京都に3代以上継続して住まう家の娘だけが名乗ることを許される、“京おんな”の呼称。

老舗和菓子屋に生まれ、葵祭の主役・斎王代をも務めた生粋の京おんな、鶴田凛子(26歳)

西陣で呉服店を300年以上営む京野家に見初められ、跡取り息子である京野拓真と現在婚約中である。

しかし式場も婚約指輪までも義母にすべてを仕切られる窮屈な結婚に、早くも疑問を感じ始めてしまう。

そんな時、凛子の前年に斎王代を務めた憧れの先輩・桜子が、どうやら婚約破棄をするらしいという噂を耳にする。




京おんな達の、小さな世界


河原町にある京都タカシマヤ。

実母からおつかいを頼まれたついでに(入籍前の凛子は、未だ実家にいる)2階フロアで春物パトロールをしていると、視界の端に見覚えのある輪郭を捉えた。

-あれ、もしかして…桜子さん?

凛子をはじめ、京おんなが買い物に出かける場所といえば、ここ、河原町のタカシマヤである。

京おんなたちは、とても小さな世界で生きている。

東は東大路から西は烏丸(行っても、堀川)まで。

少し話が逸れてしまうが、観光地として名高い嵐山も、京おんなにとっては西の外れ。

少し前に『アラビカ京都 嵐山』などができてインスタグラムを賑わせたが、流行に乗っているのはおそらく"よそもん”ばかりだろう。

御所を中心とした小さな正方形こそが“京都”であり、日常のすべてがそこで完結する。

したがって、街中で知り合いに遭遇することも、まったく珍しいことではないのだ。

-ここだけの話。桜子さん、婚約破棄するかもしれんらしい。ー

先日、親友・ゆりえから聞いた噂が頭をよぎる。

ドレスを物色している桜子さんに声をかけようか迷っていると、次の瞬間、彼女の大きな瞳に、バッチリ捉えられてしまった。

「凛ちゃん!久しぶりやねぇ」

よく通る、迷いのない声。

桜子さんが笑うと、周囲にパッと花が咲くようだ。

昔から変わらぬ屈託のない笑顔に凛子はホッとして、小さく手を振り返した。


憧れの女性、南條桜子と偶然の再会。婚約破棄の噂は、本当なのか


「凛ちゃん、この後は忙しいん?久しぶり過ぎて、立ち話だけじゃ足りひんわぁ。ゆっくりランチでもしたいけどなぁ…もし、時間あればやけど」

桜子に会うのは、彼女の実家の呉服店が開催した展示会に、親友・ゆりえと訪れた時以来。それももう、1年以上前の話だ。

それでも同じ世界で生きるもの同士、共通の話題などいくらでもある。

再会するなりマシンガントークを繰り広げていた桜子だったが、まだ話し足りないといった様子で名残惜しそうにしている。

凛子にとって桜子は学生時代からずっと憧れの存在であるから、そんな彼女の様子が素直に嬉しかった。

「大丈夫ですよ。私、いつでも暇やし(笑)」

そう答えると、桜子は「やったー!」と大げさに喜び、慣れた様子で電話をかけ始めた。

「祇園の『山地陽介』にしよか。二人やったら、今から入れてくれはるって」




桜子の本音


『山地陽介』は凛子も大好きなお店だ。木のぬくもりが感じられるモダンな店内は、自然と力が抜ける。

しかしこういう気兼ねない時間を過ごすことも、京野家に嫁いだが最後、難しくなってしまうのだろうか。

それを思うと、胸のあたりが鉛のように重くなる。

婚約者・拓真との入籍は、京野家の指定によりおよそ半年後の吉日に予定されている。

京野の家は下鴨にあり、もちろん同居が必須だ。

ただし、二世帯で生活するにあたり建て増しをするという先方の事情があって、新婚の2年間だけは御所南の新築マンションで生活することになっている。

…まあ、別居していたところで、義母の干渉からは逃れられないだろうが。

「凛ちゃん、婚約したんやって?京野さんとこと」

やはり、京都は狭い。

凛子が桜子の婚約破棄の噂を既に知っているように、凛子の噂も当然のごとく知れ渡っているのだろう。

「はい…でも入籍はまだ、半年後で」

なぜか言い訳をするようにして答える凛子に、桜子は言葉なく、静かに頷いた。

