電子式がほとんどだが、昔はアマノ社製の縦長の厚紙を機械に差し込んで、「ガチャン」とタイムスタンプを押すのがほとんどだった。

 タイムカードを押す人たちを見ていると、「俺も一度は押してみたかったな」と思う。私は、大学を卒業してから77歳の今に至るまで、サラリーマンになったことがない、人に使われたことがない人生を歩んできたからだ。

「事業家人生」と書けば格好よいが、実際には、小さな成功に有頂天となっては失敗し、借金を背負うようなことの繰り返しだった。

 私は1940年5月に、山梨県甲府市に生まれた。63年に慶應義塾大学法学部を卒業するときには広告代理店から内定をもらっていたが、結局は父が経営していた精麦会社に入ることになる。

 60年代は高度成長期で麦を食べる人も減ってきて(「貧乏人は麦を食っていればよい」と暴言を吐いた首相がいたことをいまの人たちはご存知だろうか)、飼料業と倉庫業に転換した。倉庫業は農林省(現・農林水産省)の食糧事務所の指定倉庫業者に認定され、ずいぶん儲けた時期もあった。

 飼料工場は、労働集約型で生産性が低く、悪臭や騒音公害も発生した。そこで65年に全農(全国農業協同組合連合会)や山梨県経済連(山梨県経済農業協同組合連合会)と共同出資で、当時の最新鋭の高生産性、低公害の省力化工場を建設。社長は父だったが、プロジェクトの推進役は私で、実質的に私が仕切っていた会社だった。

 なにしろ最新鋭の工場であり、ある年など、山梨県の法人所得番付でベストテンに入るほど事業は好調だった。

 しかしこの会社には、大きな問題があった。農協側が資本の3分の2を握っているので、何をするにしても農協にお伺いを立てなければならない。山梨大学の先生と淡水魚の餌を開発して特許を取ろうとすると、「組合の理念から言って特許ではなく、広く公開されるべきだ」と反対された。

 手足を縛られ、自分の苦労が報われないような仕事にやる気も失せ、69年、つまり私が29歳のときに会社を辞め、銀行から1億円の借金をして高級オーディオショップを始めた。なにしろ当時、秋葉原の電気街を見れば高級オーディオが飛ぶように売れていた。しかも飼料工場が順調だったので、「俺には経営力がある」と舞い上がっていた。

 だが、これは浅はかな発想だった。そもそも高級オーディオが欲しい人は、甲府ならば皆、東京に出かけて買っていた。一方、普及価格帯の製品は、新興著しいダイエーなどの大型スーパーが売りさばいており太刀打ちできない。打つ手は後手、後手に回り、見る見るうちに資金繰りが悪化して、銀行には2年で見切りを付けられた。

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