そして暫しの沈黙の後、ほんの少しだけ声を潜めると…あっけらかんとした口調でこう続けたのだ。

「…もう聞いた?私、婚約破棄したんよ」

「え…そう、なん...」

知っている、とはさすがに言えず、凛子は思わず視線をそらす。

「なぁ、凛ちゃん。誰かのこと本気で愛したことって、ある?」

間髪入れず、桜子が問いかけた。

それは、思いがけず胸を刺す質問だった。

「え…?」

人並みには恋愛してきたつもりだが、「本気で愛していたか」などと改めて問われると、過去のどの気持ちも温度感が満たない気がしてしまう。

…ただ、それを問題視したことがなかっただけで。

「私は…ないんよ。いつかはお見合いさせられて、親の勧める人と結婚する。それが当たり前の人生やったから。

もちろん、これまでにも何度かお付き合いはした。でも、いつもどこか冷めてたんよ。“どうせ結婚しいひんし”とか“この人やったら親も文句は言わんやろう”とか。

婚約破棄なんて…お相手の方にはほんまに迷惑かけて申し訳ないと思てる。そうやけど…」

桜子は、そう胸の内を零すように語り…一度、言葉を切った。

そうして彫りの深い、印象的な瞳で凛子をまっすぐに見据えると、こう続けたのだ。

「私…やっぱり、恋も知らずに終わりたくない」


「恋も知らずに終わりたくない」桜子の本音を聞いた凛子は、ある言葉を思い出す


大好きな父の言葉


-恋も知らずに終わりたくない。

東山にある実家へと車を走らせながら、凛子は桜子の言葉を反芻する。

桜子は、凛子より1つ年上、27歳だ。世間からすれば、いい歳をして何を言っているのかと笑われてしまう発言かもしれない。

しかし-。

凛子には、桜子の気持ちがあまりにも理解できてしまうのだ。

信号待ちで、ふぅと息を吐く。

凛子は、大好きな父の、ある言葉を思い出していた。




それはおよそ3ヶ月前。京野家との、お見合いの日のことだ。

「凛子、話がある」

FOXEYのワンピースに着替え支度を整えた凛子がリビングへ顔を出すと、父がそう声をかけた。

凛子の父は普段、冗談ばかり言って家族を笑わせている。

「なにー?お見合いやったら、ちゃんとやるから。大丈夫」

いつになく真面目な父と向き合うのが気恥ずかしくて軽く受け流そうとするも、父はソファに座るよう促す。

諦めて腰を下ろす凛子に、父は真剣な面持ちで、こんな言葉をかけたのだ。

「見合い相手に、恋愛感情を求めたらあかんで。結婚は生活で、生活は惚れた腫れたじゃ絶対に続かん。

…せやから、京野さんとこの拓真くんのこと。生理的にムリじゃなければ、受けて欲しいんや。生理的にムリな時はしゃあない。でも、違うんやったら。

お父さんもお母さんも、凛子に幸せになってほしい。できる限り苦労させたくないんや。京野さんのとこやったら、安心やから」

娘の幸せを心底願う、父の思い。

凛子は鶴田家の一人娘で、実は見合いの場では分が悪い。両親の介護が付いてくることが見えているから、男性側から敬遠される場合が少なからずあるのだ。

しかし京野家はそれも含めてぜひ、と言ってくれたようで、両親がこの縁談を進めたがっている気持ちが、凛子にも痛いほどわかっていた。

「…うん。わかった」

斎王代まで経験させてもらい、余りある愛を受けて大切に育ててもらった。そのことがわかっているからこそ、両親の期待に応えてあげたかった。

応えるべきだと、思った。

『京都ホテルオークラ』のラウンジで初めて顔を合わせた拓真を、凛子は「悪くない」と思った。

鼻筋の通った醤油顔。話し方や立ち居振る舞いに、変な癖もない。

別に、悪くはない。嫌いじゃない。

だから、父の言葉に従い、嫁ぐことに決めた。

…ときめきや恋心は、微塵も感じなかったけれど。

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恋心のない相手との結婚。エスカレートする義母の干渉を、凛子は乗り越えられるのか。